犬がいる。


 すぐ目の前だ。



 猫ならばいざ知らず、私は犬への興味があまりなく、犬種なども両手で数え切れるほどしか知らない。ましてや姿形と一致するものはその半分ほどだろう。


 件の犬はコッペパンのような色合いをしたで中型犬――柴犬のように見える――であり、私の右目をじっと見据えてまるで動こうとしない。飼い主は見当たらないが、リードを轢きづっていることから、散歩途中に逃げてきたのであろうことは容易に想像がつく。




 こういう状況に陥ることはよくある。つまり、私は犬から関心を集めやすいのだ。好かれている、というのとはまたちょっと違うと考えている。というのも、犬は私に駆け寄り頬を嘗め回したり、しっぽを激しく振ったりすることはない。ただ、足元から20cm程度の距離から私をじっと見つめるのだ。




 こうなったときに私は決まってやることがある。いや、やらなくてはいけないこと、といったほうが正確だ。やらなかった場合の情景がふと頭の中をよぎり身震いしてしまう。私は屈み、犬と目線を合わせる。手に持っていた赤色の缶コーヒーを地面に置いた。




「こんにちは、今日はどうしたのかな?私に教えてくださいな」




 私の声を聴いても、犬はピクリとも動かない。




「なるほど、そんなことがあったんだね。それはひどい。君が怒ってしまうのも無理はない」




 犬の耳がピクと少しばかり動いたが、表情に変化はない。まるで、私のいうことを意図して聞き流しているようだった。




 それから私は飼い主が現れるまで、その犬に向けてしばらく言葉を投げかけ続けた。傍から見たら、犬と会話している風を装うやばい人間だろう。だが、その考えは何も間違ってはいない。


 私は別に犬の言葉なんて一切理解できないし、犬から何かを読み取ることなんて不可能だ。というか、そもそも犬自体別に得意ではなかった。




 では、なぜそんな凶行をしているのか。理由は簡単だ。死ぬのが怖いからだ。


 私は「犬と会話できる人間」として周囲に装わないとチェーンソーでずたずたに切り裂かれて殺されてしまうのだ。




 私をその恐怖で縛り付けている人物は判明している。同じ集合住宅に住む、とある主夫だ。


 彼に、この行為を強制されているのだ。




 今日もその役目を無事果たすことができて、ほっと胸をなでおろした。地面に置いてあった缶コーヒーを再び手に取り、立ち上がり、その場を後にした。


 空いている左手で、路傍にあるぴっしり並んでいるカラーコーンの先端を触りながら歩く。




 「さささ、さささ、さささささささ」




 私はひたすらカラーコーンが途切れる場所までゆっくりと歩き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る