MITORI

恵瑠

第1話

 私には、とても厄介な祖母がいた。彼女は九十歳を過ぎた頃から、私が一緒に住んでいた実家ではなく、病院住まいになっていた。本来ならば、老健施設での生活が一般的なのだろうが、痴呆のほかにパーキンソン病というものを発病しており、その治療を目的とする。という意味で、病院に入院することが出来たのだ。

 私は地方に住んでいるが、私の住んでいる町の中で私の実家はそこそこに大きく、有名というか、つまらないプライドを持った家だった。私はその家の長男の娘として生まれ、三年後に弟が生まれるのだが、「本家」と呼ばれる実家には、物心ついたころからたくさんの人が出入りしていた。特にお正月やお盆。そして、町の一大イベントである秋祭りの日は、お客さんを呼び「本家」であるわが家がごちそうを振る舞わなければならない。

 長男の嫁として嫁いできた私の母は、同じ町の人間だったので、案外すんなりと自分の立場を受け入れたようだ。「本家」の娘である私も、それは同じこと。「本家」の嫁、娘である自分たちがそういうことをしなければならないことに疑問を抱いたことはなかった。ただ、お客さんがみえると、朝から真夜中までくたくたになりながら働かなければならず、その意味だけが分からなかった。

 それに、よくドラマでもあるけれど、そういう「家」の祖母というのは、非常に意地が悪い。自分だって「女」のくせに、男尊女卑傾向が強く、弟は「家の跡取り」だからと何かと優遇されていた。

 いつだったかは覚えていないけれど、まだ小学生の頃だったと思う。祖父母が沖縄旅行に行くことになった。弟はそれをうらやましがり「ついていきたい」と訴え、その望みは簡単に叶えられることになった。私もまだ子供だったので、正直に言うと、羨ましくてたまらなかった。旅行になんて、そう滅多に行けるものでもなかったからだ。

 そんなとき、祖母が物陰に私を呼んで言った。

「あんたも旅行に行きたいね? Yくんは跡取りやからもちろん連れて行くけど、でも、旅行にはお金がかかるからね。行きたいなら、お母さんにお金を出してくださいって頼むんだね」

 屈辱的だと思った。でも、母が私を不憫に思ったのか、お金を出してくれたらしく、私は旅行に着いていくことが許されることとなった。ただ、その旅行中、私はずっと荷物持ちをさせられ、「連れてきてやったんだから」という言葉を聞かされ続けたのだけれど。

 祖母は常にそういう人で、自分を良くみせたがる人。まぁ、ご近所とのトラブルも多い人だったし、よその方が「あの人は面倒だから、あまりかかわらないようにしよう」と噂されていたようだったので、余計にいい気になり、自分は女王様かのような振る舞いが増えていった点もあるとは思う。

 それに、玄関の掃除や洗濯物干しは、近所の人に見られるので率先してやるけれど、家の中の家事をこなしているところを見たことがない。

 母は働いていたので、必然的に私がやることになるわけだけれど、祖父はいつもそれを手伝ってくれていた。ある意味、祖父も祖母の召使のように扱われていて、祖父が働いて得たお給料はすべて祖母に巻き上げられていた。朝ごはんだって、祖父が準備して、祖母を呼びにいくような、そんな関係。

 そして、十年前、私の唯一の理解者だった祖父が昏睡状態に入った。それはどこかが悪いとかではなくて、完全な老衰だと説明を受けた。自力での呼吸が難しく、血液中の酸素量が少ない。血圧が下がり、いつどうなるかわからない……と。

 私は大好きだった祖父の介護を必死に続けた。祖父と私は「友だち」だったので、祖父も混濁した意識の中で、私の名前をよく呼んでいた。だが、祖母は、祖父がいなくなったら、自分の立場はどうなるのだろう? その不安の方が大きかったのだと思う。その頃から「痴呆」が出始めるようになり、昏睡状態にいる祖父をいきなり叩き「あたしがこんなに看病してやってるのに、目を覚まさないか!」と怒鳴ったり、「こんなとこにはいられない」と言って、病室を出ようとするのだけれど、ドアの開け方が分からず、また怒り出す。というようなことが増えていた。

 そうして、祖父は静かに息を引き取った。本当に眠るように、静かに。

 私は亡くなった祖父のヒゲを剃ってやり、手足を拭いて、みんなが到着するのを待っていたけれど、祖母はもはや祖父が亡くなったことで、私たち家族と自分との間に入ってくれる人がいなくなったことに対して不安がり、かなりのパニック状態。お葬式にも肌着で出てくるし、何か言うと「あんたはあたしを嫌いやから、いじめたいんだ!」と言いだす始末。

