夢見草

えざき

夢見草とは、桜の別称



夢見草


夢を日記につけていた。

子どもの頃には夢というものが不思議で、忘れて失われるのが惜しかった。物語が好きだった小学生の僕は、自分だけの物語として、夢を文字という形にしていた。 一度文字にしてしまえば僕のもので、十年以上経った今でも、いくつかはおぼろげに思い出せる。僕にとって夢とは、多少の思い入れのあるものだった。

子どもの頃の思い出というのも夢のようにおぼろげで、覚えていないことの方が多い。ただこれだけは覚えている。 自分の書く物語が、文字が、夢なのか現実なのか、ほんの一瞬、分からなくなってしまうことがあった。

「桜の樹の下には屍体が埋まってるって話、知ってる?」

僕はそう、日記に綴る。確か彼女はこんな声で、口調で語り出した。

冬の装いが抜け切らない風が、桜並木を横切る。春らしい陽気だが肌寒く、僕は身体を縮めた。彼女はどうかしたかと僕を横目に見る。

「知らない。都市伝説?」

「そうだよ、有名だと思ってたけど」

変な話をするものだと、僕は思った。折角綺麗な桜を前に風情がない。彼女に半歩遅れて歩きながら、僕は遠くを見ていた。

「怖い話だね」

そうかな、と彼女は笑った。

どこか楽しそうに、何でもないことのように彼女は言った。

「私が死んだ時には、桜の見える場所に埋めてもらいたいな」

今も僕には彼女の真意が分からない。彼女は走り出し、僕は立ち止まった。彼女が何を考えているのか、何年一緒にいても、結局よく分からなかった。

やっと彼女は振り返る。しかし表情は見えなかった。彼女は多分、いつもと変わらずに笑っていた。

そこは踏切だった。彼女が真ん中で立ち止まっている間にカアンカアンと鳴り出して、遮断機が彼女の手前に降りた。警告音が重なり合って、視界もなんだか霞んでいった。

電車は、彼女に迫っていった。




何事にもキリの良い終わり方ができない性分で、特に意味もないと分かっていることでもずるずると続けてしまう。朝日が昇り切って人々が活動を始めてもなお、僕らにとっては深夜32時だった。

僕は同じサークルの二つ上の先輩にあたる坂木さんと、徹夜で将棋を指していた。盤の近くにいくつも重なったお菓子やおつまみの袋に目を向け、片付けとかないとまた叱られるだろうなと他人事に思う。

「聞いてるか、話」

自分の手番だったから聞こえないふりをしていたのだ。自分の玉将を逃がしてから、なんでしたっけと聞き返した。

「だから……なんか大変なことが起こってお前以外の全ての人間が消える時、一人だけ助けることが出来るなら、お前は誰を選ぶ?」

「嫌味ですか」

なんでだよ、そう吐き出すように言いながら、坂木さんは駒を動かす。よく分からない仮定の 話だ。

「彼女いる人がいない人に訊くことじゃないなと思って」

「いや大丈夫。一昨日別れたばっかりなんで」

「またですか。坂木さん、フラれやすいですからね」

うるせえと威勢を張るも、分かりやすく触れて欲しくなさそうな顔をしていた。この人は考えていることが全て顔に出る。敢えて怒らせたい訳ではないので、深追いはしないことにした。

「で、どうなんだ」

次の一手を考えるふりをして、坂木さんがどんな答えを僕に期待しているのだろうと考えた。しかし既に思考停止した頭では何も言葉にならず、掴もうとすると砂のように手からこぼれ落ちてしまい、小洒落た返事など浮かばなかった。

「浮かびませんよ、そんな人。強いて言えば家族でしょうか。母がいいのか父がいいのか弟がいいのかも、分からないですけど」

外から元気のいい話し声が聞こえてきて、朝早いサークルがもう集まってきているのかと感心した。隣のアカペラサークルはこの春休みにも何日かに一回、朝から夕方まで集まって練習している。我らが天文サークルといえば、天体観測というよりは飲み会をするためだけのサークルとして、十年前くらいにサークル認定され、活動らしい活動はしないという伝統が受け継がれている。少し前の世代までは本当に天文が好きな人などほぼいなかった。今サークルに属する僕や坂木さんを含む四人は比較的興味がある方でたまに天体観測に行くし、なんなら僕は今日その予定がある。天文サークルとしての意義を持ちつつあった。

坂木さんとは知り合って二年になる。彼は顔立ちが良く筋肉質で、女性にモテるのも納得がいく。それでいて誠実というか、単純で嘘をつけないので、裏表がなく分かりやすい。四年生でもうすぐ卒業してしまうため、大学で残された時間はわずかである。

「一人だけを選ぶっていうのは、難しいことなんだ。それこそ、好きな女でもいない限りは」

「好きな女、ねえ……」

坂木さんはじろりと僕を見つめたが、僕は目を合わせなかった。堂々として少し威圧的な視線に、僕はなんだか悪いことをしているような気持ちになる。

僕が仕掛けた王手飛車取りの筋を上手くかわしながら、王手、そう自信ありげに坂木さんは駒を指す。僕はまた盤上に集中し、展開を何通りか考えた上で、良い手だな、と負けを感じた。整えるために、三回ずつ指し合ったところで、

「負けました……勝てませんねえ」

そう笑った。坂木さんは満足げにソファの背もたれにもたれかかった。

「大切な一人を名指しすることは、勇気のいることなんだ。それこそ愛の告白に近い。それができる俺とできないお前の差は、メンタルの強さだと思う。そしてメンタルの強さは、無遠慮さや無神経さと相関する。楽しく生きていくためにはもっと図太くなれよ、俺に対してだけでなく、な」

 坂木さんは社会的に立派な人ではない。しかし僕は、彼には勝てる気がしないのだ。

 将棋だけではない。彼のあらゆる強さを学ぶ前に、もうじきいなくなってしまう。

大切な一人が誰か。

さっきのような話に対して頭の中では、返答は決まっている。

僕に大切な一人は、いらない。


十本先取で十対四、見事な敗北だった。僕がトイレに行って戻ってくる時には坂木さんは帰る準備を終えていて、スマートフォンを眺めていた。

「お前、いつになったらスマホ契約するんだよ。連絡取れないの不便だ」

 僕はしばらくスマホを持っていない。前のを失くした時にしばらくはいらないかと思っていたが、確かに不便な場面が多い。いずれ契約しよう。

「将棋やると頭痛くなるんだよな」

「ああそれ、筋肉痛ですよ」

「頭の中筋肉だらけみたいに言わないでくんねえかな」

乾かしていた傘を畳んでバッグに入れた。

「お前、今日は桜坂行くんだっけ」

「はい。バイトの連勤が終わって落ち着いて、丁度いいので」

お菓子のゴミやペットボトルをゴミ袋に適当に詰めて、充電器や開けてない飲み物をバッグに入れた。屈んだ時に少しふらついて、これは帰ってから仮眠する必要がありそうだった。

