導く乙女と箱庭の王子たち
猫屋ちゃき
序章 乙女は学びの道をゆく1
うららかな春の空の下に、蹄が地面を蹴る軽やかな音が響いていた。
木漏れ日がキラキラと差し込む並木道を行くのは、芦毛の美しい馬と少年――に見える少女。
さっぱりしたジャケットとキュロットに身を包んでいるけれど、馬上のリアはれっきとした女の子だ。
ワケあって、リアは兄の子供の頃の服で男装している。金茶色の長い髪も束ねて帽子の中に隠してしまえば、完璧に小柄な少年に見えてしまう。宝石のような緑の瞳を収めた目がややくりくりとして愛らしさが強いけれど、こういう少年がいないとも言いきれないというくらいの出来栄えだ。
「こんにちは。お疲れ様です」
緩やかな並木の坂道を上りきると、城門の衛兵にリアは声をかけた。
「おお。アールステット卿のところの。今日も図書館で勉強ですか」
「はい!」
「感心感心」
口ひげをたくわえた人の好さそうな衛兵は、顔見知りのリアに笑顔で門を開けてくれた。日頃父や兄たちが城内に出入りしているため、こうして姿を似せていると血筋で入れてもらえる。アールステット公爵家の三男坊(・・・)は今日も勉強熱心でよろしい、と思っているのだろう。
ゆるいなあとリアは心の中で思うけれど、ここヴィカグラマルク王国は平和そのものなのだから仕方がない。
ヴィカグラマルク王国は、大陸の中央に位置する小国だ。
大陸を北西に走る山脈と南東に走る山脈に挟まれているため、冬も比較的に温暖で、夏の暑さも過酷ではない。飢えも渇きも知らないせいで、国民性は穏やかでおっとりしている。
でも、もう少し危機感があってもいいはずだとリアは考えている。
北側の山脈の向こうには魔術大国であるグロヘクセレイ、南側の山脈の向こうには武力国家であるアブトカハール帝国がある。つまり、ヴィカグラマルク王国は大国に挟まれているということだ。
その二国が睨みあっているため、この国は平和だと国民の多くが信じている。グロヘクセレイが攻め込んでくれば、それに乗じてアブトカハール帝国がやってくるだろう。その逆も同様だ。
だから、喧嘩したくない大国ふたつに挟まれていれば安全に違いないというのが、ヴィカグラマルク人の考えなのである。
それに、自然豊かで温暖な土地とはいえ、ヴィカグラマルクの国土は狭い。大国どちらかの食糧庫を担うほどの生産性はないため、わざわざ狙われることもないのだ。自分たちを飢えさせない程度にしか農作物が穫れなくてよかった、と国民たちは思っている。
でも、リアはあるとき気がついた。「じゃあ、いざ攻めてこられたらどうするの?」と。
平和そのもののヴィカグラマルクは重く扱われる理由はなく、だからといって守り戦う力もない。
今現在、歯牙にもかけられていないだけで、いざ攻め込まれたら瞬きする間に陥落する弱小国だ。今、攻めてこられないというだけで、未来永劫そうである確証などない。
それなら、もしものときに備えることは必要ではないかとリアは考えている。
でも、残念ながらリアは女の子だ。代々宰相を務めるアールステット公爵家の子供だし、馬にも上手に乗れる。おまけに、頭も悪くない。そうはいっても、女の子なのだ。
女の子のリアに求められているのは、令嬢としての教養と嗜みを身につけ、しかるべきところへ嫁ぐことだけ。女には女の世渡りがあるのだから、学問に傾倒する必要はないと言われている。
だから、リアはこうして男装をして王城の図書館にコソコソとやってくるのだ。
「じゃあディアナ、お利口さんに待っててね」
愛馬を手近な木にくくりつけると、リアは図書館の中へと入っていった。国内最大の蔵書数を誇る知識の保管庫に何の警備もないのは、おかしいと思う。でも、そのおかげで本が読み放題で助かっているのだ。
王城内のこの図書館は、館というより縦に伸びる塔のような形だ。
その中央を床から最上階まで貫くように螺旋階段がそびえている。白い石造りの階段をせっせとのぼって、リアは最上階のひとつ下の階へとやってきた。
そこは、主に他国から持ち込まれた本が並んでいる。リアはある棚まで歩いていくと、迷いなく一冊の本を手に取る。
『暮らしの中の光』という、ヴィカグラマルク語に翻訳された貴重なグロヘクセレイの本だ。いつのときか何気なく手に取ったその魔術の本は、すっかりリアの愛読書になっている。
「――指先に星屑を」
小さく呪文を唱えると、リアの指先にポツリと小さな光が灯った。その光のおかげで、北向きの図書館の中でも、文字を追うのはつらくない。
これはリアが一番最初に覚えた初歩的な魔術で、この本を愛読するきっかけだった。
『魔術とは本来、人々の暮らしを楽にするための素敵なものです。暗いところに光を、暖を取りたいときに火を、喉が渇いたときに水を……と、不自由や不便をほんの少しなくしてくれる優しいもののはずです』
