第15話 靄の中の自殺者

 木原の愛は深いものだった。

 植物状態の女性患者を手とり足とり、やさしく扱い、愛撫とも見える触り方で手先から足先へと指を這わせていた。

 この行為は医師や看護師から顰蹙を買っていたが、病院側としてはだいたい目をつぶっているようだった。

 だが、彼の評判が悪くなるのはやむをえまい。もともと、評判なんてものはなきに等しかったわけだが。

 彼に与えられた称号は「ヘンタイジジイ」とか、そんなところだったが、当の本人はヒーローか美男子のつもりらしかった。

 彼女について意気揚々と語る木原からは六十前という年齢を超越した自信と確信がうかがえた。

 えてして他の女性からまったく相手にされないと、無抵抗な人間を選ぶようになる、というか、もてあそぼうとするようになる、これは幼児性愛などに近いものといえよう。

 恋愛に年齢は関係ないといえばそれまでだが、むろん未成年は除くとして、ともかく、何の抵抗もできない、そういう発想すら生まれないらしい精神病患者に、いくら彼女がかわいらしいとはいえ、手を出す、彼の言葉で言えば無償の愛、献身、純愛ということになろうが、相手にその意思がないといえる状況である以上、やはり彼の行為は糾弾されても仕方がなかった。

 抵抗がないというのが問題で、また、木原にとっては無上の喜びだったといえよう。

 考えてみれば、こういう状況は、特に木原のような男にとって、通常の生活ではありえないだろう。

「気持ち悪い」と言われ、警察に通報されるのがオチだ。

 だが、なぜこれだけ白い目で見られ、ひそひそ悪口を言われていたのに、病院側は放っておいたのか、その点は疑問だった。

 確かに、田沼などが注意しようと、木原がこの行為をやめるとは思えなかった。それくらい木原は彼女というよりこの行為に執着しているようだった。

 これができなくなるなら、少なくともこの施設から去る意思だっただろう。

 彼にとって初めての恋愛だったのかもしれない。

 私から見ると、木原とその女性患者の様子は気持ち悪いというほどのものでもなかった。確かに、変態にも見えたが、見ようによっては息がぴったりの二人に見えないこともなかった。

 意思表示のできない青白い患者に対して、息がぴったりと言うのもおかしな話だが……。

 そして、この問題はある日突然終わりを告げた。

 木原が女性患者にキスしているところをベテラン看護師の小谷という女が目撃したのだ。

 彼女はその場では何もせず、ゆっくり歩くふりをして途中から駆けだし、すぐに看護師長の瀬戸崎に報告し、さらに精神科医たちや事務局長の田沼をあっという間に巻きこんで、日頃のうっぷんも含めて、すさまじい勢いで発散に発散を重ねたのだった。

 木原は愛する人のもとから引き離され、しばらく自宅待機、つまりアパートの一室に閉じこもるように命じられた。

 私はこのことを聞いたとき、木原は童話の王子様か何かのように、キスをすれば姫が目覚めると思ったのかなとか、何故だかわからないが、事態を楽観視したいためだったのか、そんな馬鹿げたことを考えていた。

 私は木原のアパートを訪れようと思ったが、田沼から面会謝絶の命を受けていたため、それもできなかった。

 私としては、いや、誰もがそう思ったと思うが、木原はこれで反省し、女性患者に近づかなくなる、話のレベルは違うが、私と看護師の副島の関係のように、または、木原は責任を感じてここを辞める、それくらいの終わり方になると思っていた。

 確かに、よく考えれば、木原がこのままここで働くことは不可能だったにちがいない。ただでさえ白眼視され、疎まれていたところに、瀬戸崎の言葉を借りれば「吐き気をもよおす」事件が起こったわけだ。何事もなかったような顔をして木原が働き続けることは無理だっただろう。

 だが、事態はもっと意外な形で終焉を迎えた。

 翌朝、木原は靄の深い湖畔のほとりで、死体で見つかったのである。

 警察によれば、自殺とのことだった。

 私はこんな簡単なことで人が死ぬのは考えられないと思った。

 だが、このことを簡単だと思っているのは私やその他の人たちで、木原本人にとっては簡単どころか人生全部をかけたことだったのかもしれない。

 木原はずっと若々しいハンサムな青年のつもりだった。所々で、それに対する疑いが生まれたとはいえ。たとえば、看護師たちに後ろ指を差されたときなど。だが、あの女性患者に会うたびに、自分を取り戻し、再び物語の、あるいは彼の頭の中の妄想の中の美青年に戻った。

 木原は自分が醜怪な老人だということを認められなかった。アパートの自室で鏡を見たときに映った自分の顔を直視できなかった。そして、皆から非難されていることを認めたくなかった。それで……というふうに、私は考えていた。

 とにかく、一人の人間が死んだのだった。

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