天使のマルが守る街

恵瑠

第1話

 あーあー。またやってる。

 天使のマルは、大きな桜の木の枝に腰掛け、一軒の家を覗いていました。その家の中では、今日もママと呼ばれる人と、その娘である美彩(みいろ)が喧嘩をしています。

「あんたって子は、どうしてそうなの!」

 ママが隣り近所に聞こえているのも構わず、大声で叫びました。

 今日の原因は何なのかな?

 マルは、もっとよく見えないかと、枝から体を乗り出しました。美彩の前に、朝ごはんが置いてあるようです。白いご飯とお味噌汁が見えます。おかずも、きちんと置いてあります。

「あたし、朝はパンがいいって言ってるじゃん!」

 美彩が苛立った声で叫びました。

「そんなこと言っても、パパはご飯がいいって言うし、パンよりご飯の方がおなか持ちもいいのよ?」

 ママが美彩に言い聞かせるように、優しい声を出しました。

「もういいよ! どうせ、疲れた、疲れた、しか言わないんだから、あたしの朝ごはんなんて作らなくていいよ! そうしたら、疲れることがひとつ減るでしょ!」

 それまで穏やかだったママの声が、美彩の言葉で痛いほどに尖りました。

「何なのよ! 人がせっかく作ったものにケチをつけて! いいわよ! もう食べなくて!」

 ママが、美彩の前にあったお皿を片づけ、それらを全部ゴミ箱の中に、ざざざ……と捨てました。

「バッカじゃないの? 食べ物は大切にしなさいとか言ってるくせに!」

「あんたが悪いんでしょ!」

 二人の権幕に「びえええええ……」と赤ちゃんの泣き声が聞こえ、ママは赤ちゃんを抱くために別の部屋へ移動しましたが、言い合いは続いています。

 マルは、やれやれ……とため息をつきました。

 どうしたものか、頭が痛い現状です。


 マルは、神さまから、ママや美彩が住んでいるこの町を守るように言いつけられた天使です。人間にマルは見えませんが、マルは町の中で問題が起きると、人間には気づかれないようにそれとなく事を運んで、それらを解決へ導くことが仕事でした。そして、ここ最近、マルが解決しなければならない問題というのが、このママと美彩の問題でした。


 マルはこの町の担当になってずいぶん長いこと仕事をしてきていましたので、美彩のことも小さいころから見てきました。少し前の美彩は、とても素直な可愛らしい子でした。リーダーシップがあって、困っている人を放っておけない優しい子でした。横断歩道で困っているおばあさんを助けてあげたり、捨て猫の飼い主を捜してあげたりしていたのを、マルは見たことがあります。

 けれど、ここ1年ほどで、美彩はずいぶん変わりました。

 去年、ようやく出来た妹の美空(みそら)の面倒も見なくなり、今は、美空のことを邪魔者扱いさえしています。そして、ママとの喧嘩が増えました。

 美彩は5年生です。何も分からないほど子供ではないはずです。なのに、ママに対して反抗的で、毎日毎日幾度となく喧嘩が始まり、それは外にまで聞こえて、近所の人たちも美彩を見る目が変わってきていました。

「どうにかしなくちゃ!」

 マルはそう思うのですが、ママと美彩の様子を毎日見ては、ため息をつくだけ。どうしたらいいのか分からないのです。

「どうして親子なのに、あんなに喧嘩になってしまうんだろう?」

「いつも美彩から何かを言って喧嘩になってしまうようだけれど、美彩は何にイラついているんだろう?」

 その原因を知りたくて、マルは、町のパトロールが終わると、暇さえあれば美彩とママの様子を見ていました。が、いつも二人は喧嘩になって、罵り合って、最後には必ずこうなります。

「あんたなんて、産むんじゃなかった!」

「あたしだって、産んでなんて頼んでないし!」

 そうして二人は、お互いの部屋のドアを激しい音をさせて閉め、部屋に閉じこもってしまうのです。今日もまた、二人は同じことを言い、そのまま部屋に入って出てきません。

 マルは、また「はぁ」とため息をつきました。


 マルは悩みましたが、こうなったら仕方がありません。月に一度開かれる「天使会議」のときに相談してみよう! そう決心しました。

 天使会議というのは、マルと同じように、町を守っている天使たちが集まる会議のことです。会議では、それぞれの天使たちが、自分たちが担当する町の様子を報告したり、解決できない問題を解決するためにはどうしたらいいのか? などの相談をしていました。