「そういえば、松葉杖はどうしたんだ?」

「昨日病院に返してきました。まだ治ってはないですけど良くなってますよ、おかげさまで」

「良かったな。余裕があったら俺の就活が上手く行くよう願っておいてくれ。今から面接だから」

「初耳なんですが。そんなことしてるから就活浪人になるんですよ」

「情けねえ限りだよ」

一見しっかりしてそうでも実は全然駄目で、去年には就活するも全社落ち、院試にも落ち、秋就職もできず、それで今に至っている。彼曰く、面接が大の苦手で、ついいらないことを喋ってしまうそうだ。簡単に想像できて、坂木さんらしいなと思う。それでも彼は人生が楽しそうで、どうせ結局はなんとかしてしまうのだろう。

今までの人生でもよくあった。怠け者な友達を心配するが、要領の良くない僕を軽々と追い越して、ふたを開けてみると負けている。そういうことがはじめは悔しかったが、もう諦めてしまった。だから坂木さんのような要領のいい怠け者のことも、心の中では心配していない。

そんなことを言って僕はというと、自分の将来についてなんか何も考えていない。まだ二年生だからいいか、などと考えては逃げているが、それもそろそろ許されない。 僕という人間はそもそも、将来などに興味がないのだと思う。別にどうなっても構わない。僕の理想なんて、とうに崩れてしまったのだから。そういったことに絶望できなくなってしまったことも、なんとなく悲しい。

先帰るぞ、と坂木さんは部屋を出て行った。頑張ってくださいね、と閉じる扉に滑り込ませ、僕は一人取り残された。

僕はいつも考えていた。あの頃までは、僕はとてもまともだった。などと。考えたくなくて、バッグを肩にかけ、歩き出した。視界の端に一月のままのカレンダーが見える。

「……もう三月か」

もう、二ヶ月か。

扉を閉める音が、重たく耳に残った。


仙台の冬は鋭い寒さで、大学入学して初めての冬はしんどかったのを覚えている。雪はあまり降らないが、一度降ると長い間残り、地面を氷で埋めていた。大学から出て地下鉄までの道のりは下り坂で、足を滑らせないか慎重になって歩いたものだ。三月ともなると気温も少しずつ上がってきているが、まだマフラーが手放せない。仙台に来る前までは夏と冬、どちらが好きかと訊かれたら、なんとなく冬だと答えていたが、今は夏の方が明確に好きだ。

夏にはどんな星座があるんだっけ、と後付けの理由を考えながら、横並びに歩いてくる大学生の三人組の狭い端っこを、上手く抜けた。あれは何をする三人組なのだろうかと興味本位で振り返ってみると、その内の一人が僕と同じように振り返っていて目が合ってしまい、すぐに向き直って歩き出した。怖がりだなあと自分でも思うが、実際その人は少々強面だった。

あと数メートルのところで信号が点滅し始めた。急ぐ理由もないので立ち止まると、同時に右側から聞き覚えのある声が聞こえた。

「古谷さん! 奇遇ですね、もしかして今から帰るんですか?」

「うん。あの後ずっと将棋やってて、ようやく決着がついたんだ」

佐々木は苦笑いした。彼女は僕の一つ下の後輩である。今日も真っ黒のコートに真っ赤なマフラーを巻いていて、大人っぽさを前面に出そうとしている、と本人も日頃から言っている。顔立ちは幼く見えないが、自分の低身長を気にしているのだろう。

「私も一度くらいはしてみたいな、そういう大学生っぽいの。親がいなかったらの話ですけど」

「実家生だから仕方ないよ」

「羨ましいですよ、一人暮らし」

昨日も夕方までは坂木さんと三人でいたが、門限のため帰っていた。いつもは澄まし顔で僕や坂木さんをいじって機嫌良さそうに遊んでいるが、こういう時はよく不機嫌そうな顔をする。

「あれ、そんなバッグ持ってたっけ?」

いつも使っているものよりも一回り小さい、お洒落というより実用性の高そうな黒のバッグを肩にかけていた。佐々木は首をかしげると、思い出したように、

「古谷さんは見たことないですよね。中学の時によく使ってたやつなんですけど、今日みたいに荷物少ない時は便利だなって思って引っ張り出してきたんですよ。今日は……ほら、本しか持ってません」

「図書館でも行くの?」

「家だと集中できないので。しばらくしてから部室行こうと思ってたんですけど、今日は来るんですか?」

「いや、俺も坂木さんも行かないよ。それぞれ別の先約があってね」

佐々木はつまらなそうな顔をする。言うべきか言わないべきか、少しの間悩んだのだろう、ふっと顔を上げた。

「また集まりましょうよ。みんなで、昨日みたいに。坂木さん、もうすぐいなくなっちゃいますけど……。私、なんだかんだ言ってますが、部室が好きなんです」

真正面から、直球に言われて逃げ場を失った気分だった。佐々木は決して目を逸らさないので、僕もしばらく彼女の目を見つめてから、しかし無意識に逸らしてしまっていた。

悪い気はしない、はずだった。昨日もとても楽しかった。この時間がずっと続けばいいと思う。

信号が青に変わった。僕も佐々木も同時に気づくと、じゃあ、と片足を浮かせた。しかし止まり、振り返り、彼女の背中に言った。

「明日以降は、いるようにするから」

トラックのエンジン音がうるさくて、彼女の返事は聞こえなかった。


家に着いてから三時間程仮眠を取って、シャワーを浴びてスッキリしたところで、出かける準備を始めた。僕の部屋は七畳で、置くところがないので望遠鏡などはタンスの中に押し込んである。慎重に、と気をつけながらも床に落ちていたクッションを踏み、バランスを崩した。仮眠を取る前だったら確実に転んでいた。 とりあえず玄関まで運ぶと、冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを取り出し、一気に半分ほど流し込んだ。居眠り運転はしてはいけない。とはいえやりすぎだったか、少し気持ち悪くなった。

外から鼻歌と、階段を登る足音が聞こえてくる。それが僕の部屋の前で立ち止まると、ドアをノックする音がした。

「歩夢くーん、あーそーぼ」

僕はすぐにドアを開けると、何か言って欲しそうな顔をした咲良がいた。

「声響くから。毎回恥ずかしいわ」

「昔を思い出すよね。なんか手伝おっか?」

実家に住んでいた時は、家にインターホンがなかったのでノックで呼び出されるしかなかった。咲良は軽く受け流して、部屋の中を見た。かなり散らかっている奥の部屋の扉を閉めておいて正解だった。 僕はポケットから車の鍵を取り出すと、

「大丈夫。先乗って、エンジンとクーラー付けておいて」

「無免許運転してみていい?」

「すぐぶつけそうだしダメ」

僕は咲良につられて笑いながら、重い荷物を持ち上げた。慎重に階段を下り、咲良が気を利かせて開けておいてくれたトランクに詰め込み、もう一度戻って食料などが入ったバッグを持って、鍵を閉め車に乗り込んだ。久しぶりにエンジンをかけた気がする。親から譲り受けた車だが、普段は地下鉄を使うので遠くに出かける時くらいしか使わない。安っぽい白の軽自動車で、ナビもついていない。大人になったらカッコいい外車でも買いたいものである。

