180°のセカイ

恵瑠

第1話

 バシャバシャと激しい雨が窓に打ちつけている。時折、ごうんという音までしているところをみると、風も相当強いらしい。

 帰る頃には止んでいるといいな。せめて小ぶりになっていて欲しい。俺はそんなことを思いながら、トランクス一丁の間抜けな恰好で、風呂用の硬いプラスチックの丸椅子に座っていた。

 ここは、幼馴染のタカが借りているアパートの風呂場。築四十年と聞いたことがあり、キレイという言葉とはかけ離れている上に狭い。床や壁には、今時もうないだろう丸いタイルがいくつもはめ込まれていた。

 俺は何をすればいいのかも分からず、全てを幼馴染である奥谷昂樹(おくやたかき)、通称タカに任せて身を委ね、今から始まる「儀式」に緊張していた。鏡の中の俺は、見ただけでガリ勉と呼ばれるのが分かる顔立ちをしているように思う。ガリ勉、ガリ勉と言われ続けると、そういう顔になってしまうのかもしれない。おまけに、この日のために、先月の服装検査以降髪を切っていないので、俺の真っ黒な髪の毛は耳を全て覆い隠してしまう長さになっていた。

 その俺の背後で、タカは俺のために着々と準備を進めていた。タカは黒のタンクトップに迷彩柄の短パン姿。ほどよい筋肉がなんとも羨ましい。整った顔立ちにこの筋肉。タカがモテるのは当然だろう。そんなタカを鏡越しに見つめていると、ふっと俺たちの目が合った。

「なぁ、ヨッシー、ホントにいいのか?」

 準備を進めながらも、タカは俺が相談を持ちかけてからずっと気乗りがしないらしい。出来ることなら、俺の申し出を断りたいと思っているようだった。

「遠慮せず、思いっきりやってくれ!」

 俺は断られないよう、鏡の中のタカをしっかりと見つめて答える。俺の目を見たタカは、複雑そうな顔をしたが、止められないと諦めたらしい。「俺は知らねぇからな」と、ようやくその気になってくれた。

 タカの手にヨレヨレの安っぽい透明のビニール手袋がつけられ、タカはその手袋の肘近くを輪ゴムで腕に留めた。液体が中に入ることを阻止するためだろう。そして、ビニール手袋のタカの手が、スプレー式の缶からプシュウウという音と共に独特の匂いを放つ泡を取り出した。その泡が出ただけで、辺りは異様な匂いに包まれる。その泡を、タカは俺の真っ黒な髪の毛に塗りつけ始めた。

 俺の横にある銀色の浴槽にはお湯が張ってある。その為に、風呂場の中はかなり蒸し暑かった。おまけにこの臭い。耐えられない。

「タカ、少し扉を開けろよ。暑いし、臭い!」

 俺が言うと、俺の襟足から泡を塗り付け始めていたタカが「バーカ」と返した。

「温度が高い方が綺麗に染まるんだよ。お前の為に、昼間っから風呂に湯を溜めたんだぞ? ありがたく思え!」

 そうなのか……? 俺はこれまで知識を必死に詰め込んで生きてきたつもりだった。でも、まだまだ知らないことがあるらしい。

 額に、汗の粒が浮き上がり、次々に流れ落ちて行く。それはタカも同じで、タカの鼻の頭にも丸い粒が浮き出ていた。

「タカが初めてやったのって中学生くらい?」

 俺は何にもすることがなく、忙しく手を動かすタカに話しかけた。

 作業中のタカは慣れた手つきで俺の頭へ泡を塗りつけている。襟足から後頭部へ、そして左側、右側、前髪、最後に頭頂部という順に。

「ヨッシーの学校、こういうの校則違反じゃねぇの? 大丈夫なのか?」

 俺の質問に答えることなく、タカはそっちの方が気がかりのようだった。

「いいんだよ。俺だって、ハメを外すことぐらいある」

「ハメを外すったってお前……。ただでさえすごい学校なのに、お前、その学校でもトップクラスにいるんだろ? なのに、こんなことしたら内申に響くんじゃねぇの?」

「いいんだって!」

 俺は途中で辞められてはたまらない。と、タカに念を押した。

「お前がいいならいいけどさ。けど、ホントにこの色で良かったのか? 今時この色はあんまり見ないぜ? せめて赤とかの方が良かったんじゃねぇ? 今年のトレンドは赤だしさ」