 家族の誰に対してもそうで、あの時期は本当に大変だった。

 祖父が亡くなったあと、祖母の痴呆は一気に進み、デイサービスを利用したりしていたけれど、足の骨を折り、そのまま入院することになった。でも、それがまた祖母の怒りを最高潮にしてしまったようで、病院に行くと、私の息子たちにまで罵声を浴びせることも増えた。

「あたしがいなくなって、あんたたちは幸せだと思ってるんだろう! あたしだけのけ者にして、あんたたちだけのうのうと幸せに暮らしているんだろう!」

 それでも、退院後しばらくは、自宅での介護を続けた。が、やはり自宅での介護には限界がある。それに、病院のケアマネージャーさんが私たち家族に罵声を浴びせる祖母の姿を見て「生きている家族」の方を大事にするべきだ。という結論を出され、それを私の親二人にコンコンと説かれたようだった。

 祖母は、パーキンソン病という、手足、唇が常に震えている症状も出始め、自力での歩行も困難になっていた。だから、病院に入れることに抵抗があるという母も、やっとそこで了承したわけだけれど、病院に行くたびに、祖母は悪態をついていた。

 私は数々の意地悪をされてきたので、正直、祖母を看取ってあげようという気持ちにはなれなかった。勝手に一人で死んでしまえばいい。あんな人、祖母でもなんでもない。私がされてきたことを思えば、これくらい当然のことだ。

 祖父のときとは違い、私は祖母を嫌いだった、ううん、憎んでいたので、お見舞いになんて行く気もなかったし、行こうなんて思いもしてなかった。

 でも、祖父の七回忌を迎えたある日、何を思ったのか? 私は祖母の病院を訪れてみる気になった。子供たちは連れず、夫と二人での訪問。

 祖母の部屋を訪ねてみたけれど、誰もいなかった。廊下を通りかかった看護師さんに聞いてみたら「たぶん、食堂の窓辺にいらっしゃると思いますよ」といわれたので、食堂を探しながらそちらへ向かってみた。

 食堂と呼ばれる部屋には、テレビが設置されていて、元気なおじいちゃんたちはソファに座って、テレビを見たり、談笑されていた。その中をぐるりと見回して、「窓辺」というキーワードから、窓のそばで外を見ている車いすの人が祖母なのではないかと思い、私はその人の側へと近づいた。

 案の定、それは祖母だったけれど、祖母の面影はない。相変わらず可愛げのない意地悪な顔はそのままだったけれど、パンパンに太り、痴呆特有のなんといったらいいのか分からない、妙な表情をしていた。

「おばあちゃん、恵瑠だけど、分かる?」

 一応と思って声をかけてみた。右手は胸の前にぐにゃりと曲がり、固定されたように固まっている。それが小刻みに震えていた。

「さぁ、誰だったかねぇ……」

 聞こえてきたのは、そんな答え。私のことも、もう分からないらしい。そして、左手で外を指さし、唇をワナワナさせながらこう言った。

「あんたさん、あの山は朝日山(あさひやま)で間違いなかやろうか?」

 指さす方向には、確かに朝日山と呼ばれる山が見えていた。

「そうだよ。あれは朝日山だよ」

 私が答えると、祖母は少し安堵したようにふっと息を一度吐いた。

「あたしの家はですね。あの山の近くにあるとです。おじいちゃんと孫と桜を見に出かけたことがあるとですよ」

 確かに春になると、私は祖父母を車にのせて、朝日山に桜を見に連れて行った。コーヒー好きの祖父のため、温かいコーヒー缶を買って、桜の下でそれを飲むのが春の行事の一つだったのだ。

 あの遠い日のことは覚えているんだ……と思いながら、そのお花見に連れて行ったのが私であることは分からないのだ。そう思ったら、不意に涙が溢れてきた。

 あんなに嫌いで、あんなに憎んで、祖母がいつ死んでも、私は大喜びだ! 私はそう思っていたはずなのに、急に祖母が「可哀相」に思えた。祖母は、私が泣いていることに気づくこともなかったけれど、私は涙を止めることが出来ず、祖母の車椅子から離れた。

 泣いている私のそばに看護士さんがみえて「イリエさん、あの場所がお気に入りみたいなんですよ。毎日、あそこに連れて行ってって言われるんです」と教えてくれた。


 祖母の生き方は間違っていたと思う。今更それを許すことは出来ない。

 だけど、それから一年後にこの世を去った祖母のことを、私は最近時々思い出すようになった。

 桜の花が咲く、この季節に。

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MITORI 恵瑠 @eruneko0629

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