先に乗っていた咲良は助手席でラジオのチャンネルを変えていた。結局気に入らなかったようで、ラジオは消した。

「歩夢の車、久しぶりだな」

「俺も久しぶり。運転も」

「……安全運転でお願い」

咲良とは、高校生の時に出会った。僕とは対照的に明るい性格で友達の多い彼女は、どういうわけか、僕が適当に入った写真部にいて、僕ら以外の同級生が部にほとんど顔を出さなかったこともあり、仲良くなった。当時から僕は天体に興味があって、それについても咲良とは話が合った。僕らが天文サークルに入ったのも、そこからの流れである。ちなみに天文サークルのメンバーの四人というのは、坂木さん、佐々木、咲良、僕のことだ。

レッツゴー、なんて、大きな目を輝かせて子どものように言うので、なんだか僕まで楽しくなる。咲良は、僕にとっていつもそういう不思議な存在だった。

出発してから三十分ほど経っただろうか、意外と運転の腕が落ちてなくて安心し始めた頃、高速道路に乗った。咲良が次から次へと話を振ってくるので、僕は聞き役に回り、ちょうど良い相槌を打つ。

「将棋は上達したの?」

「まだまだ下手くそだよ。坂木さんにはあんまり勝てない」

僕はやっとアマチュアの初段レベルになったが、坂木さんは三段レベルにまでなっている。暇な時に本を読んだりして勉強しているのだが、頭の良さで差が出てしまっている気がする。悔しいことに。

「映画で感化されて始めた割には、二人とも結構続いてるよね」

「確かにそうだな。最近は天文サークルっていうよりは将棋サークルかもしれない」

「ちーちゃんも誘ってあげればいいのに」

ちーちゃんとは、佐々木のことだ。佐々木千代という。そう呼んでいるのは咲良だけであるが、佐々木自身は割と気に入っているようだった。

「ダメダメ。あいつはFPSに夢中だから。暇な時はゲームしてるよ」

「えええ意外! ちーちゃんってゲームとかするんだ」

「坂木さんが部室にたまにゲーム機持ってきてたじゃん。それやらしてもらってからハマって、今では自分でゲーム機買って家でやってるよ。お母さんとか心配してたりして」

「そりゃそうだよ。だってあの子、ゲームどころか漫画とかスポーツとか娯楽を何も知らない子だったんだもん」

そうだった。佐々木は僕らが二年生になった時に勧誘活動をして唯一入ってくれた新入生で、咲良が声をかけて仲良くなって連れてきたという経緯がある。話を聞く限り、親がかなり厳格らしく、遊びなどを禁止していると聞くが、僕らは無視して佐々木を振り回している。深く考えてなかったが、彼女に悪い影響を与えてしまったのだろうか。

「遊びは必要だよ。ストレス溜まるもん」

遊びといえば、と咲良は話を変えた。

「私の願望、覚えてる?」

考えることもなく、言っていることは分かる。

「ディズニー行ってみたい、だろ」

「ディズニーシーね。ランドはいいや、私大人だし」

何度か聞いたことはある。僕も行ったことはないし、興味はある。

「ディズニーは、さすがになあ……」

その話は、あまりしたくなかった。咲良はまた不満そうだったが、すぐにまた別の話を始めた。

目的地に到着したのは、それから二時間半後だった。十七時を回っていて、すでに辺りは夕焼けに包まれている。車を停めてすぐ、咲良は車から降りて辺りを見回していた。 本当の目的地はもう少し歩いて登ったところにある見晴らしのいい山の中腹である。駐車場も車で十分程度山道を登ったところにあり、木々に囲まれている。雪はもう溶けきっているが、落葉樹が多く物寂しげで、前に来た時と比べると雰囲気が全然違った。 咲良もそれを感じているようで、肩透かしをくらったようにしている。自動販売機を見つけたようで、咲良は何も言わずに缶コーヒーを僕に手渡した。

「ここ久しぶりだね、一年くらいかな」

「前は桜の時期だったから、そうだ。坂木さんの運転で来たよね」

「そうそう、ちーちゃんと坂木さんと四人でね。楽しかったなあ……あ、今も楽しいよ?」

それはどうも、と僕は苦笑いした。

桜坂と名前が付いた目的地までの道は、春には数種類の桜が咲く花見の名所である。そういうわけで駐車場は広大だが、今は僕らの車しか停まっていない。また今年も見にきたいものだ。 僕はトランクから荷物を取り出し持つと、咲良に声をかけて坂を登った。

なんだか今日の僕はぼーっとしていて、会話に集中できていない気がしていた。坂木さんがいなくなることがそんなにショックなのだろうか。それとも、坂木さんに言われたことが気がかりなのだろうか。

昔から別れは嫌いだった。小学校、中学校、高校、大学と、僕はいつもほぼ全員と別の道へ進んだため、人と別れることが多かった。多くの人と付き合うタイプではないが、その少ない付き合いを一生続かせることができるタイプでもない。いつも一緒にいた人と明日からは会わないと思うと、行き場のない寂しさが心臓を締め付ける。大人になったからと言って慣れることなど決してなく、憂鬱な気持ちを抑えられなかった。

卒業しても遊ぼうと本心からよく言った。しかし僕は自分から行動しない人であることも自覚していた。そのため、別れてからまた会うことをしないことも分かっていた。坂木さんとの別れも、今まで同様、一生の別れになるかもしれない。

僕にとって、冬は別れの季節でしかなかった。

「冬は嫌い?」

唐突に、咲良が訊いた。

「嫌いだよ、大っ嫌い。春を迎えに行きたいくらい」

「なにそれ、ポエムみたい」

坂はどうも平凡な風景で、空を見上げてみた。まだ明るいので星は見えないが、雲がないことは確認できた。今日は綺麗に見えるだろう。そうだ、今日は星を見にきたのだ。

とそこで、何かにつまずいた。危うく望遠鏡を落としそうになるが、咲良がすぐに支えてくれた。

「あっぶな! まったく、前見て歩け、青年」

「よかった、助かったよ」

前見て歩け、ね。

「学部に友達はできたの?」

急に話が飛ぶ人だ。

「分かってて訊いてるだろ。変化ないよ」

「そこんとこは変わんないねえ、高校から。友達私しかいなかったもんね」

急に傷をえぐられて、困惑した。友達はいたと反論しようとしたが、言葉にはできなかった。

話す友達を作れても結局、卒業してしまえば途端にひとりぼっちになる。

高校での彼女との出会いは、そんな僕の状況を変えた。消極的な僕に踏み込んできて、引っ張ってきてくれた。高校では、そうだ。卒業してもそんなに寂しくはなかった。彼女は卒業しても、僕の隣で笑ってくれた。