 天使会議は、町のみんなが寝静まった真夜中に行われます。

 待ちに待った日が来たマルは、張り切って会議に向かいました。

 会議は、天使たちが担当している町の雲の上で行われます。

 今日は、シカクさんという、ベテラン天使の町の上での会議でした。

 マルも、ずいぶん長いことこの仕事をしていますが、ほかの天使たちに比べたら、マルなどまだまだひよっこ天使でした。

 会議中、天使たちはいいように寛ぎながら話をします。ベテランのシカクさんは寝転がり、サンカクさんは胡坐をかいて、ダイケイさんは羽を使ってふわふわと浮いています。

 マルは、先輩方の手前、きちんと正座をして座りました。

 それぞれの報告が終わったあと、マルは思い悩んでいるママと美彩の問題を話しました。どうしたら解決できるのか分からないので、相談にのってください。と。

 マルの話を聞き終わると、ダイケイさんが腕を組み、ふわふわ飛びながら言いました。

「あれだね。『表と裏問題』だね」

「表と裏問題?」

 マルには謎の言葉です。

「そうだな。『本音と建て前問題』とも言うな」

 サンカクさんもそう言って、胡坐を崩すと、そのまま雲の上に寝そべりました。

「どういうことでしょうか?」

 マルは全く分からず、シカクさんの方を見ました。シカクさんは寝転がったまま、羽を大きく広げ、伸びをしました。

「マルにはまだ難しいかもしれないけど、人間って、心の中に思ってることを素直に言わないときがあるのよ。『こうして欲しい!』って思ってるくせに、『いいです。自分でやります』って断ったりしてね」

「逆のことを言うってことですか?」

「そう。だから、表と裏なの。『建て前』は、そう言った方がまわりの人から良く見られるから……の、嘘。マルの話を聞いていると、ママも美彩も、お互いを嫌って喧嘩しているようには思えないわ」

 そうなのかな? と、マルは考えました。あんなに罵り合っているのに、嫌っているわけではない?

「しかもさ、『表と裏』も『本音と建て前』も、大人になればなるほど、上手になるんだよ。本音を隠すことも、嘘をつくことも、それが上手になればなるほど『大人』とみなされるようになるんだ」

 サンカクさんが、残念そうに言いました。

「嘘をつくことが上手になれば『大人』なんですか?」

 マルは驚きました。

 天使は嘘をつくことを神様から禁じられています。もし嘘などついてしまったら、その羽を奪われ、天使でいることを辞めさせられてしまうのです。

 そんな恐ろしいことなのに、人間は「嘘がつけれなければ」大人にはなれない。マルは、初めて人間を怖いと思いました。

「俺が前、同じようなことを解決したときは、お互いの本当の姿を見せるきっかけを作ったよ。お互いに意地を張ってるだけだと思うから、本当の姿を見せることが出来れば、解決できると思うけど。『大人』になっているママを変えるのは難しいと思う。だから、まだ『大人』になっていない美彩の方を変えるほうがやりやすいんじゃないかな?」

 さすがサンカクさん!

 マルは嬉しくなって、シカクさんたちにお礼を言った後、うきうきして町へ帰ってきました。

「本当の姿」を見せることが出来れば、解決!

 ですが、町へ戻ったとたん、マルのうきうきした気持ちが沈み始めました。

「本当の姿」って、何?


 美彩は、ここのところ、友だちとも遊ばなくなりました。学校でも目立たなくなって、休み時間も一人でいることが多く、誰かが話しかけても答えることもありません。学校から帰ると部屋に閉じこもって、部屋の中で音楽ばかり聞いています。

 あの美彩のどこに「本当の姿」があるのか?

 美彩とは反対に、ママはいつも忙しそうでした。美空が生まれてからというもの、寝る時間さえ無くなっているようでした。それに加え、家事もあります。パパはいつも仕事で帰りが遅いので、すべてのことをママが1人でこなしていますので、ママが大変なのはよく分かりました。

 あんなに、ママは頑張っているのになぁ……マルはそう思いながら、ママの様子を見ていました。

 そうだ! まずは、美彩に、ママの大変さを見てもらおう!

 マルはそう決めると、早速美彩の部屋を訪ねることにしました。

 本来、天使は人間には見えません。だから今日は特別に、美彩にマルが見えるよう、魔法の粉をかけてありました。

 美彩の部屋の窓から中へ入ると、美彩は目を見開き、最初は驚いた顔をしていましたが、それはすぐに消え、寂しそうな顔になりました。そして、マルに向かって言ったのです。

「あたし、死ぬの?」と。

「どうしてそう思うの?」

 マルが聞くと、美彩は答えました。

「天使が見えるなんて、天国からお迎えに来てくれたってことでしょう?」

 マルは慌てました。そんな誤解を与えてしまうなんて!