この前書きを読んで、リアは魔術に対する印象が変わった。それまでリアは、魔術は強大で、圧倒的で、恐ろしいものだと思っていた。それに傲慢で怠惰だとも、少しだけ思っていた。
でも、実際に自分で魔術を使ってみて、それは違うとわかったのだ。
『もしこの本をお読みの方が明かりの足りないところに今いるのでしたら、こう唱えてみてください。「指先に星屑を」と。満天の空から小さな星が、あなたの指先にそっと舞い降りるのを頭に思い浮かべながら。どうですか。明るくなりましたか。これが魔術です。魔術はこの小さな星のように、あなたの人生を明るく照らすものなのです』
この前書きを読んで、自分で実際に魔術を使ってみて、リアはすっかり夢中になってしまった。まさか使えるとは思っていなかっただけに、指先に光が灯ったときは、それによって手元が明るくなったときは、何ものにも変えがたい喜びがあった。
そして、気がついたのだ。
この王国には、魔術が必要だと。
ヴィカグラマルクは、たしかに豊かな国だ。でも、力はない。それを求める貪欲さもない。そのあたりを魔術が補ってくれるのではないかと、リアは考えたのだ。
危機意識を持て、いざというときに備えろ、といってもヴィカグラマルクの人々には通じないだろう。
それなら、「生活をちょっとだけ便利にする」という名目で少しずつ魔術に慣れさせ、広めていくのはどうだろうかと考えている。
初歩的な魔術が生活の中に根づいていけば、いずれもっと深く探求する者も出てくるに違いない。それはやがて、必ずこの王国の力になる。
そのためにまず、リアが指導者になれるよう、独学で学んでいるというわけだ。
本当なら、グロヘクセレイから指導者として何人か魔術に精通した人を招くべきなのだろう。でも、今のリアが進言しても誰も聞き入れてくれないのはわかっている。
だから、いずれ提案するために、立派に魔術を使いこなせるよう練習に励む日々だ。
「使用者それぞれが持っている属性によって得意とする魔術が違うっていうけど……その属性がわからないと何とも言えないわ」
火や水を操る簡単な魔術に関する内容を読み終え、風や土について学び始めたリアだったけれど、進み具合は芳しくない。
魔術がうまく扱えない場合、理由は大きく二つあると本には書いてある。自分の属性と使おうとしている魔術の属性が対極にあるため難しいからか、うまく頭の中で想像できていないからか。でも、自分の属性を知らないリアには、その見極めができない。
それが、独学の厳しいところだった。
「リア様! カーリア様!」
何度も何度も、風を生み出すための呪文を唱え、うまくいかずに歯噛みしていると、野太い声がリアを現実に引き戻した。
バタバタと慌ただしく階段を上ってくる足音も聞こえてくる。
「ダニエル、どうしたの? またお母様が怒ってるの?」
棚に本を戻しながら、階段を上りきって肩で息をする従者にリアは問う。
リアが最も警戒しているのは、母のエルヴィーラだ。彼女は美しさと教養で公爵夫人の座を射止めたため、誰よりも娘であるリアの教育にうるさい。「女には女の政治への参加の仕方があるの。女にしかできないその方法を学んで、将来夫を支えることが何より大切ですよ」というのが口癖だ。
不在に気づいて、また母が騒いでいるのかと考えてリアはうんざりとした。暇さえあれば、お茶会などの女性の集まりに連れ出そうとうるさいのだ。
「いえ、奥様ではなく旦那様がお呼びなんですよ。とてもご機嫌でしたので、きっと良いお知らせでしょう。それと、ダニエルではなくダニエラとお呼びくださいな」
乱れた髪とドレスの裾を直しながら、ダニエルもといダニエラは言う。リアの従者である彼は、リアが男装をして図書館に通いつめるようになってから女装するようになった。知らない人にはリアの女家庭教師で通したいらしい。
「……毎度思うけど、よくその姿で衛兵さんは門を開けてくれるよね。まあ、あなたが目立ってくれてるおかげで、私は目立たずにすんでるんだけど」
令嬢姿で王城や図書館に入るのを誰かに見咎められたくないリアとしては、万が一のことを考えるとダニエラが目立ってくれているのは助かっている。ダニエラが隣を歩いていれば、リアの印象などないに等しい。
「そんなことよりリア様、急いで戻りましょう。リア様は今、“ご近所で乗馬中”ということになっているんですから。それに、旦那様の前に出るのならお召し替えをしませんと」
「そうね。……ダニエラ、ありがとう」
従者とは、本来なら主人に常に付き従うものだ。それなのにダニエラは、リアのアリバイ工作のために別行動をしている。そのことできっとこうしてリアを迎えに来るとき、エルヴィーラや誰かしらに小言を言われているだろうに、リアのお礼の言葉にダニエラは「ふふふ」の笑っただけだった。
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