ずっとひとりぼっちだったわけではない。正しくは、そうだ。

またひとりぼっちになった、だ。

彼女のおかげで僕は、人生を楽しめた。彼女のせいで僕は、ひとりぼっちが寂しくなった。

冬は寂しい。なぜだったか。寒くて、暗くて、もの寂しい。冬が寂しいのはそうだ、

「冬に、君が僕から、離れていったから」

なぜだっけ、思い出せない。胸が苦しくて、思い出したくない。彼女の顔を見たくない。

立ち止まり、彼女はずっと僕を見ていた。彼女は諦めた、観念したとでも言いたそうに、困ったように笑っていた。

「だいぶ、暖かくなってきたよね。早く春が来ればいいのに」

「……今年の冬はいつになく寒い、」

辛い、冬だった。

彼女の姿が、視界がブレる。手に持っていた缶コーヒーが、消えた。

「咲良っ!」

ここはどこだろう。踏切があって、他に見渡す限り何もない。彼女は僕の手を引いて、歩き出した。

「ユメミグサって知ってる?」

夢見草。それは桜の別称で、

「私の、別称」

彼女は踏み切りの手前で立ち止まると、申し訳なさそうに、悲しそうに笑った。

電車の音が聞こえてくる。警告音が鳴り始めた。遮断器が下りて、音も段々と大きくなる。

「歩夢は私がいなくなってから、夢を見てるんだよ」

彼女は言う。

「私を見ちゃ、ダメなんだよ」

心拍数がさらに上がり、僕は頭を抱えた。今までは騙せていたのに。何も思い出したくないのに、記憶が溢れかえってくる。彼女の姿は、夕日の逆光で見えなくなっていた。見てない現実や、本当の姿が。彼女が今、本当はどこにいるのか。全て知っているはずなのに、思い出さないように生きてきた。この二ヶ月間。

「知らないよ、そんなこと、言うな」

激しい呼吸も、電車の音も、警告音も。全てが耳に入ってきて、滅茶苦茶になった。電車はすぐそこまで来ている。必死で、言葉を繋いだ。

「三月の終わり、もうすぐ、桜はみんな」


ぷつり、と。

全ての音が消えて、落ち着きを取り戻した。元の世界に、本当の世界に帰る。陽も落ちて辺りは暗い、桜坂。

そこに彼女の姿はない。

「花を咲かせる準備を始めて……」

僕はまるでそこに誰かがいたかのように、ぼそぼそと言った。

自分が今どんな気持ちでいるのか分からなかった。悲しくも寂しくもない、何を考えていたのかもよく覚えてないまま、立ち尽くしていた。

咲良は生きていた。

亡くなった彼女を、僕の中で生きていることにした。

咲良、そう呼びかけた。

「もし世界が終わる時に誰か一人だけ助けられる時、咲良を選ぶって言ったら、どうした?」

僕がその返答を思いつくことは、できなかった。


ゆっくりとした歩調で、削れてガタガタになった石の階段を上っていった。手すりは錆びて汚く見えて、触るのが躊躇われる。望遠鏡が重たくて、ここまで歩いてくるまでにすっかり息切れしていた。 木に覆われていて空も見えない。早く登り切りたくて、歩調を早めた。 到着してしばらく歩くと、頭上の木が晴れて、明るい無数の星が飛び込んできた。星を見にくるのが久しぶりで、しばらく立ち止まって空を見上げる。雲一つなく、気持ちが良かった。少しでも邪魔が入ると興ざめなのだ。

あれがオリオン座で、冬の大三角だと、一度来て方角は知っているので、次々に星座を肉眼で見つけていった。方角的に、山に遮られて見えないものもあるが、視界はかなり広かった。

ずっとここにいても仕方がないと歩き出したが、歩く方向に見慣れた人影を発見した。レジャーシートを敷いて座っている。僕が近づいていくと、その人はゆっくりとこちらを振り返った。

「なんでいるんですか、坂木さん」

驚かしてやったぞ、とでも言いたそうに笑う。僕は理由が分からずただ驚いていた。

「後輩が一人で星を見に行くって聞いたら、付き合ってやりたくなるだろう。面接は正午くらいに終わったからな。ちなみにバレないように、車は別の駐車場に停めてきた」

呆れた人だ。別の駐車場というと、山の麓ということだろう。見たところほとんど手ぶら状態なので、少しはマシなのだろうが。

「そんなことしてる場合じゃないでしょうが。面接は大丈夫だったんですか?」

「ああ、余裕だ。今回はキタよ」

「毎回そう言ってますけどね」

これ見よがしにため息をついて、バッグの中から新聞紙を取り出し、坂木さんの隣に敷いて座った。さらにコンビニの袋を取り出して、少し迷ったが坂木さんに差し出した。

「食べます? サンドウィッチ買ってきたんですけど」

「いや大丈夫。俺もコンビニで買ってきてあるから」

よかった、と内心思った。一人分しかないからだ。それとは別に、ここに来て坂木さんがいたことに、安心している自分がいることに気がついた。

坂木さんは勝手に望遠鏡を取り出して、三脚を立てた。組み立ては任せることにした。

「佐々木は呼んでないんですか?」

「迷ったんだけどな、呼んでない。どうせ暇だったろうからあいつには悪いけど。今日はお前と二人で話しておこうと思ってな。雰囲気変えて、まじめに」

だいたいなんの話をしたいのかは想像ができる。僕は手で顔を隠すように、右手で頬杖をついた。

「将棋の話ですか」

「そういえば、羽生さん勝ったな。名人まであと一勝だ」

「忘れてた。そうか、もう終わってたんですね」

「俺は見てたんだけどさ、相穴熊の持久戦だったよ。粘り勝ちだな、カッコよかった」

羽生さんはカッコいいが。もちろんそんな話をしたいんじゃないとは分かっていて、妙な空気の間が空いた。

望遠鏡を覗いてみる。今年の一月に、木星の衝があった。衝とは、太陽、地球、惑星の順に一直線に並ぶことであり、その時地球と惑星の距離が最短となるため、観測に最適な期間になる。その期間は、いろいろあって、それどころではなかった。

僕も坂木さんも、空を見上げていた。

「二ヶ月だったか、今日で。咲良ちゃんが亡くなってから」

僕は何も言わず、聞いていた。

「あれから、お前あんまり部室来なくなったろ。佐々木も心配してたよ。あいつ、お前もだけど、あそこにしか居場所がないだろ。寂しがってて、相談もされたよ」

僕に何も言わせないよう、坂木さんは続けた。

「お前があの子を忘れられないのは分かる。仲、良かったもんな。側で見てきたよ。……でもな、そろそろ向き合うべきなんじゃないか。俺、もうちょっとでいなくなるからさ、最後に余計なお世話を言わせてくれ」

坂木さんは僕を見た。視線に気づいて、視線を落とし、また顔を上げ、少しだけ坂木さんの方を見た。坂木さんは憐れむでもなく励ますでもない、諭すような表情をしていた。

「現実を見るべき時が、来たんじゃないか」

そんなことは、僕も分かっていた。

僕が彼女に出会ったのは、高校一年の春だった。当時部活の先輩とトラブルを起こしたとき、同じ写真部だった彼女は僕に居場所をくれて、救ってくれた。僕にとって彼女は何かと訊かれたら、それは恩人であり、親友だった。 咲良はいつも明るかった。人付き合いが苦手な僕の周りにも、いつしか咲良が作ってくれた友達ができていった。情けないけれど、僕は咲良がいなければ何もできない。いつだって、いまだって、彼女に縋り付いて生きていた。

