笑顔をみせて

森音藍斗

はじめに ―1

 誰もいなくなったグラウンドを眺めている。

 夏の暑さが微かに残った秋の入り口、今がこうやって芝生に座っているのに、ちょうどいい気候だった。

 今週末、サッカー部に大きい試合があって、野球部がグラウンドの割り当てを高値で売ったんだそうだ。野球部としては夏の大会が終わったばかり、体づくりをしてもいいけれど、たまには休日も悪くないということだろう。

 だから、今日の野球部は珍しくオフ。私は、隣の彼氏を横目で見た。彼は野球部の次期キャプテンと囁かれている一年生だ。二年生で文芸部部長の私より、ひとつ年下。

 誰もいなくなったグラウンドの方を見て、目を細めた彼は、私と同じように黙って座っている。

 常に笑顔を絶やさない彼は、今も柔らかく微笑んでいた。

 それに安心して、また私も前を向く。

 幼馴染みでもある彼は、一年後輩だけど、背も高いしスポーツもできるし、諒輔と違って優しいし。

 今日は、部活時間中ずっとこうしていた。他愛もない話をして、並んで座っているだけ。ひたすら、何も考えないで。

 この桜の樹の下は、文芸部員の特等席だ。私は部活中よくここに来て、野球部の彼を眺めている。

 校門が閉まるまで、残り十五分ぐらい。さっきまでグラウンド中を駆け巡っていたサッカー部も、すでに部室に撤退している。

 文芸部の部室も、もう諒輔が閉めてくれているはずだ。

 文芸部たったひとりの一年生である諒輔は、一年前の私たちより遥かに謙虚で気が利いて、毎日鍵当番を買ってでてくれている。先輩が口を出せないほど、毎日仕事は完璧だ。

 そう考えると、部長の私が外でこうやってのんびりできるのも諒輔のおかげなのかもしれない。

 あと五分ぐらいなら、まだここに居れるかな……。

茉緒まおちゃん」

 唐突に、彼が私を呼んだ。

「ん?」

 彼の方に目を向けると、目が合った。その、珍しく真剣な眼差しに思わず目をそらす。

「なに?」

 彼は、またしばらく押し黙ったあと、徐ろに言った。

「キスしてもいい?」

「…………」

 ……落ち着け自分。落ち着け。

 まだ早いんじゃ、と言いかけて気づいた。付き合いはじめてからもう一か月なんだ。

「……ハルちゃんも、そういうお年頃になったんだなー」

「そのあだ名やめてって言ったよね? あと、年下扱いも違うでしょ」

 冗談めかしても、はぐらかされてはくれなかった。ふてくされたように言い、無邪気に訊いてくる。

「いいの? 悪いの?」

「……悪いわけないじゃん」

 え、嘘、今? ここで?

 でも、もう後には退かせない。彼は、そんな目をしていた。

 ぞく、と寒気がした。

 大丈夫大丈夫、はじめてでもないんだし。私はハルちゃんの彼女だから、むしろ嬉しい、はず……。

 自分に言い聞かせながらこわごわ目を閉じる。

 左耳あたりに彼の手が触れて、思わず体がびくっと震えた。それを誤魔化すように、座り直す。

 やばい、目閉じちゃったからいつ来るか分かんない、けど今さら目とか開けらんない!

 え、ほんとにしちゃうの?

 嫌だ、来る――

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