ぐるぐるからの脱出

恵瑠

第1話

 ジリリリリリリリリリ。ジリリリリリリリリ。

 けたたましく音が響いている。

 あたしがいる場所からは見えはしないけれど、この音には毎日うんざりさせられている。大体、ご主人さまはこの音をすぐに止めるような人ではないのだ。いつまでもいつまでも音を響かせ、どうにかして起きずに済ませられないかと寝ぼけ眼で考えているような人なのだから。

 既に音が響き始めてから十五分は経過していた。その間あたしたちは叫びたいのを我慢して、ひたすらご主人さまが音を止めるのを待つしかないのだ。

 最近は、一度止まって、五分後にまた鳴り始めるという便利な時計があると聞いたことがあるのだが、あたしのご主人さまは中学生の頃から愛用しているという、このうるさい目覚まし時計を今でも使っていた。

 でも、そろそろ……? あたしが心配していると、案の定だった。

 ドンッドンッ!

 アパートの隣りの部屋から壁を蹴る音が聞こえてきた。それも今日は二回連続で。さすがにここまでくると、あたしのご主人さまも音を止めなければならないと思うらしい。蹴られる前に止めれば済むものを。そう思ったと同時に音が止まった。

 ようやく静かになった寝室から続くリビング。そのリビングのあたしが見える位置に、ご主人さまがのっそりと、本当にのっそーりと現れた。

 ご主人さまを庇うわけではないけれど、普段のご主人さまは、まぁ「イケメン」と呼ばれる中に入るとあたしは思っている。けれども、この朝起きたばかりのご主人さまは、人様に見せられるようなご主人さまではない。生気がないというかなんというか。起きたばかりだというのに、既に疲れ切った顔をしており、一日の始まりの清々しさは全くない。

 最近はとても仕事が忙しそうだし、帰宅するのはほぼ午前様。接待などで遅くなる場合もあるようで、そういう時は冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターだけを取り出し一気飲み。それからシャワーを浴びて、すぐにベッドにダイブということが多い。疲れているのも分かるけれど、ちゃんと食べているのかしら? と心配になる。

 ご主人さまは先月二十八歳になった。社会に出て五年になる。このアパートに住み始めたのも、仕事を始めて一人暮らしを始めたからで、その時からあたしはここにご主人さまと共に住んでいる。一人暮らしのためにと、ご主人さまのお母さまが、あたしをここへ送ってくださったのだ。

 けれど正直、あたしはあたしの務めを果たせないことに屈辱を感じてもいる。こんなことなら、別のご主人さまのお宅に行きたかった。これまで何度もそう思ってきた。けれど、これも運命。あたしにはどうしようもないことだ。

 ご主人さまはぬぼーっとした様子で冷蔵庫くんの前まで歩いてくると、おもむろに冷蔵庫の扉を開いた。髪の毛が逆立っている。この姿を見ている限りでは「イケメン」には程遠い。

 と、ご主人さまが「ちぇっ」と舌を鳴らしたのが聞こえた。

「ちぇっ! 何にも入ってないじゃん。水くらい買ってきとけば良かった」

 あぁなんということ! 水すら入ってないなんて! 冷蔵庫くんもため息を吐いているのが見え、あたしは密かに「元気だして」と声をかけた。

 ご主人さまはあたしたちの前から離れると、洗面所の方へ向かった。水の流れる音が聞こえてくる。歯を磨き、ひげを剃り、社会人としての身だしなみを整えているのだろうと推測する。髪の毛が撥ねたまま会社には行けないものね。そう思いながらも、朝食を抜く! なんて、ダメ人間がやることよ! と心の中で毒づいた。

 あたしはお説教したい気持ちでいっぱいだったけれど、やはり黙ってご主人さまを見つめるしかない。ご主人さまは洗面所から出てくると、部屋を横切り寝室へと向かった。今度はスーツに着替えるのだ。

 その時、明るい軽やかな音が聞こえた。この音楽はよく耳にするけれど、こんなにも朝早くから聞いたことは未だかつてない。おまけに、寝室へと入って行ったご主人さまがワイシャツのボタンを留めながら慌てて部屋を飛び出して、テレビの横に置いてあったその物体を掴むことの早いのなんの!