大学に入ったらしたいことがたくさんある、そう彼女はよく言っていた。北海道に行ってドライブしたい。沖縄に行って海で泳ぎたい。東京スカイツリーに登ってみたい。修学旅行で行った京都にもう一度行ってみたい。とか。徹夜カラオケとか、朝まで宅飲みとか、そんな大学生らしいこともやってみたいと冗談半分に言っていた。 受験生で勉強ばかりしていて、なんでも魅力的に見えたのだろう。一度も一緒なところにしようなどと言ったことはなかったのだけれど、いつのまにか同じ大学を目指して頑張っていた。学部は違うから、合格したら同じサークルに入ろうと言っていた。

合格して、坂木さんと知り合って。一年後、佐々木とも仲良くなって。大学生活は不安だったが、また咲良に助けられて居場所ができた。僕はいつも幸せだった。その時までは。

僕らが二年生の秋、帰省中に咲良が地元の病院に緊急入院したことを知った。

急性骨髄性白血病。

発覚したときには病状がかなり進行しており、余命半年を宣告された。

母や祖父の死が思い出されるから、僕は病院が苦手だった。今は咲良に重なって見える。彼女が余命宣告を受けていることは、入院から一週間後、電話で聞いた。僕は混乱して受け入れられなかった。それに対して彼女は、痛々しいほどに強がった。強くて、しかしとても脆かった。

「大丈夫、すぐに治るから」

地元までは電車で一時間で、毎週末、時には坂木さんや佐々木を連れてお見舞いに行った。この日は僕と佐々木の二人だった。

「ほんとですか? 体調、気をつけてくださいね」

「うん、ありがとう。ちーちゃんもだよ。今日も来てくれてありがとね。元気出たよ」

「よかったです。また来ますからね。退院したら美味しいもの食べに行きましょう、奢ります!」

「それはもっと元気出るなあ」

咲良が楽しそうすると、佐々木は安心したように笑った。そろそろ面会終了の時間だ。僕も荷物を片付け始めた。

「歩夢、あと十分だけいてくれない?」

僕らが部屋を出ようとした時、そう呼び止められた。佐々木は気を遣ってか、先に下りてますと行ってしまった。僕は扉を閉めて、またベッドの隣の椅子に座った。

「あいつには伝えなくていいのか、本当のこと」

咲良は目を伏して、申し訳なさそうに笑った。最近はこんな表情を見てばかりだ。

「いいんだよ。私、元気なちーちゃんを見ていたいんだ。自分勝手だけど、あと少ししかないから。神様だって多分、許してくれるよ」

咲良は何か言おうと、でもどう言おうかと迷っているように、布団をぎゅっと握った。しばらく無言の時間が続いた。僕は彼女の言葉を待っていた。一言も逃さないよう、忘れないよう、彼女を見ていた。

「私がいなくなっても、ちーちゃんをお願いね」

その言葉を、僕は予想していなかった。咲良は僕の目を見て、力を込めて言った。

「あの子の居場所を守ってあげられるのは、歩夢だけだから」

その目には自分への絶望と、他人への羨望が籠っていた。その目を見て、僕は初めて、強く咲良を哀れに思った。咲良は僕の目を見て、強張っていた肩の力を抜いた。

「……行きたかったな」

人生は長いと思っていた。終わりを知らなかったから、急ぐことはしなかった。だから咲良のやりたいことも、ほとんど叶えられていなかった。

「ディズニーに、行ってみたかった」

僕はその時、その時からずっと、咲良をどうにかして生かしてあげたいと思うようになった。

十一月、一二月、一月と、月日は残酷に過ぎ去った。咲良は時間が経つごとに冷静でいられることができなくなり、周囲に辛く当たることがあった。それでも笑っていようと努力する姿を見ていて、あまりにも残酷に感じられた。 咲良の親は精神的に病んでしまい、あまり病院に顔を見せることはなくなった。僕はその代わり、出来るだけ長い時間咲良と一緒にいられるように、進級できるぎりぎりまで授業を欠席し、病院に通った。

この頃の僕は、何を思っていたのだろうか。彼女を救ってあげたかったのか、それとも自分が満足するためか。多分僕は、何も考えられなかった。 ただ単純に僕は、彼女に死んでほしくなかっただけだ。僕にはどうしようもなく、死は確実に近づいてくる。彼女を幸せにすることはできないし、僕自身も幸せにはなれない。希望も持たずに、ただ見ていた。

僕はこの頃、すでに録画ボタンを切っていた。無意識に都合よく、彼女の綺麗な姿だけを覚えていようとしていた。

「帰るよ、そろそろ」

「いやだ、もうちょっと待って。寂しいよ、そばにいてよ」

ごめん、と謝り、看護師に急かされて部屋を出ようとした。

「死にたくないよお……」

彼女は怖い、怖いと何度も呟き、その度に僕は、心臓に刃物を刺されているような気分だった。幸せにすることも、不安を取り除いてあげることできない僕には、彼女の声はあまりに鋭かった。

部屋から出る瞬間に目が合った。その絶望に完全に支配された両目が、引き留めようと差し出す手が、僕の心臓を力強く握った。僕は引き寄せられるように彼女に歩み寄り、彼女の震える手を包むように握る。彼女の表情は変わらなかった。表情を見なくて済むように、彼女を優しく抱き寄せた。彼女の肌も、吐息も、心臓の鼓動も、この世のものと思えないほど冷たくて、僕は改めて別れを感じた。

僕が病院から出た直後、容態が急変したそうだ。彼女が亡くなったという知らせは、僕が実家近くの駅に着いた時、病院から受けた。

全身の力が、活力が抜けると同時に、肩の荷が下りたような感覚にもなった。しかし彼女を重荷のように感じていたということが、我ながらショックだった。耳に当てていたスマホを落としそうになり、しかし僕は、しっかりと握りしめたあと、地面に叩きつけた。

そのまま家には帰らず、見晴らしの良いマンションの屋上に来た。彼女とここで高校生の時、安っぽい望遠鏡を持って天体観測の真似事をしたことを思い出していた。僕は柵の近くまで歩み寄る。

僕の心には何もなかった。彼女の声が、聞こえてきた。何も叶えてやれなかった。今になって込み上げてくる。

「お願い」頼むから

僕は応える。勢いをつけて、柵を越える。

「一緒に死んでよ」一人にしないでくれ。

迷いなく、まるで足を踏み外したかのように、飛び降りた。

僕はずっと、咲良のことを異性として意識しないようにしていた。成就するはずのない無駄な気持ちは、仲に亀裂を入れてしまいかねなかったからだ。しかし彼女が亡くなって初めて、やっとその気持ちに目を向けた。