「違うよ? 美彩は死なないよ? それに、死を迎えるときに来るのは死神で、天使じゃないよ?」

 そう言うと、美彩はますます暗い顔になっていきます。「死なないよ」と伝えたのに、どうしてそんなに辛そうな顔になるのか、マルには分かりません。

「なんだ。死なないんだ。がっかり……あたしなんか、死んじゃえばいいのに」

 ぼそりとつぶやかれたその言葉こそ、美彩の「本音」だとマルは思いました。

「どうして死にたいなんて考えるの?」

 本当のことを話してくれるかは分かりませんでしたが、マルは聞いてみることにしました。

「だって……あたし、自分が嫌いだもん。生きてても、楽しいことなんて全然ないし、ママとは喧嘩ばっかりだし、美空のことも可愛がれないし」

 美彩は、ひどく落ち込んでいました。毎日、あんなにママと怒鳴り合っているというのに、あの激しさは、今の美彩からは全く感じられません。

「美彩、ぼくと手をつないで? ぼくと手をつなぐとね、姿が見えなくなるんだ」

 マルが手を出すと、美彩は素直にその手に触れました。すぐに美彩の姿は消え、鏡にさえ映りません。

 マルはそのまま羽を広げ、美彩と一緒に空中へ浮かぶと、外へ出ました。いつもマルがしているように、桜の枝に腰掛けます。

「美彩も知っているとは思うんだけど、ママのことを見て欲しいんだ」

 美彩は大人しく頷き、マルと一緒に部屋の中を覗き始めました。

 時刻は夕方。

 晩ごはんの支度で忙しそうなママの様子が見えます。ママは、キッチンでお野菜を切ったり、お鍋で炒めたり、と、とても忙しそうに動き回っていました。ベビーベッドの中では、ようやく歩けるようになった美空が、立ち上がってママを見ていました。と、途端に美空が火がついたように泣き出しました。ママが慌てて駆けて来て、美空を抱っこします。

「よしよし。泣かないの」

 ママに抱かれると、美空の泣き声はぴたりと止みました。が、今度はキッチンからお鍋が噴きこぼれる音がし、ママは美空をベビーベッドに下すと、またキッチンへ。キッチンで動き始めると、また美空が泣き始め……ママは辛抱強く、キッチンと美空の元を何度も往復していました。

「大変そうだね」

 マルは思ったままそう言いました。隣りに座る美彩は、何も答えません。

 晩ごはんの準備が整ったのか、ようやくママが美空を抱っこして椅子に座りました。座ったとは言っても、ゆっくりしているわけではなく、美空にミルクとご飯を食べさせているようです。

 そのママの目はとても優しく、穏やかでした。美彩と喧嘩をしているときの、キリキリとした鋭い目は、そこにはありません。

 不意に、ママの口から言葉が漏れだしました。

「美空、いっぱい食べるのよ? うーんと大きくならなくちゃ。お姉ちゃんみたいに、美人さんに育つのよ?」

 マルの隣りの美彩の肩がびくりとしたのを感じました。

「ねぇ、美空? ママって、ダメダメなママだと思うわよね? 大人のくせに、美彩にあんなこと言っちゃうんだもの。自分でも大人げないって分かってるのにね。美彩が生まれたときも、こうやって毎日『大きくなってね』『いっぱい食べてね』って、言ってたのに。美彩が生まれたとき、ママもパパも、あんなに大喜びしたのにね」

 ママの目からぽろりと涙がこぼれました。美空が「あーあー」と言いながら、ママの顔をじっと見ています。

「ママなんて、ママ失格だよね? 寝る時間がなくてイライラしてるのを、美彩に八つ当たりしてると思うし、美彩が本当は寂しいんだろうってことも分かってるのに……」

 マルとつながれていた手に、ぎゅううっと力が入り、マルがそっと隣りを伺うと、美彩の目からも涙がポロポロとこぼれていました。その涙を拭うこともせず、美彩は黙ったままです。

「美彩? ママだって、人間なんだからさ。大人かもしれないけど、辛いとか、悲しいとか、きついとか、そういうときもあるんじゃないかな?」

 マルが言うと、美彩は小さく頷きました。そして、のどを詰まらせながらも言葉を吐きだし始めました。

「大人は……完璧だと思ってた。特にママは、ママだから……。あたしがこんなに寂しいのに、美空ばっかり見てないで、あたしのことも構って欲しかったし、そのことに気付いて欲しかった」