「マジ?」

 赤がトレンドだなんて知らなかった。ハメを外す色と言えば……俺が思いついた色はこれしかなかったのだ。そう言われれば、タカの後頭部に一つに結ばれている長髪は、赤い。流行りを外さないタカの意見を聞いてから買いに行けば良かったか? と一瞬後悔を抱いたけれど、初っ端は思い切り目立った方がいい。そう思い直した。

「いいよ。どうせ初めてだし。一回やってみて、変だったらまたやり直せばいいし。それにしたって、タカが居てくれて良かったよ。俺、どうやればいいのかなんて分かんなくてさ。ネットで調べてはみたけど、うまく出来なかったら最悪じゃん?」

「まぁ、今日は雨で仕事もなかったからな……」

 タカは高校を中退した後、工事現場で働いている。雨が降ると作業が出来ないため、その日は休みになるのだ。

 俺の頭に万弁なく泡を塗りたくったタカは、ブラシのようなもので更に俺の髪を撫でつけた。ボサボサだった俺の髪の毛が、リーゼント並みにぴったり頭に貼り付く。

「女ものの泡タイプの方がいいなんて知らなかったよ。タカが教えてくれなかったら、俺、普通に男ものの方を買ってたと思う」

「レディースの方が量が多いし、ヘアケア成分が含まれてるんだ。髪を傷めないために、メンズよりレディースの方がおススメ」

 女もの、男ものと言った俺の言い方をレディース、メンズという言い方に変え、タカは説明を加えてくれた。さすがタカだ。中学の頃からヤンキーだっただけはある。それに、元々面倒見がいいヤツなんだ。タカってヤツは。

「よし。全体に塗り終わったから、ラップ巻くぞ」

「ラップ? マジ?」

 タカが取り出したのは、おかずが残ったときに皿に巻くサランラップだ。

「このまま放置してもいいけど、きれいにムラなく染めるためにはラップで密封した方がいいんだよ」

 タカは俺の頭をラップでぐるりと一周巻いた。サランラップは、油断するとあちこちくっついてしまうが、タカは器用なのでそう手こずることもなく、作業はスムーズに進んだ。頭の上の部分がひらいていたが、タカはそれもきれいに折りたたんで俺の頭にくっつけた。風呂場の電気にラップが反射しているせいもあって、鏡の中の俺は宇宙人のようだ。

「よし。このまましばらく待つ」

 タカはそう言って、泡のせいで茶色に変色してしまったビニール手袋を外した。

「しばらくかかるから、テレビでも見てようぜ? あ、藍(あい)が来てるから、せめてバスタオルくらいは巻いとけよ?」

「うん……」

 藍ちゃんは、タカの彼女だ。私立のお嬢様学校に通う女子高生の藍ちゃんと、中学時代から不良と呼ばれていたタカがどこで知り合ったのかは知らないけど、二人が付き合って二年くらいは経つだろう。今は既に半同棲のようになっているらしい。

 先に出て行ったタカに続き、俺もとりあえず風呂場を出た。そして、まずは洗面台に置いてあった黒縁のメガネをかけ、腰にバスタオルを巻いた。トランクスが見えなければいいだろうと思ったのだ。でも……? こういう場合、胸元も隠すべき? って、そんな恰好したら、めっちゃ怪しいヤツじゃん!