「あ、おはよ。うん。いい天気だね! え? マジで? いいの? うわぁ、楽しみだなぁ」

 珍しく弾んだご主人さまの声。この声から察するに、相手はご主人さまのお母さまではない。ご主人さまは、お母さまの電話にはとても冷たく対応するのだ。最近は「お見合い」という言葉をよく聞く。おそらくそれが、お母さまに対する冷たい態度の原因らしいことを、あたしたちは察していた。

「今日? 全然大丈夫! あ、でも、うち何にもないけど。今、冷蔵庫開けて空っぽだったことに驚いてたとこでさ」

 電話の向うからクスクスと笑う声が聞こえる。その笑い声がまたご主人さまのテンションを上げて行くのが分かり、あたしたちは電話の相手が女性なのだと感じた。それも、ご主人さまにとってはとても大事な女性なのだと。

 ご主人さまはそれきり会話を終えたので、それ以上のことを推測することは出来なかったけれど、その電話を受けた後、ご主人さまの「見えないスイッチ」が「オン」になったのだけは理解できた。何と言っても鼻歌が始まり、ビシッとスーツに着替えたご主人さまの胸元を飾るお気に入りのブルーのネクタイがその証拠。

 そう言えばここのところ、このブルーのネクタイを結ぶ回数が増えているような……?

 ご主人さまは見るも無残な姿から、立派な「イケメン」に早変わり。そして足取り軽く玄関へ進むと、あたしたち以外誰もいない部屋に向かって「行ってきまーす!」と声をかけて出かけて行った。さっきの「行ってきまーす!」には、とても楽しげなリズムとハートが飛び交っていたような気がしたのはあたしだけではないはずだ。

 ご主人さまが出かけると、この部屋ではあちこちでおしゃべりが始まる。これは人間には絶対に聞かれてはならないあたしたちの秘密。一応断っておくならば、ご主人さまのことをお互いに共通理解しておき、何か事が起きたときに対処できるようにという配慮からのものだ。とは言っても配慮するだけで、あたしたちは動くこともままならないのだけれど。

 最初に声をあげたのは先程までけたたましく音を響かせていたあの目覚まし時計だった。あたしの位置から目覚まし時計は見えないけれど、声だけは聞こえてくる。

「あーくん、ご機嫌やったなぁ」

 付き合いが古いだけあって、この目覚まし時計だけは、ご主人さまを「あーくん」と呼ぶ。それはあたしたちが知らない、遠い地で暮らしてきたご主人さまを知っているからこその権利のように思え、あたしたちは敢えて訂正はしない。この家に住む家電の中でも一番の年よりだということも分かっているからこそのことでもある。

「あれって彼女が出来たってことじゃないのぉ?」

 リビングのテーブルの上にのっかっているティファールのポットが言う。お澄ましのポットらしい言い方に、あたしはちょっと苦笑した。

「楽しみって、何が楽しみなんだろう?」

 冷蔵庫くんは不思議そうにそう言って、寒そうに身体をぶるぶると震わせた。

「ご主人さま、最近買い物もしてこないんだもん。僕の身体の中は空っぽさ。おかげで寒いったらありゃしない。お酒を飲むための氷だけは入っているけど、それだけなんだから」

 冷蔵庫くんは相当不満が溜まっているらしい。そりゃあ、あたしだって言いたいことは山ほどある。けれど、不満を言っても仕方がない。

「さっきの話しからして、ふああああ。……今晩彼女がここへ来るんじゃないか? ふあああああ」

 そう言い出したのは半分眠っているテレビくんだ。テレビくんはご主人さまに「リモコン」でスイッチを入れてもらわない限り起きることが出来ない。だからこの時間帯はいつも眠そうにあくびばかりしている。

