第3話 ララとラララ
「そもそも挨拶が」
父はそう言って兄を責めた。
「挨拶なんて誰もしない!」
黙り込む兄の代わりに、僕が異を唱えた。夜が明けても、年が明けても、親しくても新しくても、疲れても疲れていなくても、先輩も後輩も、何も告げずに行ってしまう。何も告げずに、
「行っちまうんだ!」
自分に酔いながら言葉を足した勢いで家を出た。特別に行くべきところもなく、近所の家の玄関を潜る。
「挨拶にきました」
「挨拶だけなら帰ってちょうだい!」
けれども、中に寿司があるのが見えたので、無理を言ってお邪魔した。姉の隣に座り、寿司をいただく。家に置いてきた兄や父のことが気にはなったが、それにも増して寿司が旨かった。つい数分前に喧嘩したことも、寿司の旨さが帳消しにしてくれる。寿司を考えた人、寿司を作った人、この場所に僕を置いてくれたおばちゃん、すべての人に感謝したいような気持ちにもなる。どのネタも、みんな外れなく旨かった。口に入れた瞬間に旨く、口から消えた後になっても、旨さが尾を引いた。
その内、父もやって来た。兄も黙って寿司を食べていた。たらふくごちそうになった後には、ケーキとお茶までもいただいた。さて、トランプでも、とおばちゃんが言って、それとも寝るかと訊いた。
「寝る」
姉が即答した。
「うさぎタクシーは一番安いんだけど、町を回って、途中で餅を配るのよ」
「そんなの嫌だ!」
叫んだ勢いで惑星を飛び出した。我に返ると再び地に足がついていた。
公園の中で眠ろうとすると犬に追われた。簡単に眠らせてもらえると思うのが甘い。どこにでも、テリトリーというものがある。家にいる限りは、ずっと気づけないことだった。滑り台の横には、大きな玉葱が佇んでいた。
透明化された玉葱の中に身を置いた。プライバシーと引き替えに身の安全が保たれている。散歩する人々によって、それなりの視線が投げかけられる。彼らに見えているのは、特別な野菜か、中に身を置く人の姿か。あるいは、何も映ってはいないのか。涙腺を刺激する成分が、ブランコあたりから放出されている。思い出して泣いてもいい。自身より、別の素材のせいにできることは、少し気の休まることだったから。
エキストラとして立っていると主演の女がキスをしてきた。何も聞いていなかったのでどう反応していいかもわからず、何も演技らしい演技ができないままただ棒立ちになっていた。間もなく主演のかっこいい男がやって来ると、僕は捨てられた。短い夢が終わると次の現場へと急行する。「動きやすい格好で」と言うので、色々考えてパジャマを着ていた。
「コラッ! なめてんのか!」
監督にすごまれたので、部屋に引き返してジャケット姿で戻ると今度は硬すぎると言う。
「君、南瓜を運ぶことがわかっているのかね? 汗だってかくんだからね」
吸い取るような素材を着てきなさいと監督は言った。
バスの中で女は東京行きのルートについてみんなの声を聞いていた。混雑する車内でも、親身になって相談する人が多くいたのは、女の持つ少し頼りなげな容姿のせいだったのかもしれない。夜を越えて走る運転手がたった一人では大変、とラジオからDJが語る。本筋本町では、より多くの人々が乗り込んで来た。ハンドルのすぐ横にまで押し込まれる先客。
「で、どこに行くの?」
おおよそ話は聞いていたけど、聞いていない風にして話しかけた。代々木までと女は答えた。
「新幹線で?」
女は地下鉄で行くのだと言った。どこかで乗り換えなければならないだろうに、彼女は自信ありげだった。
「臨時の南瓜地下鉄が伸びているのよ」
エレベーターは超高速で上昇していた。数千の部屋を有する超高層ホテルの仕様に恐怖を覚えた。速い上に、揺れている。僕の部屋は、ずっと上の方にあるはずだった。だんだんと揺れが強くなって行く内に、急に視界が開けたのは、外の景色が見え始めたからだ。本当は透明な箱だった。今はもう、上昇するというよりも、横に動いている。景色が流れる。エレベーターではない。正方形の電車なのだった。
部屋ではない、目的地に着いた。知らない土地の、工事現場、それが今日の現場となるのか。
「早く着替えて。時間がないぞ!」
集合が遅いと現場監督がいらだっている。缶コーヒーを飲む余裕もなく、服を脱がなければならなかった。更に遅れてやって来る者もいた。それでも平気な顔で煙草をくわえている者もいた。黄金色の重機は既に精力的に動いていて、高く盛り上がった土山と格闘しながら、陽気なダンサーのように回っていた。青く澄んだ空に、土煙は真っ直ぐ舞い上がり、朝を渡る鳥たちの集団を呑み込むように見えた。鳥たちはその直前に向きを変え、花のように散った。左腕に袖を通したところで、誰かが質問する声が聞こえた。
「ロシアンルーレットはどこでできますか?」
土地勘のない僕に答えられる問いではない。監督は胸の中から折り畳んだ地図を取り出すと、旅人の前で広げて見せた。
「ここに行けばできますよ」
長いあくびをした。最初に唇が微かに動いた時に始まった歌は、惑星の隅っこを這っていた。最大化した口が睡魔の頂点を伝える頃、歌は既に世界中に浸透していた。老若男女、その歌い出しを知らない者はいなかったし、サビの部分を聞けば夕暮れの犬さえも尾を振りながらしばし足を止めた。長いあくび(たった一つのあくび)の終わり、唇が元の形を取り戻した時、歌はもう、一つの星全体を包み込んでいた。
それは長い長いあくびだった。それはほんの短いあくびだった。ララとラララを多く用い、シンプルかつ起伏に富んだメロディーは誰の口にもよく合った。
しあわせを一握りの形にするならこんなものだろう。ちょうどそのようなものが差し出された。甘さと冷たさが絶妙に合わさった。甘さだけなら軽くかわせた。冷たさだけなら熱い息で吹き消せただろう。そのどちらもが手を結んだ時、人間は突然無力になる。合わさったものを拒むことはできず、一つ口をあける間に(それはあくびだったに違いない)風の運び屋によって放り込まれ、噛み砕けば強く惚れ込み、溶け出せば大きな愛が生まれた。体内へと流れる道筋は、自分の内にあっても自分の制御下にはない、底知れぬ深い場所へと続いて行く。マスクをした男女が手にドリルを握り、荒削りな僕の中で工事現場を探していた。「お金はいくら持っていますか?」
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