 俺は一人で自分に突っ込みながら、腰にバスタオルを巻いた状態で風呂場を出た。

 風呂場を出ると、すぐにダイニング。その奥の一部屋が、タカが借りているアパートでの居間兼寝室兼客室だ。その部屋のベッドの上で、藍ちゃんが壁に背をくっつけ、体育座りをしながらテレビを見ていた。制服のチェックのスカートからスラリとした足が見え、思わず目を逸らす。

 タカの部屋に、藍ちゃんは馴染んでいた。

「藍、コーヒーでも淹れて」

 タカが言うと、藍ちゃんは切れ長の目で俺をチラリと見て、肩ほどの髪の毛を耳にかけながら立ち上がった。

「インスタントしかないよ? 義臣(よしおみ)くんもそれでいい?」

「うん。ありがとう」

 それしかないのなら仕方ないじゃないか。そう思ったけど、邪魔をしているのは俺の方なのだから、お礼だけは言っておかなければ。

 タカはベッドには座らずにカーペットの方に座り、小さな机を引き寄せた。俺もその机のそばに座る。藍ちゃんの手前、半裸の俺が寛ぎすぎるのも躊躇われ、気づいたら正座をしていた。

「俺が言うことじゃないけどさ。お前、どうしたの? ヤケにでもなった?」

 タカは片膝を立て、もう片方の足を延ばして座っている。俺のことを怪しんでいるように見えるけど、それと同じくらい心配してくれているのが分かる。

 それもそのはず。俺が髪を染めたいと相談したのが今日の昼過ぎで、夕方には必要な物を買いこんでここに来たのだから。

「迷惑かけてごめん。自分じゃどうしたらいいか分かんなくてさ。すぐ浮かんだのがタカだったから……」

「ピアスはいつ開けたんだよ?」

 タカに聞かれ、まだ傷みの残る左耳に触れる。

「さっき。思い立ったが吉日って言うじゃん?」

「ヨッシー、大丈夫なのかよ? それって今日、学校サボったってことだろ?」

「皆勤賞が無くなっただけだって! たまには休んだって罰は当たらない」

 俺たちが話していると、藍ちゃんがインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注いだだけのマグを持って現れた。お盆なんて洒落たものはないのだろう。手から手へ手渡しだ。

「熱いよ?」

 藍ちゃんからマグを渡される。マグの取っての部分を藍ちゃんが持っているから、俺は必然的にマグの底、もしくは横部分を持つしかない。

 熱いよ? と言うのなら、その辺気を使ってくれよ! そう思ったけど、口には出せなかった。

 案の定、マグはかなり熱く、俺は右、左と交互に手を変えながら、そのマグをどうにかテーブルまで着地させることに成功した。タカのマグは、藍ちゃんがテーブルまで運んで、タカの前にコトンと置く。やっぱり彼氏とその友だちじゃ、この差は当然か。

「分かってやってんならいいけどさ。気まぐれにやって、後で後悔するのはヨッシーだからな?」

「分かってる。大丈夫だ」

 俺が大真面目にそう言いきると、タカはため息を吐いた。

「ところで、このこと、琴葉(ことは)は知ってんの?」

 琴葉。その名前を聞くなり、俺の身体がビクリと震えた。

「いや……言ってない」

 俺がボソリと言うと、タカは天井を向いて「あちゃー」と嘆いた。

「俺、アイツに殺されんじゃないかな?」

「なんでだよ! 琴葉は関係ないじゃん! 俺の意思でやってんだし」

「琴葉だぞ? 絶対俺がヨッシーを悪の道に誘ったって言い出すに決まってる」

「大げさな!」

 俺たちのやり取りを聞いていた藍ちゃんがぷーっと頬を膨らませた。藍ちゃんはかなりのヤキモチ焼きだ。彼氏であるタカの口から他の女子の名前、それも呼び捨ての名前が出たとなれば、知りたがるのも無理はない。これまで、藍ちゃんが琴葉に会ったことはないはずだし?

