第3話

 目に入ってきたのはフィンガーサイズのクッキーで、意図せずこうなったと言わんばかりの形をしている。

 なんだかいやな予感がしたが、ぐいぐいとクッキーを口元に持ってこられて、思わず満夜は口を開けた。

 ぎゅむっと押し込まれて口を閉じると、なんとも言えない味が口中に広がった。しょっぱくて粉っぽくてざらざらしている。慌ててお茶でクッキーを流し込んだ。


「自信がなくって……お姉ちゃんほど上手じゃないですから。初めて作ったクッキーなんですけどどうですか?」


 食べられないほどではないし、こういうクッキーなのだと思えばそうかもしれない。ただ残念なのは最高にうまいクッキーのあとだったと言うことだ。


「まずくはない……」


 気をつかったわけではないが、思わずそんなことを口走っていた。


「じゃあ、芦屋先輩、どんどん食べてくださいね!」

「う、うむ……」


 図らずも自分をしょっぱい地獄に落としてしまった満夜が、大量のお茶を消費したのは言うまでもない。




「ふぬう」


 今度は教科書を睨みつつ、満夜はうなった。満夜が一番苦手とするのは数字の羅列だ。まだ日本語で書かれている方が理解できる。

 その反対に薔薇だとか、鬱だとか、こういう厨二病的な漢字はすらすら書けてしまう。


「満夜、なんかわからんとこあるのん?」


 教えると言った手前か、しょっちゅう凜理が話しかけてくる。確かにわからないところはあるが、ありすぎる上、どこからわからないのかすでにわからない。

 あれほどわからないことがあったら教えてくださいと言っていた菊瑠でさえも、黙々と勉強していて、質問することなどなさそうに見える。


「数学は満夜は中学ンときから苦手やもんなぁ」


 凜理がしみじみとしながらのたまう。


「う、うるさい」


 汚点をさらされたような気がして、満夜は恥ずかしくなってきた。


「芦屋先輩」


 いきなり菊瑠が顔を上げた。


「数学はなぞなぞです。決められた式で解けば問題ありません。それに数学は記憶すれば基本的な部分は解けます! 芦屋先輩は理数系の大学に行かれるんですか?」

「むぅ」


 大学のことなど考えたこともない満夜は答えに困った。さっきも凜理に大学の話をされたばかりだ。


「芦屋先輩は民俗学があうと思いますから、数学は基本的な物だけでいいと思います!」

「うちもそう言うねんけど、満夜が話を聞かへんの」

「芦屋先輩は頭がいいですから、数学も複雑に考えすぎなんだと思うんです。要は過去問を覚えればいいんです」

「過去問……一学期の中間テストは大体一年の復習やからな……ちょっと待ち」


 そう言って、凜理が自分の机の中からバインダーを取り出した。


「なんなんだ、それは」


 満夜も不思議に思ってバインダーを見つめた。


「うち、一年からのテスト問題とっとるねん」


 と言って見せたテスト用紙には赤丸がこれでもかと付けられている。もちろん平均点よりも上だ。


「そ、そんな眩しい物をオレに見せるな! 目が潰れる!」


 満夜は本能で危険を察知して目をそらした。


「あほなこと言わんといて。目が潰れるんなら、テスト及第点取ってからにし」


 そこからは日が暮れるまで、数式を覚えられるだけ覚えさせられた満夜だった。




 一通り一学期に終えた授業の部分までやってしまったときにはすっかり日も暮れて、時計の針は八時を回っていた。


「うちの学校の赤点、三〇点やから少なくともそれいじょうは取ってもらわなアカン。頑張ってや」

「じゃあ、わたし帰りますね。芦屋先輩、またお菓子作ってきますね!」

「うむ。気をつけて帰るのだ」


 またあのしょっぱいものを食べさせられるのかと思うと、なぜか哀しみに包まれてしまう。


「できれば、姉上のお菓子も所望する」


 断ると可哀想という気持ちもあって、プラマイゼロになる方法を思いつき、満夜は別れ際に付け加えた。


「はい、お姉ちゃんに頼んでみます」


 公園まで菊瑠を送ると、てくてくと暗い夜道を凜理と一緒に戻っていった。


「満夜がうちに泊まるの、中学ぶりやな」

「不本意だがそうなるな」

「うちの部屋に布団敷くし、お風呂先に入ってええよ」

「ぬ。ではそうさせてもらお……いや、一緒の部屋は良くない」


 満夜は正気に戻って制止した。それまで年頃の娘二人の瘴気に当てられて頭に血が上るか何かしていたようだ。

 当たり前のように凜理の言葉を受け入れるところだった。


「いかん、女子供と同じ次元でいることなど許されることではない」

「聞こえてるで」


 独り言のつもりだったが、静かな夜道で隣を歩く凜理には筒抜けだったようだ。


「心身を研ぎ澄ますためには一人でいるほうが良いのだ」

「ははぁ、さては恥ずかしいんちゃうのん? いとこ同士なのに今更恥ずかしいとかおかしいやろ。小学生の頃まで一緒にお風呂に入っとったやん」

「それは低学年のまだガキの頃だけだ! 大人になった今は一緒にはいるなどなどなど……」

「誰もお風呂に一緒に入りたい言うてないわ!」


 ぱこーんといい響きのツッコミが満夜の胸に入った。


 遅い時間だが、よその家ではまだ夕飯の時間のようだ。ぷーんといい匂いが道に漂っている。


「よその家ではカレーらしいな」


 ところが、隣の凜理が急に黙り込んだ。


「どうしたのだ」


 覗き込むと、ジュルジュルと涎が垂れるのを必死に我慢している凜理がいた。

 クンクンと宙を嗅げば、かすかにサンマか何かが焼けた匂いがする。


「にゃあん!」


 凜理が顔を上げて叫び、黒髪の間からピンと猫耳が飛び出した。


「いかん。凜理、落ち着くのだ!」


 満夜は今にも駆け出しそうな凜理の手を強く握りしめて、家まで引っ張っていった。

 その頃には耳も引っ込み、鼻息が荒かった凜理も落ち着きを取り戻した。


「ふう、おなかすいてるときの焼き魚は強烈やな」

「ヒヤヒヤしたぞ」


 放っておいたら窓から勝手に侵入して、よそのお宅のお夕飯を口にくわえて逃げそうな勢いだった。

 そんなことを言いながら、玄関を開けたら、途端に家中に広がる干物の魚を焼く匂いが凜理を直撃した。


「にゃにゃにゃ!」


 満夜の手を振りほどき、凜理は素早くダイニングへ走って行った。

 あとは想像に任せる……。




 骨までしゃぶり、なおも魚から離れない凜理を前に、凜理の家族はすっかりなれている様子だ。小学生のときからこんなふうではなれない方がおかしいのかもしれない。でもスルメのときは凜理がマジでおかしくなったので御法度になってしまったが。

 そのうち猫でも飼ってしまい、うっかりマタタビで酔い潰れてしまう姿を披露しかねない。


「凜理、そろそろお風呂に入りなさい」


 美千代が話しかけると、凜理は名残惜しそうに骨を置いた。


「満夜、先に入ってええよ」

「そうね、女の子はお風呂が長いから、満夜くん先に入ってくれるかしら?」

「うむ。おばさんもそう言うならば、先に頂戴しよう」


 着替えを持つとさっさと風呂に入り、凜理と交代した。

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