僕は咲良が好きだった。

彼女のためなら死んでもいい、と思えるくらいに。

車を降りて、望遠鏡を抱えながら階段を登った。松葉杖がとれたとはいえ今日は歩きすぎただろうか、足が鈍く痛んだ。


『直接だとつらくなるので、手紙で伝えます。今日は一月四日です。書き終わったら、坂木さんに託そうと思っています。ちゃんと届いたかな。 歩夢、ごめんね、ありがとう。最期まで付き合わせちゃって、たぶんつらかったと思います。なんでこんなにも私を気遣ってくれるんだろうかと不思議に思ったことがあったけど、それは私のことを大切に思ってくれたってことでいいですか? そうだと嬉しいです。私の人生はとても幸せだと、今になって気づきました。お願いばかりだったけど、最後に一つだけお願いを聞いてください』

このままではいけないことは分かっていた。それと同時に、このまま自己満足とはいえども、彼女のことを大切に思ったまま、生きていってもいいのではないかとも思う。自己満足だから、他人に迷惑はかけていないと自覚している。

特に変わる理由がないので、多分僕はこのままだろう。僕が人生で初めて好きになった人。僕の人生を豊かにしてくれた人。ただ一つだけ後悔があるとすれば、想いが通じなくてもいい、気まずい思いをしてもいいから、 君が好きだ、と伝えればよかった。

僕は電気ケトルのスイッチを消すと、あらかじめコーヒーの粉を入れてあったカップにお湯を注いだ。湯気が腕にかかって少し熱い。インスタント特有の豆の匂いが少し嫌いだ。カップを持って炬燵に戻った。

テレビは昼の地方のグルメ番組を流していて、さっきまで何も考えずに眺めていたが、下らなさを感じてしまって電源を消した。カップに口をつけてみたがまだ温度が高く、一旦置いた。

こうしてみても、落ち着きを取り戻すことができなかった。僕は昨日坂木さんから受け取った、咲良からの最後の手紙を読みきれるように、気持ちを鎮める。初めは嬉しかった。咲良の本当の言葉が聞きたかった。しかし同時に、これがおそらく本当の最期の言葉であることに気が付いて、怖くなった。手紙は一ページで、半分ほど目を通した。

僕はまた手紙を手に持った。

『歩夢は私が死んだら、悲しんでくれると思います。もしそうだったら、ごめん、ちょっと嬉しい。自分の死を悲しんでくれる人がいるって、安心する。でも、歩夢には前に進んでほしい。一生のお願いだよ。私にとらわれないで、前を向いて歩いて』

ここから先には、何度も書き直した跡があった。書いていいのか迷ったのだろう。

『歩夢、ずっと好きだった。照れくさかったから言えなかったし、最期まで言えないと思う。言ったらだめだとも思った。本当にごめん、本当にありがとう。 私のことは』

『忘』の文字が見えた。僕は目を拭う。視界は良くならなかった。溢れ出る感情を抑えられなくて、手紙を置いて蹲った。

忘れてなのか忘れないでなのか、彼女の本心で手紙が滲んで、読み取ることはできなかった。


ちーちゃんは可愛いね、と咲良さんにはよく言われた。私は単純なので、褒められると嬉しくなって咲良さんをもっと好きになった。大学に入ってからはほとんど毎日、部室に通って咲良さんや古谷さん、坂木さんと遊んでいた。そんな幸せな日々を送れるとは、高校時代の私からは想像もできなかった。内気でコミュニケーションが極端に苦手な私なんかと関わってくれる人なんかそれまではいなかった。

咲良さんと初めて会った日のことは今でもたまに思い出す。入学して一週間くらい経ち、私が一人で昼ご飯を学食で食べていた時、席が混んでいたからだろう、ここいいですか、と明るい声で訊かれた。少し戸惑いながらも首を縦に振ると、咲良さんは私の前に座った。

初めはただ、黙っていると気まずいから間をつなぐためだけの会話をしているのだと思っていた。私は質問ぜめにされて答えるのに苦労していたけれど、途中から、咲良さんが私に本当に興味を持っているのではないかと感じていた。そんな咲良さんに私が心を開いたのは、驚くほどすぐだった。

天文サークルに連れてこられた時、やっぱり不安はあったけれど、いつのまにか私は当たり前のように部室に通うようになっていた。私は今でも咲良さんが、そして古谷さんが坂木さんが好きだ。

午前中に部室に行ったが古谷さんはやっぱり来てなくて、今日も暇となりゲームをしていた。目が疲れてきたのでコントローラーを置いて、窓の外に目をやる。どんよりとした曇り空で、なんとなく気分も重たかった。

ふとスマートフォンを確認すると、坂木さんからの不在着信があった。珍しいなと思いながら、私はヘッドホンを外して掛け直した。

「もしもし、何か用でしたか?」

「まあな。とりあえずどうでもいい話だけど、俺内定もらったわ」

どうでもよくはない、大事なことだ。

「あは、やっとですか。おめでとうございます。どんな会社なんですか?」

「簡単に言えば海外ボランティアに関わる仕事だよ。会社が東京だから、もうすぐ引っ越しだ」

「すごいですね、なんか。予想外でした」

「前から興味はあったんだけどな。まあ俺の話はいいよ」

わかってはいたけれど、心が沈んだ。坂木さんもいなくなってしまう。テレビの画面が鬱陶しくて、電源を切った。

これ以上の話とはなんだろうか。私は身構えながら次の言葉を待った。

「古谷のことな。あとはお前に任せようと思って」

任せる、どういう意味か分からなかった。

「無責任ですまんな。でも俺にはこれ以上どうにもできん。あいつの心を開けるのは、最終的にはお前だ」

「そんなこと、言われても……」

坂木さんにどうにもならないことが、私にできるわけがないだろう。咲良さんが亡くなってから、古谷さんがあまり部室に来なくなって、私は何度も声をかけた。しかしそれは届かなくて、いつしか触れないようにしていた。私が何か言うと、逆効果にしかならないと思ったのだ。私にできることがあるなら何でもしたい。古谷さんにも、私は何度も救われてきたからだ。

「咲良ちゃんとあれだけ仲良かったお前が立ち直れたのは、きっと古谷を見て、助けてやれるように強く在ろうとしたからだと思う。お前は強いよ。今あいつにお前は必要だし、これからもお前にあいつは必要だ。あいつを、立ち直らせてやってくれ」

「ちょっと待ってください。私にはどうしたらいいのかわからないんです。わかってたらもう行動してます。どうしたらいいのか、教えてください」

「それこそわかってたら俺も行動してるよ」

「……役立たず」

「なんだって?」

「役不足って言いました」

「頼もしいねえ」

そうやって言ってから、また自分が先輩に完全に頼りきりになっていることに気がついた。坂木さんの言いたいことはまだよく分からないけれど、頼りになる先輩がいなくなるというのだから、自立しなければならない時期が来ているのだ。私ももう、大人だ。

「古谷の人生は今も昔も、咲良ちゃんに依存してる。でも俺は自分の人生が他人に依存してることが悪いとは思わない。生き方の一つとして間違ってるとは限らない。でも、あまりにも哀れじゃないか、今のあいつは。あいつがそれでも良いというなら何も言えないが、どう贔屓目に見ても幸せには思えない。咲良ちゃんもそれを望んではいないだろう。だから咲良ちゃんがあいつに言ったことを思い出させてやってくれ。今のあいつを見てあの子が言いそうなことも。それは俺より咲良ちゃんをよく見てきたお前が適任だ」