「タカちゃん、琴葉って誰? タカちゃんが女の子を呼び捨てにするなんて珍しいもん。元カノなの? ねぇ! 教えてよ~」

 藍ちゃんはタカの隣りに来ると、タカの肩を両手で揺すった。コーヒーを飲もうとしていたタカのマグからコーヒーがこぼれる。

「あちっ! 藍、こぼれた!」

「わあ、ゴメンナサイ! ちょっと待ってて!」

 タカを揺すり、こぼれる原因を作った張本人の藍ちゃんが、慌ててキッチンへふきんを取りに走る。その光景を見て、俺の心は和んだ。なんだかんだ言っても、タカは藍ちゃんのことを大事にしているし、藍ちゃんは一途にタカのことを思っている。それが伝わってくるのだ。思春期男子としては、妬ましい部分も多いにあるが。

 こぼれたコーヒーをふき取り、落ち着いても、タカは琴葉のことには触れなかった。琴葉のことを話すには、俺の事情も話さなければならなくなる。タカは男として、俺の気持ちを察してくれているのだろう。藍ちゃんは納得してはいないものの、タカにしつこく聞いて、嫌われたら元も子もない。そう考え直したらしい。琴葉の名前を出すことを諦め、一瞬大人しくなった。

 が、それは本当に一瞬の出来事で、いつの間に取り出したのか、藍ちゃんは笑いながら俺の方にスマホを向けていた。

「義臣くん、そのカッコ、写メっていい?」

 サランラップを頭に巻き、腰にバスタオルだけの正座する男の図。タカのように腹筋が割れているなら自慢も出来るが、俺のようなヒョロヒョロの体では怪しすぎる! こんな姿をツイッターにでも載せられた日には、俺の人生は終わりだ。俺は無意識のうちに両手で胸を隠していた。

「ちょ! 止めて! ムリ!」

 その慌てっぷりがまたおかしかったらしく、藍ちゃんは更に笑った。

「なんか義臣くん、怪しー。そっちに目覚めちゃうんじゃなーい?」

 スマホを近づけてくる藍ちゃんに困っていると、タカが一喝。

「藍、止めろ! ヨッシー、困ってんだろ!」

「……はぁーい」

 藍ちゃんが大人しく引き下がる。

 すげぇ。これが彼氏の特権? っていうか、男が主導権を握るって、やっぱカッコいい! 憧れる!

 それからしばらくはコーヒーとは名ばかりの、マズイ液体を飲みながらテレビを見た。夕方なので、ニュース番組しかやっていない。俺たちは一言も発せず、ただ流れ出る音と動いている映像を眺めていた。

 ニュース番組が終わろうとした頃、「そろそろいいんじゃないか?」とタカが俺の頭に巻いたサランラップを外してくれた。俺は風呂場へと移動する。

「塗ったヤツを流して、後はいつものようにシャンプーすればいい。カラーリングは髪が傷むから、トリートメントもしろよ?」

 タカの声が聞こえてくる。

 シャンプーだけでも面倒な時があるのに、トリートメントまで? カラーリングも楽じゃない。

 俺はトランクスを脱ぎ、まっ裸になって風呂場に入ると、シャワーを捻って頭にお湯を浴びた。独特の匂いが流れ落ちていく。ベタベタの感触が無くなるまで念入りにお湯で流してから、風呂場にあったシャンプーを借りて泡立てた。とたんに香りが変化する。柑橘系の香りの中に、薄くはなったものの、さっきまでの変な匂いが混じっている。

 ジャカジャカと泡立てていると、手に触れる自分の髪の毛が、いつもよりギシギシする気がした。髪が傷むってこういうこと? シャンプーを終えると、タカに言われたように、トリートメントも忘れずに使った。もしかしたら、これは藍ちゃんの物かもしれないと一瞬頭をよぎったけれど、今日だけ貸してください! と心の中で断りを入れる。

 全ての作業を終えた俺は、最後の仕上げとばかりに頭のてっぺんからシャワーを浴びた。そのシャワーの元栓を閉めお湯が止まると、鏡の中の俺が笑っていた。すがすがしい笑顔だ。

「俺、カッコいいじゃん!」

 俺は自分の姿に満足した。

 鏡の中の俺は、これまでに見たこともない金色を放っていた。


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