へのへのかっぱくん

恵瑠

第1話

 白み始めた水平線を見ながら、あたしは足をブラブラさせて防波堤に座っていた。風が緩やかに吹き、あたしの長い髪の毛が時折顔の方へ流れてくる。こういうとき、長い髪の毛は面倒だ。そう思いながら、あたしは顔に貼り付く自分の髪の毛を右手で後ろへと流す。

 まだほんのり暗いこともあって、防波堤の先端にある小さな灯台が時折点滅する。漁港へ帰ってくる船が防波堤に衝突しないためだ。

 水平線の手前に見えるいくつかの小さな島に、あたしは見覚えがあった。

 あたし、どうしたんだっけ? ここに釣りに来たっけな?

 この防波堤に来るときは、いつもトトと一緒だった。老後と言うには早いけれど、息子たちが巣立った後のことを考え、二人で出来る趣味を考えて始めた釣り。その釣りをするときの釣り場として、ここにはよく通っていた。

 けれど、釣りをしにきたにしては……あたしは自分の恰好を見下ろし、首を傾げた。あたしの恰好は到底釣りが出来るような服装ではなかったからだ。白い半そでのブラウスに、生成りのロングスカート。それに素足で白のスニーカーを履いている。釣りのときはきっちりと結んでしまう髪の毛も、今日は流したままだ。

 自分が何のためにここに座っているのかさえおぼつかない。それでも、あたしはただその防波堤に座り、次第に明るくなっていく海の彼方を見つめていた。

 しばらくそうしていると、あたしの隣りに誰かが座った気配がし、あたしは隣りに座ったのが誰なのかとそちらへ顔を上げた。

「……ミチル?」

 ミチルは何も言わずにあたしの隣りに座り、あたしと同じように防波堤から投げ出した足をブラブラさせた。紺色のTシャツに裾を折り曲げたデニムパンツ。ミチルにしてはラフな格好だ。まぁ、ミチルらしく首には刺繍がほどこされたオシャレなスカーフが巻かれていたけれど。

「一度来てみたかったんだよねー」

 いきなりミチルがそう言って、あたしの方を向くと微笑んだ。短く切ったボブ頭のミチルの髪の毛は、風が吹いても邪魔にはならず、ミチルはその風さえも気持ちよさげだった。

「エルのフェイスブックで、この光景はよく見てたじゃん? 私も釣りに行ってみたーいって思ってたんだ。でも、うちの旦那さん、インドア派だからさ」

 あたしは何も言えず、ミチルの言葉をこぼさないように聞きとることに徹した。

「それに、エルに言いたいこともあったしね。エルと話すなら、ここがいいなぁって思ったの」

 ミチルのその言葉が終わらないうちに、あたしの目からは涙がこぼれ落ちていた。ミチルの顔を見つめているだけで、涙が出るのだ。言いたいことはたくさんあるのに、言葉にすることは出来ない。

「もう! ほら、そうやって! いつまで泣いてんの?」

 ミチルがあたしの肩を抱いた。一年前のミチルからは考えられない華奢な腕が、あたしの肩を抱く。

「エルが何にも書かないから気になってさー。いつもの元気はどうしたの? 何いつまでも凹んでんの!」

 ミチルはあたしを叱責し続けた。あたしは言い返す術もなく、言われるがままだ。

「あの後、私の作品集作ってくれてるんだってね。妹から聞いた。私の作品の画像は、エルが一番持ってるもんね。そうやって、自分にしか出来ないことを考えてくれたってことに、私感謝してるよ」

 叱責していたかと思えば、今度は感謝。ミチルは勝手だ。ミチルにそう言われるたびに、あたしの目からはとめどなく涙が溢れる。

 ミチルはフラワーアレンジメントのフリーの講師をしていた。最近は、プリザーブドフラワーでのアレンジメントが人気で、私が副業でやっている雑貨やの相棒でもあり、高校、大学からの友人でもある。

「あたし、ダメだよ。一人じゃどうしたらいいか分からないもん」

 どうにか絞り出した声を聞いて、ミチルはあたしの肩に置いた手に力を入れた。

「なーに言ってんの! あの後だってオーダー来てたの知ってるよ? 頑張って作ってたじゃん。何も知らないと思って、いい加減なこと言うな!」

 おどけた口調でそう言って、ミチルはにこにこと笑った。

「何で笑えるの? 何でそんなこと言うの? ここに来てくれたのはお別れのためってこと?」

 泣きながら言うあたしを、ミチルはやっぱり微笑んで見ていた。

「『一人じゃどうしたらいいか分からない』『あたし、ダメだ』なんて、ネガティブな言葉じゃん。私、言ったことあるよね? 『言霊』ってあるんだよって。口から出す言葉はポジティブな言葉じゃないと! って」

 そう告げられたのは、二年ほど前のことだ。その頃、ミチルはやたらと占いや気功などにハマっていて、「ポジティブに生きることにした」と宣言したのを思い出す。あの言葉の中に、こんなにも深い意味と意思があったことに、その時のあたしは気づいていなかった。