 あぁ……これが『本音』

 寂しかったんだ。だから、構って欲しくてあんなにムキになってたんだ。

「美彩、今も『産んでなんて頼んでない』っていう気持ちがある?」

 マルが聞くと、美彩はクビを振りました。

「そんなの本気で思ったことないよ。産んでもらって、パパとママの子供になれて良かったって、ホントは思ってるよ。でも、素直なことが言えないの。あたし、心が病気になってるよ」

 美彩はそう言って、声を上げて泣き出しました。その泣き声には「嘘」も「建て前」もなく、美彩の素直な、本当の涙でした。


 かなりの時間美彩は泣いていましたが、泣いたことで落ち着いたのか、顔を上げた美彩は、ここ最近の暗いイライラした顔の美彩では無くなっていました。何かがすっきりとし、晴れ晴れとした以前の美彩の顔になっているように思え、マルは気持ちが少し軽くなった気がしました。

「天使さま、気づかせてくれてありがとう。あたし、元のあたしに戻れるようにするから。美空の面倒も見るし、ママのお手伝いもする。もう喧嘩なんかしないから……」

 美彩の言葉に、マルは嬉しくなりました。でも、マルは美彩にもうひとつ約束してほしい。と伝えました。

「自分を嫌いだなんて、言わないで? 死にたいなんて、考えるだけでもダメだよ? 生まれ出た命に、無駄な命なんてないんだ。例え悲しいことがあったとしても、精一杯生きて、それを乗り越えれば、新しい何かにつながってるんだ。だから、美彩にも、精一杯生きてほしい!」

 マルが美彩の顔を覗き込むと、美彩は顔を輝かせました。

「本当? 新しい何かにつながるの?」

「その時には分からないだろうけど、その時体験した『悲しみ』や『辛さ』があるからこそ、分かることもあるんだ。そうなるように、ぼくたち天使がお手伝いしているわけだし。だから、美彩にも、精一杯生きてほしいんだ!」

 美彩は力強く頷きました。

「分かった。やってみる。でも、耐えられなくなったら、また来てくれる?」

 美彩の目の奥には、まだ迷っている色があります。マルは、その色を打ち消したいと思いました。

「約束する。天使は『嘘』はつけないから、これは絶対!」

 マルが断言すると、美彩の迷いの色はきれいに消えて無くなりました。

 マルは、その美彩に、自分の背の羽を1本抜いて渡しました。

 美彩には言えないけれど、天使の約束ごとのひとつとして、今日のこの記憶は、消してしまわなければならないからです。天使は、人間に見られてはならない。町を守る天使たちは、その約束を守らなければなりません。

 けれど、困ったときはまた来る! という約束を、美彩の記憶には残らないとしても、何か形に残るものとして残してあげたい。マルはそう思ったのです。

 羽を受け取った美彩は、嬉しそうに微笑み、その羽を大事そうに抱えました。




「ママ、美空のこと、あたし見てるよ」

 ママが晩御飯の準備で忙しそうなのを見て、美彩が言いました。ママは嬉しそうに「ありがとう」と言って、キッチンへいき、忙しそうに手を動かしながら、美彩と美空の様子を見ています。その目には、深い愛情が感じられました。

「ママ? この羽、何の羽だと思う? この間、目が覚めたら握りしめてたの。すごくきれいな羽だから、しおり代わりに使ってるんだけど……。鳩かな?」

 美空を抱っこしたまま、机の上に置かれたブルーの表紙の本の間から、美彩が真っ白の羽を取り出しました。あのとき渡した、マルの羽です。

「鳩にしては大きな羽ねぇ……」

 二人の会話を聞きながら、マルは吹きだしてしまいました。

 天使の羽を持ってるなんて、とても貴重なことです。けれど、その羽を鳩と間違うなんて!

「美彩、今日は美彩が好きなハンバーグだからね!」

「やった!」

 羽のことはうやむやになってしまいましたが、ママと美彩の笑い声が聞こえます。それに、美空の「あーあー」という声が加わり、その幸せそうな声を聞くと、マルの心はほっこりと温かいもので満たされました。

 任務完了のようです。

 マルは、腰掛けていた桜の枝から立ち上がると、羽を広げました。

「パトロールでもするか!」


 今回のことで『裏と表』『本音と建て前』を学んだマルは、また天使として大きく成長しました。解決できる問題も増えることでしょう。

 が、マルは正直、人間って面倒だな……とも思っていました。素直に思ったままを伝えれば

いいのに……と。でも、それが人間ってことなんだろうな……とも思えます。

 マルは、町の上を飛びながら、この町の平和が守れるように、しっかりと目をこらしました。



 マルは天使です。人間には見えません。けれど、目が覚めたとき、もしあなたの手元に白い羽があったなら……

 それは、マルや他の天使たちが、あなたのために何かをしてくれた証なのです。

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