「そうよ! そうに違いないわ! 私、どう? どこか汚れているところはない?」

 ティファールのポットは、腰をくねらせて自分の身体を見回しているようだ。汚れていたとしても、誰も動けないのだからどうしようもないというのに。あたしはやっぱり苦笑してしまう。

 もしも彼女さんが来てくれたなら……? そう考え始めたあたしは、つい浮わついた気分になりそうになり気を引き締めた。これまでだって「もしかしたら……?」と期待したことが何度かあった。けれどそのたびに、その期待は裏切られてきたからだ。

「あたしたちが期待しても何にもならないわ。それより、ご主人さまが帰ってみえるまでひと眠りしましょう? もしお客さまが見えるとするならば、いつも以上にきびきびと働けるパワーを溜めておかなければ」

 あたしが提案する以前に、リビングの奥からは既にイビキが聞こえてきていた。テレビくんが眠気に勝てなかったのだ。ティファールのポットも、自分ではどうしようもないと思ったようで、静かになった。冷蔵庫くんも微かな音をさせながら眠りに入ったようだ。あたしもちょっとだけ期待に胸を膨らませつつ、おとなしく眠ることにした。

 コチコチコチ……と、部屋には、目覚まし時計のおじいさんの音だけがこだましている。


 どれくらい眠っていただろうか? 玄関に鍵が挿しこまれる音がし、その音であたしたちはハッと目を覚ました。部屋の中は薄暗い。けれど、玄関からスリッパの音が聞こえてくるのに気づいた。普段、ご主人さまはスリッパなんて使わない。使うのは特別なときだけだ。それもご主人さまだけではない足音が聞こえる。あたしたちは息をひそめ、ご主人さまと「誰か」が現れるのを待った。ほんのわずかな時間ではあったけれど、期待に胸躍らせるあたしたちにはその時間がとても長く感じられた。

 ご主人さまが照明のスイッチをいれたと同時に部屋がぱああっと明るくなり「わぁ、一人暮らしって言うから、もっと散らかってるイメージだったけど、キレイにしてる!」という若い女性の声が聞こえた。その声に、ご主人さまが照れ笑いをしているのが目に入る。ご主人さまの横には、白いブラウスにブルーのフレアースカートの女性が立っていた。目元がくりんとしていて丸顔。あどけない表情が幼さを感じさせた。これまでのご主人さまの彼女さんたちとは程遠いイメージだ。

「ご主人さま、やるぅ! 年下ゲットォ!」

 冷蔵庫くんがあたしにだけ聞こえるように言ったけれど、あたしは冷蔵庫くんを睨みつけた。あたしたちの話し声がご主人さまに聞こえたら大変なことになる。

「じゃあ、あーくんは着替えてテレビでも見てて。簡単なものしか作れないけど、今日の晩御飯は私に任せて!」

 ガサガサと白いビニール袋を持ちこんだ女性は、キッチンに立つと袋から様々な食材を取り出し始めた。それらを慣れた手つきで冷蔵庫くんの中に詰め込んでいく。冷蔵庫くんは久々に食材で満たされることに満足して歌いだしそうな雰囲気だったので、ここでもあたしは睨みを利かせた。冷蔵庫くんは「分かってるって」と目配せしてくる。

「ハルカ、手伝うことある?」

 Tシャツにジーンズというラフな格好に着替えたご主人さまがキッチンへ現れた。いつもはジャージだけれど、今日はさすがに彼女の手前恰好つけたいらしい。

「あーくんはいいの! 今日は私が作るの!」

 ハルカさんはご主人さまの背中を押してキッチンから追い出すと、色とりどりのパプリカや玉ねぎ、鶏肉を取り出した。使い勝手の分からないキッチンのあちこちを開いたり閉じたりしながらお目当ての物が見つかったらしいハルカさんは、黒い物体にキッチンペーパーを敷き、そこに塩コショウをした鶏を置くと、その周りに野菜を敷き詰めた。