「あとさー。エルは一人になったみたいに言ってるけど、全然一人じゃないじゃん。よーく考えてみなよ? いい? まずさ、トトくんとみどりくん、ひいろくんの家族がいるでしょ? それに、ライターの師匠かぎっちさんがいるでしょ? カボスを送ってくれたイノさん、作品を読んでくださる唐瀬さん、みれにんさん、藤田さんとおしゃべりするの楽しいって言ってなかった? ワクちゃんはすごくいい刺激をくれるって言ってたのも覚えてるよ? 詩画展F‐me(エフミ)のメンバーを率いてるのはエルだし、エルが書く小説を楽しみにしてくれている貴重なファンがいる。リアル友だっているじゃん? 数が多けりゃいいってもんじゃないのは分かってるでしょ? 下関の真美子さんやお茶の先生してる智子さん。琴時代の先輩の先生たち。とにかく、エルは一人なんかじゃ絶対にない。いい? 分かった?」

 ミチルは何度も念を押すように、あたしを見つめた。涙でぼやける視界の中で、あたしは必死にミチルの目を見つめる。

「それに、そうそう! 『へのへのかっぱくん』の画像の著作権を許可してもらったカカオ&シロップさんだって、エルの大事な友だちじゃん!」

 あたしはもう頷くことしか出来ない。でも、ミチルの目だけはしっかりと見続けた。

「へのへのかっぱ♪ いいコトバだよね! いつものエルに戻ったら、何でも『へのへのかっぱ』でこなしていくよ。大丈夫!」

 ミチルはそう言うけれど、あたしは悲鳴に近い声で食い下がった。

「やだよ! ミチルがいないってだけで、ほんとに心の中にぽっかり穴が開いちゃって、あたし、あたし、どうしたらいいのか分からないんだもん! 大体、なんで? 一週間前だったよね? メールで話したの? あたしが作ったブローチの画像を送ったときは『いい出来じゃん』って普通に話したのに、なんでいきなり! なんでいきなり逝っちゃうのよ!」

 あたしは必死な声で言ったというのに、ミチルは声を上げて笑った。

「あはははは。エル、それはムリでしょ! あはははは」

 涙と共に怒りが沸いて、あたしはミチルをキッと睨みつけた。

「こわー。エルに怒られるの初めてかも!」

 ミチルは相変わらず飄々とした様子で茶化しながら、あたしの肩から頭へと手を伸ばし、あたしの頭をぽんぽんと撫でた。

「ミチル、これから逝きまーす! なんて、宣言できっこないでしょ? それに、私もこんなに早く自分が逝くことになるなんて思ってもなかったし。普通にね、ちょっと身体が辛いから横になろうって、そう思って横になったら、静かに、ほんとに静かに心臓がぴたりと止まってね。うわー、こっちの予定も考えてよーって一瞬思ったけど、でも、最後ってそういうものみたい」

 そこまで話した後、波の音だけが聞こえる防波堤で、あたしとミチルは明るくなっていく水平線を黙って見つめていた。

「一カ月だね」

 不意にミチルが言って、あたしが顔を上げると、またミチルが笑った。

「私の命日が九月二十日。今日は十月十九日。このままエルが書かなくなったらって心配してたけど、一カ月が経って、またエルが書き始めて。それを確認出来て良かった。私、夢を追いかけるエルのこと応援してたからさ」

「うん……」

「エルは一人じゃない。私だってそばに居る。それは忘れないで」

「うん……」

 あたしが返事をすると、ミチルが立ちあがった。あたしも立ち上がろうとしたけれど、身体がいうことをきかない。あたしは防波堤に座ったまま、ミチルを見上げた。

 ミチルはあたしを見下ろし、ニコッと笑った後「あっ!」と思い出したように付け加えた。

「私さ、六月から言ってるんだけど、覚えてる?」

 六月……? そのワードに引っかかりを覚え、あたしが考え込むと、ミチルがまた笑った。

「エルのぐるぐるパンが食べたい。焼きたてね! 珈琲も忘れないで!」

 これがミチルとの最後の別れになる。そう分かっているというのに、こんなときに『ぐるぐるパン』か! そう突っ込みたくなるほど、ミチルの笑顔は明るかった。

「分かった。明日の月命日に焼いてあげる!」

「サンキュー!」

 ミチルは嬉しそうにそう言うと、あたしの前から消えた。バイバイもまたね! もなく、ただ忽然と消えた。



 あたしは、これまでの人生で人の死に直面したことが何度もある。けれど、ミチルの死は、これまでにない痛みをあたしの中に残した。これほど急で、辛い別れはなく、この一カ月何も手に着かなかった。だけど、カカオさんにいただいた『へのへのかっぱくん』を見ていたら、また書きたいという衝動が湧いた。書くと言っても、どうしてもまだ想像力が動かず、ミチルのことしか書けそうにないのだけれど、ミチルのことは残しておきたいとも思ったからだ。

 彼女は、三年前にアスベストによる肺気腫の診断を受けた。稀にそこからガンに移行する患者がいるらしいのだが、彼女はその「稀」の中に入ってしまった。

 ミチルはあたしに自分が「癌」だと打ち明けてくれることはなかったけれど、入院退院を繰り返すたびに細く痩せて行く彼女を見て、あたし自身、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。

 肺がんは、苦しいと聞く。でも、あたしの前ではおろか、家族の前でも「苦しい」と漏らしたことすらなく、彼女が泣いたのは「ガン告知」を受けた日だけだったそうだ。

「自分らしく生きていく」

 告知を受けてからの方が充実した生き方をしていたように思う。ご主人が葬儀のときの挨拶の中で言われた言葉が浮かぶ。


 ミチルは、最後までポジティブだった。

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へのへのかっぱくん 恵瑠 @eruneko0629

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