本当に伝えたかったこと。咲良さんが古谷さんに言いそうなこと。私の答えは明白だった。

「……私には分かりませんよ。何も、聞いてなかったから」

病気のことも。私が咲良さんが白血病だったことを聞いたのは、咲良さんが亡くなった後のことだった。ずっと私は、いつ咲良さんが退院できるのかなと間抜けに心待ちにしていた。十二月あたりからお見舞いに行けなくなったのも残念で心配だったけど、深刻に考えてはいなかった。

「私にも、教えて欲しかった……」

咲良さんが亡くなったと聞いて、私は受け入れられなかった。立ち直れた、と坂木さんは言った。私は隠すのが上手かっただけだ。今も私は、咲良さんに会いたい、甘えたい。

ただ坂木さんの言っていることも正しかった。絶望の中で古谷さんを見て、明らかに両想いでありながら最期まで想いを伝えられなかった彼を見て、彼の絶望に触れて、私は古谷さんには強く生きて欲しいと思うようになった。だから私は強く在った。

何ができるのかは分からない。私には、できるだけいつも通りに接することしかできていなかった。 ごちゃごちゃ考えているが。私は自分がバカだったことを思い出した。考えても私には正解なんてわからない。私が思ったことを考えなしにぶつけようと、まとまらないまま、家を出た。


玄関のチャイムが鳴った。なんだろう、配達だろうか。僕は玄関に向かう前に鏡を見て、目が赤くなっていないか確認してドアの前に立ち、どなたですかと声をかけた。

「私です。佐々木です」

なんで、と困惑した。今まで約束もせずに家に来たことはなかったからだ。ドアを開けようとしてから、僕は自分の服が見るからに寝間着であるのに気がついて、

「ちょっと待ってろ」

そう言い残して普段着に着替えた。戻ってきてドアを開ける。

「ちゃんと変なモノ隠しました?」

「着替えただけだよ。今日はどうした、わざわざ」

僕の家は交通アクセスが悪く、地下鉄を使わないと来れない場所にある。お金がかかったはずだ。 佐々木はどこか落ち着かない様子で、いつもと違った。しかもいつも薄く化粧をしているのに、今日は何もしていない。後輩の女子の化粧に気付くなんてちょっと気持ち悪い男だなと思って、気にしないことにした。

「DVD借りてきたので、折角なら大きいテレビで観たいなと思って。一緒に観ませんか?」

なるほど、そういうことかと納得した。

「入っても良いですか」

「待て待て」

僕は止めて財布から千円札を取り出し、佐々木に握らせた。

「コンビニでお菓子と飲み物買ってきてくれ」

「パシリですか」

僕は部屋の方を指して、

「埃っぽい部屋は嫌だろ?」

佐々木はちらっと部屋の方を覗き、数瞬止まり、僕と目を合わせて、一度頷いた。

映画が始まっても、佐々木はどこか集中していないようだった。たまに視線を感じてそちらを向こうとすると、画面に戻っての繰り返しだ。

この映画は、佐々木が入部する前のいつか、咲良と坂木さんの三人で観たものだ。たまたまだろうか。坂木さんに入れ知恵されて、要らぬ説教でもしにきたのだろうか。そう考えつくと同時に、心が冷めていくのを感じた。何も言わなくていいから、そっとしておいてほしかった。

「古谷さん、坂木さんのお別れ会をしませんか。もうすぐ、引っ越すらしいので」

うん、とだけ返事した。 僕は画面を見ながら言った。

「この映画、一年前くらいに咲良と観たんだよ」

「そうだったんですか。すみません、咲良さんが好きだと言ってたんですが、一緒に観てたんですね」

表情を見ていなかったので、彼女の真意は分からなかった。

「ああ。それで僕は、この映画が嫌いだよ」

前見て歩け、そう画面から聞こえた。

「言葉だけ綺麗な、無責任な映画だ。中身のないストーリーだっていうのが、二回目だとよく分かるね」

カッコいい言葉を放つ男に、情熱的な女。こんな映画、観ていて、

「観ていて、つらい」

佐々木は何か言おうとして、言葉にならずにまた黙った。僕は自分が彼女の言葉を待っていることに気がついて、自分が何かを誤っていると思った。急いで彼女を見ると、佐々木は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

馬鹿野郎だと、僕は自分を殴りたくなった。僕は佐々木に甘えている。心配して来てくれたことを良いことに、ストレスを、悲しみを、分かるように態度に出して、彼女にぶつけようとしたんじゃないか。だとしたら僕は、最低で幼稚な屑野郎だ。わがままなお子様だ、いい歳して。

「佐々木」

ごめん、言おうとすると、彼女の言葉にかき消された。

「ごめんなさい。私が悪かったです。帰ります」

DVDもそのままに、佐々木はバッグだけ持って出て行った。一刻も早く去りたいと多分思っていた。

僕は彼女を引き留めるほどの勇気がなくて、仮に引き留めたとしても何も言えないことが分かっていたので、ただ見ていることしかできなかった。情けなかった。しかし、仕方ないと思う自分もいた。僕では佐々木と二人きりで上手くやっていくことはできないんじゃないかと思っていた。なんでかは、分からないけれど。

佐々木は咲良が好きだった。僕なんてただのおまけだろう。どうせ、と思ったところで、また自分は愚かだと気付かされる。これもまた、都合の良い言い訳だった。

「甘えてんじゃねえよ、クソ野郎……」

気まずくなって僕は部室に行かなくなって。行ったとしても、佐々木はいないだろう。そしたらまた、ひとりぼっちになる。僕も……佐々木も。

僕は明確に引っかかった。同時に思い出される。

「私がいなくなっても、ちーちゃんをお願いね。あの子の居場所を守ってあげられるのは、歩夢だけだから」

咲良の姿がすぐそこに見えた。彼女の言葉を、願いを、思い出した。誰にも迷惑がかからないからと、僕は無気力だった。しかし違う。僕には明確に、彼女の望む役割がある。しなければならないこと、僕だけにしかできないことが、あった。

「一生のお願いだよ。私のこと忘れないで。でも」

僕と、それに佐々木の。取り残される僕たちへの願いを、叶えなければいけない。

「前みて、歩けっ!」

彼女は僕の手を思い切り引っ張って、ドアに向かって押し出した。僕は急いで階段に向かい、遠くに佐々木の姿を発見する。靴を履き忘れたから小石が足に刺さった、が我慢した。僕は走る。

「佐々木!」

曲がり角を曲がろうとした佐々木は、肩をビクッとさせて驚いていた。目を大きく開いて僕を見る。すぐに目を逸らしてしまい、それでもその場から離れようとはせず、しばらくして、また僕の目を見た。

