夏休みのあくび
ロボモフ
第1話 夢は現実を映す
目を閉じて蝉の歌を聴いていると大きな木が浮かんで来る。空を抱えるように大きく伸びた木の上に、育ち盛りの猫が自分の才能を疑うことも知らずに登って行く。しっかりと安定したところから、いつ折れても不思議のない細く頼りない枝の先までも、過大な自信の芽生え始めた足を延ばす。一定の音程を保ち続けていた蝉が、曲調を変えて危険を知らせる。若い猫の足は止まらない。どこまでだって行けるはず。木々を揺さぶる風を感じた時、猫は帰路を失って鳴いた。
僕は窓を開ける。絵のような空が一面に広がっている。思い切り空気を吸い込むと、大きなあくびが出た。
新しいウィンドウズを更新するということで家が賑やかになった。遠い親戚のおばさんも応援に来て、家の掃除をしたり、お茶を入れたりしてくれた。蟻が小さな歯車を組み立てるような音がして、激しく動く画面を座って眺めている間、今回特別にやって来たウィンドウズの担当の人もすぐ後ろで少し心配そうに見守っていた。ようやく長い更新作業が終わると画面が鮮やかに切り替わって、初めて見る画面に少し戸惑った。アンケートには、自分の家族構成から、血液型、星座、利き腕、好きな俳優、好きな映画など、自分の趣味に関する事細かな項目が並んでいて、そのようなことは今までの更新には見られないことだった。
これは仕様です。無理に答える必要はありません。
というメッセージが現れて、安心した。担当の人もそれと全く同じことを言って、僕は迷うことなくスキップした。
「何か他にわからないことはないですか?」
「いいえ、大丈夫です」
では私はこれで、と帰って行くウィンドウズ担当者を姉が玄関まで見送ったが、僕は出遅れたので座ったままで顔だけを向けて見送った。無事に更新されてほっとしたか、担当者はドアの前で満面の笑みを浮かべていた。終わった、終わったと言って、続いて姉も、遠い親戚のおばさんも帰って行く。親戚らしく、誰かに似ていると思った。ほっそりとした、親切なおばさんだった。
一人になると疲れからかめまいがして、部屋の隅っこにしゃがみ込んだ。しゃがんで臑を持つと頭が重さで沈み、代わりに足先が浮き上がった。そのまま十秒もの間、体のどの部分も床に着くことなく、浮いていた。
おーっ! 十秒も続いたから、本物だ。
疲れから来る錯覚ではなく、本物の浮遊を手に入れたのだ。それから上手くバランスを工夫しながら、時間と高さを伸ばして行くことに成功した。いよいよ路上デビューだ。うれしくて夜の散歩道に飛び出した。夜ならあまり人目につくことがなく安心だ。いきなり飛びついて来たのは町の猫だった。一メートルや二メートルくらいの浮遊では、軽く飛びかかって来るので危険だ。しつこい猫をかわすために、五メートルほど浮遊した。猫はそれでも衰えない闘志で、飛び跳ねることをやめない。何度目かの跳躍では、僅かだが靴の先に触れられてしまった。(まったくなんて考えられない猫の跳躍!)僕が心配したのは、自分がひっかかれることではなく、猫の着地の安全についてだった。無計画に家を飛び出してしまった、過去の自身に、猫の影を重ね見ながら……。
職質される少年と警官の帽子を見下ろしながら、夜の町を浮遊して回った。どこに行っても、どこかで猫の目が光っていた。一度光を放った目は必ずその後に飛び上がって来るという法則が見出された。夜が深まるにつれて、彼らはより敏捷性を増して行くようだった。最も激しい反応と執念深さを見せたのは、手にお菓子を持って浮いている時だった。例えばそれはチョコレート。
「君の好みには合わないよ!」
空気抵抗が弱まりつつある夜道を歩いて帰った。開いているだろうか。軽い力で戸に触れると、ガラガラとわけもなく戸は開いた。「ただいま」まだ部屋の明かりはついていて、家族の誰かは起きている様子だった。戸締まりはこの夜一番遅く帰って来た僕の役目になったようだ。随分と鍵の数が増えていた。昔は一つ、単純な鍵が戸の真ん中に、あるいは一番隅っこについていただけだったはず。今は端にも中央にもその他の場所にも複雑な構造の鍵が用意されているのだが、どれからかければよいものか。それにしても、鍵の形は複雑だ。
「どうするの? これ」
真ん中のところを押すだけだと兄が言い、信じ難いが言われた通りに試してみる。とても上手く行く感触ではない。
「うそだ! ほら」
鍵は締まるどころか硝子が膨らんで浮き上がり出した。ほらみたことか。妙な事になったじゃないか。膨らみ、歪み、硝子は元いたところまで、戻りたがっているようにも見える。教え方が、いい加減だからこうなるんじゃないのかな。
「気圧の差でな」
気圧の差を利用した鍵だと兄は言う。難しい言葉で、無知な人間を丸め込もうとしているのかもしれない。厳しい北風が、吹き込んで来る。
ほら、もう変な人を運んで来た。歪んだ戸の隙間から、我が家に入り込んで来た。違います。うちは食堂じゃありません。
「ずっと真っ直ぐ行ってください。左に交番があります」
案内している間にも留学生が次々と運んで来る野菜でもう手はあふれんばかりになっている。すり下ろすのを手伝って欲しいと言う。胡瓜にレタス、トマトにセロリ、そして牛肉は難しいので手で千切ってボールの中に放り込む。
「兄ちゃん、これくらいで大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
新聞を広げながら、兄は適当に確認をする。
具材の集まったボールを抱えると色彩は豊かに見えた。下味をつけると言って、留学生は中に勢いよくソースを注ぎ入れる。手加減を知らない仕草。
「もういいよ!」
誤訳されたように、なお勢いを増すソース。
「多いって!」
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