「トマトを入れると彩が良くなるから、ミニトマトも焼いちゃお」

 楽しそうに料理をしているハルカさん。そしてあたしの大きな口を開くと、その黒い物体をあたしの中に入れてきた。なんだか懐かしさを感じる。よく見ると、ここへ来る前にお店で入れていたことがあるオーブン専用プレートだということが分かった。

 嘘でしょう? オーブンプレートを使ってくれるなんて! それに、それに! レンチン以外であたしが働けるチャンスが来るなんて! あたしは自分の身体が徐々に熱くなるのを感じつつ、涙が出そうだった。ここに来て以来「オーブン機能」を作動させたことがなかったあたしにとって、お弁当温め以外の仕事が出来ることが嬉しくて仕方がない。ここに来て初めて、あたしはあたし本来の仕事をさせてもらえているのだ。その喜びで、既に胸がいっぱいになっていた。でも、泣いてはいけない。せっかくのお料理を水浸しにするわけにはいかないのだから。

 あたしの中ではパチパチと油が跳ねる音や、ジュワジュワと鶏が焼ける音がし、部屋中にいい匂いが漂い始めた。テレビくんは「リモコン」でぱっちりと目覚め、この香りを楽しんでいる。

 ハルカさんはあたしを作動させている間に、スープを作り、サラダ用のレタスをちぎったりとキビキビと働いていた。ご主人さまより年下だというのに、なんという手際の良さ。ご主人さまはというと、テレビくんを見るふりをしながら、こちらをチラチラと眺めてニヤニヤと笑っている。

 彼女の手料理なんて、ご主人さまには初めてのことだろう。

 以前付き合っていた彼女は、それこそ「レンチン」しか出来なくて、あたしは期待していただけにがっかり感が大きかったことを覚えている。その彼女とは、ほんの数か月のお付き合いで終わったようだけれど。

 ご主人さまとハルカさんが部屋に入って一時間もしない間に、リビングのテーブルのセッティングも終わり、二人分の食器が並べられた。こんな食器あったかな? そう思ったけれど、きっと今日のためにご主人さまが買ってきたのだろう。ペアグラスまで置かれたそのテーブルの真ん中に、ハルカさんはあたしの中でしっかりと焼き上がった鶏を大皿に盛りつけて置いた。鶏の周りには程よく焼けた野菜が彩よく飾ってある。

「うまそー!」

 ご主人さまはテーブルの上を見ただけで満足そうに笑った。そんなご主人さまを見て、ハルカさんも嬉しそうだ。

 二人はとっておきだというシャンパンを開けるとペアのグラスに注ぎ「乾杯!」とグラス同士を当てて軽い音を交わした。

 そこからは、もう二人だけの世界だ。

 そう、私たちは二人の邪魔にならないように。二人の熱気に当てられないように、また静かに眠りにつくことにした。それはあたしたち家電の暗黙の了解。


 この日以降、ご主人さまに対するあたしたち家電の不満はかなり減った。全てハルカさんのおかげだ。そして二人は今、新しい家を探している。その家のために、ご主人さまは「新しい家電を買おう」と言い、あたしたちは捨てられることを覚悟しなければならないと話し合いを重ねていた。けれど意外にも、ハルカさんは「もったいない」と言い張った。「あーくんちの家電、ほとんど使ってないも同然だもの。あーくんの家電で十分!」そう言ってくれたのだ。

 こうしてあたしたちは、全員無事に新しい家へ運ばれていくことになった。テレビくんも冷蔵庫くんも、ティファールのポットさんもあたしも。もちろん目覚まし時計のおじいちゃんも。

「ねぇ、ハルカ、せめてテレビだけでも、もう少し大きいのに買い換えない?」

 そのご主人さまの発言に、テレビくんはドキリ! としたようだけれど、ハルカさんはあっさりとそれを却下した。

「無駄遣いしないの!」

 その一言でご主人さまはもう諦めざるを得ないようだった。

 あたしたち家電はハルカさんに頭が上がらない。でもそれはあたしたちだけでなく、どうやらご主人さまも同じようだ。

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ぐるぐるからの脱出 恵瑠 @eruneko0629

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