「ごめん、俺……」

僕は何を言おうか考えてなかった。彼女は落ち着いてくると、ずっと僕の目を見て、僕の言葉を待った。

「お別れ会。坂木さんの」

先程自分で言っていたのに、何のことか一瞬わかっていないようだった。僕は続ける。

「部室でやろう! いつもみたいに。俺準備するから、お前も手伝ってくれ。坂木さんのこと、ビックリさせよう」

佐々木は驚いた表情をだんだんとほぐして、口元が緩んできて、良い笑顔を見せた。何がおかしいのか、ふふふっと笑いだした。

「はい」

僕も人のことは言えない。彼女を見てると、いつぶりだろうか、僕は自然に笑っていた。

彼女を忘れられるわけではない。僕は多分、一生覚えているだろう。僕を救ってくれた、僕の初恋の女の子を。 彼女を生き返らせることも、彼女を幸せにすることも、今の僕にはできない。ただし僕には、彼女が大切にしてきたものを、その場所を守ることができる。僕にしかできない、立派な生きる意味だ。


月が明るい夜だった。ソファで眠ってしまったやつがいるので部屋の電気を消して、窓から入るそれで机を照らさせ、将棋を指していた。塾考して、一手指す。形勢は……まだ互角だった。

部室は僕らが飾り付けた。今日は坂木さんのお別れ会で、柄にもなく沢山お酒を飲んで、佐々木は疲れ果ててか眠ってしまった。親に許可を得てるとはいえ、こんなところに泊まるわけにはいかないだろう。いい加減起こさなければいけない。坂木さんは明日朝早いのでそこまで飲んでいないが、僕は佐々木に付き合ったので今も眠気に襲われている。

「美味かったな、お好み焼き。久しぶりに食ったよ」

坂木さんは満足げだった。

「一回練習したんですよ、二人で。その時は下手くそでしたけど、慣れたら余裕ですね」

この日のためにホットプレートも買った。もちろん今後も使えるので、高くはない買い物だ。餃子パーティーをしてみたいと、佐々木と話していた。

「そうだ、連絡先を教えてください」

 僕はスマホを取り出すと、坂木さんに見せた。

「やっと契約したのか。エイトってお前、何年前の機種だよ」

 性能なんて大差ない。安さで選んだものだ。

「たまには遊びに来てくださいよ。帰省したついででいいので」

「老害って言われない程度にはな。割とすぐに帰ってこれるよ。仙台と東京って意外と近いから」

ふう、と坂木さんは息を吐き出し、部屋を見回した。坂木さんには僕よりも二年分長く、この部屋に思い出があるのだ。四年ってあっという間だからな、と顔に書いてあった。

「長いようで短かったよ、ここの生活は楽しかった。実感が湧かないもんだな。明日からは、ここには通わないんだ」

僕が卒業する時は、どんな気持ちになるのだろうか。この部屋もやがて僕の中で思い出になっていくのだろう。やはりそう考えると、寂しい。

坂木さんはゆっくりと僕を見た。

「ここを任せていいよな。やっぱり嫌なんだわ。無くなったりするのは」

いつもの僕ならどう答えただろうか。自信も情熱もない僕は、坂木さんを安心させることはできなかっただろう。僕は坂木さんと目を合わせた。自然と笑みが零れた。

「はい、任せてください」

見栄を張っただけだった。しかしそれだけで坂木さんは安心したようだった。

「前に言ってましたよね。何か大変なことが起こって自分以外の人間が消えるとき、一人だけ助けることができるなら、誰を選ぶか」

大切な一人を選ぶのは難しいと、坂木さんは言った。今の僕にも難しい。ただ僕は一つだけ、自分のできることを見つけることができた。それが咲良の与えてくれた、僕の生きる意味だった。

佐々木の寝息が聞こえてきた。間抜けで子供っぽくて、すぐ周りを頼ってしまう後輩が、それが何かを気付かせてくれた。

「僕はその時一番近くにいてくれた人を助けます」

僕は強く、一手指した。

「咲良は僕の中で生きています。僕は咲良が生きていた時間を一生忘れません。だからこそ彼女の大切にしていたものを、人を、佐々木や坂木さん、僕を、幸せにすることが、僕の夢です」

坂木さんは盤上に目を落とした。一手、一手と駒を進めて、坂木さんはゆっくりと背もたれに寄りかかった。

「……負けたよ。強くなったな」

僕は照れくさくなって笑った。


春の日。僕は三年生に、佐々木は二年生になっていた。春にしては肌寒い風が横切った。僕は屈んで目を閉じる佐々木に自分の上着を羽織らせた。

「紳士ですね、珍しく」

「素直にお礼言えないのか?」

へへへっ、と佐々木は楽しそうに笑った。不機嫌そうな風を装ってみようかと思ったけれど、その前に顔が緩んでしまっていた。

四方を山に囲まれた、見渡す限り古い民家と田んぼしかないようなところに、咲良の墓があった。車で三時間かけて、朝から二人でやって来たのだ。

「咲良さん、まだ新入生、来てくれないんです」

「新歓も始まったばっかじゃないか。これからだよ」

「もちろん! 諦めたりなんかしませんからね」

佐々木が先輩と呼ばれている姿が全く想像できないが、僕が卒業する頃には佐々木はどんなやつになっているのだろうか。

夏には二人で坂木さんのいる東京に遊びに行く予定だ。笑われないようにしないといけない。

掃除をして、花を供えてから、僕も手を合わせた。

僕は元気だよ、咲良。これからもたまに顔を見せようとは思うけど、あんまりお前には頼らないようにするよ。ちゃんと大切に、思い出としてしまっておくよ。目を開けて、手を離す時、微かな抵抗が指先に残った。弱い磁石でも指についていたようだった。僕は目を逸らして、佐々木の方を見た。

「帰りましょうか、そろそろ」

風が止んで、ぽかぽかと陽気に包まれた。佐々木は上着を脱ぐと、ありがとうございますと返してきた。

「昼ごはんはどうする?」

「ラーメンがいいです。ご馳走さまです」

「奢り前提かい」

曲がり角の手前に、大きな桜の木があった。ここら辺では珍しい。

「立派な木ですね」

「この位置だと、あそこからぎりぎり見えるな」

佐々木は首を傾げて、後ろを振り返った。僕は気にせずに前に進む。

すぐ前に踏切があった。車が通れないくらいの小さな踏切だ。僕らが通り過ぎた後、警告音が鳴り出した。僕は後ろを振り返る。

「桜の樹の下には屍体が埋まってるって話、知ってる?」

佐々木は不思議そうにしていた。

「知らない。都市伝説ですか?」

「そうだよ、有名だと思ってたけど」

桜の木を見た。満開の桜の木の隣に、彼女は立っていた。

夢を日記につけていた。今日はそれの最終ページで、僕は丁寧な文字で書き綴る。

夢見草とは、桜の別称。

夢を見続けた僕の、別称だった。

「好きだったんだ」

彼女と一緒に、生きていきたかった。

咲良はちらりと僕を見て、すぐ目を逸らして下を向き、もう一度僕を見て、寂しげに笑った。

「幸せになってね」

電車が通った。通り過ぎる前に、振り返り歩き出す。

僕はこうして、咲良とお別れした。

僕は、そう。前を向いて歩く。

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夢見草 えざき @gogatsuyusuke

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