第29話:東の魔の森
歌が聞こえる。
切ない歌。
悲しいの?
ないてるの?
誰の声?
「ミヤコ」
ミヤコが声のする方へ振り返るとそこにいたのは、ミヤコの祖母。記憶していた死んでしまった時よりもずいぶん若くみえる。ミヤコが子供の頃の祖母の顔。いや、それよりも前。ミヤコよりもほんの少し年上といった若々しい姿。
「おばあちゃん…?」
「泣いているのかい?」
そう聞かれて、頬に伝わる冷たい感触に違和感を持って触れると、自分が泣いていたのだと気がつく。ミヤコはふんわりと微笑み、涙をぬぐった。
「ううん。大丈夫よ。泣いてない」
これは夢だ。
祖母のいる幸せな夢。
ミヤコを守ってくれる唯一の存在。
ミヤコの平穏のすべて。
悲しいわけがない。
「おばあちゃんがいるから平気だよ」
「ミヤコはいつまでたってもおばあちゃん子だねえ」
「そうよ。おばあちゃんがいればいいの」
ミヤコはそう言って祖母に抱きつく。ハーブと土の匂い。暖かい陽だまりのような温もり。
「あの歌、精霊の歌だったんだね」
「ああ。そうだよ」
「おばあちゃんは精霊の愛し子なの?」
「そうさねえ…ちょっと違うかな」
「違うの?」
「うん、違う。ミヤコは自分が精霊の愛し子だとは思わない?」
「わたしが?まさか」
ミヤコはくすくすと笑う。
「わたしが愛し子だったら、クルトさんが困るからね」
「クルトさん?」
「緑の砦に住んでるのよ。薬草とか研究してて、食堂も開いてるの。わたし、クルトさんのお手伝いしてるのよ。あんなお店を持つの夢だったんだ」
「そうかい。それはいいねえ」
「うん。でもね、いろいろ大変なんだって。魔物とか魔性植物とかね。でもみんなで頑張って生きてるの。だからお手伝いしたいなと思ってね。いっぱい観葉植物とかハーブも植えたのよ。そうそう精霊さんが手伝ってくれてね。こーんな大きくなっちゃってびっくり」
そういうと、どれ程大きくなったか両手をいっぱいに広げて背伸びをした。祖母はくすくす笑って「それはすごいねえ」といった。
「クルトさんはあの国は精霊に嫌われた土地だっていうの。精霊王を怒らせたからだって。だから国と精霊は仲が悪いんだと思う」
「そう思うかい?」
「クルトさんは精霊が見えるのよ。だからあの人が精霊に嫌われてるとは思わない。一人で緑の砦に住んでるの。毒に侵されて死にそうだった。一人で頑張ってたのよ」
「ミヤコと似ているね」
「……そう、ね。でもわたしにはおばあちゃんがいたでしょ」
「じゃあ、ミヤコはクルトさんの隣にいてあげたいのかしら」
「…うん。わたしクルトさんの隣にいたい。助けてあげたいの。でもね、おばあちゃん」
ミヤコはクシャリと顔を歪めると、胸の痛みを思い出したようにはらはらと涙をこぼした。
「淳兄さんは信じてくれない。現実と非現実を見極めろって」
それが辛かった。ミヤコにとって淳も哲也も和子も、ミヤコという人間をわかってくれている人達だと思っていたから。だから傷ついた。誰から何を言われるよりも、淳に拒否されたのが一番辛かったのだとミヤコは理解した。
「それはおかしいねえ」
しゃくりあげながら祖母の顔を見上げると、祖母は困ったように笑って、ミヤコの頭を撫でた。
「ミヤコにとって、クルトさんは非現実なのかい?」
「クルトさんは私の住んでる世界とは違う」
その考えがまた胸に突き刺さるようで、ミヤコは顔をしかめる。
「ねえ、ミヤコ。現実かどうかはその人がどう受け止めるかだと思わないかい?」
祖母は、ふと手を宙に浮かべ手のひらを上に向けると、精霊の光がふわりふわりとその手に乗った。その周りにも楽しげに精霊が舞う。
「精霊が見える?」
「うん、光の粒だけど。精霊だってわかる」
「私にとってこれは現実。私が触れて、見ることができる光。私はこの子たちが生きていると実感することができるし、同じようにミヤコが生きていると実感できる。それが私にとっての現実」
ミヤコはじっと祖母の手を見る。
「ミヤコにとってクローゼットの扉から見える世界は本物?それとも偽物で全部空想のもの?」
「…本物、だと思う…思いたい」
「なら、ミヤコにとって、精霊もクルトさんも全て現実に生きているんだと思えない?ただ世界が違うところにあるだけで信じることは無理だと思う?」
「クルトさんも精霊も、緑の砦も扉の先も本物で現実…」
「ミヤコには、自分が信じる世界をすべて現実だと思って生きて欲しいわ」
「おばあちゃん…」
祖母はミヤコを見て目を細めて頷いた。
「私が愛した人はすべて本物。この世界もミヤコのお父さんも、私が信じたからこそいるのでしょう。そしてその先に生まれたミヤコも全部本物で現実」
ミヤコはごくりと喉を鳴らす。これを聞いてもいいのだろうかと不安に思いながらも。
「おじいちゃんは異世界の人だった?」
祖母はにっこり笑うと、こくりと頷いた。
「会いたい?」
「おじいちゃんに、会えるの?」
「会えるよ。さあ、会いに行こう」
祖母はミヤコの手を取り、ふわりと舞い上がった。宙に浮かんだのかと思えば、足元には精霊の粒が二人の体を支えているのだと気がつく。
「力持ちなのね、小さいのに!」
不思議な感覚に大きな笑顔を見せると、祖母は「あはは」と笑い声をあげる。
「おバカさん。私たちは今、精霊と同じ精霊体なのよ」
「精霊体…?」
「肉体を持っていないということよ。精霊の国にいるんだもの」
ミヤコは目を見開いた。
なんてことだ。異世界だけでなく精霊界もあったのか、と。
だがすぐに別の可能性を考えて青ざめた。
「わ、わたし、もしかして死んだ!?」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。ミヤコの体は向こう側で寝てるだけよ」
「よ、よかった。そうだ、これは夢だった」
祖母は呆れた顔をしてミヤコに流し目を送る。
「現実だって言ったでしょう。なんで今度は夢にするの」
「ええ?だって…」
「世の中には物理世界で理解できないものがたくさんあるってことよ。もう、説明も大変だから、難しく考えなくてもいいわ。おじいちゃんに会いたいのでしょ。あなたはすっかり忘れてしまっているみたいだから、あの人も拗ねちゃってひどいのよ」
「忘れて?わたし、おじいちゃんに会ったことあったの?」
「そうよ。まあ仕方ないか、覚えてなくてもね。記憶を消してしまったから…」
記憶を消した?
誰の記憶?
わたしの記憶?
「誰かがわたしの記憶を消した、の?」
「やあねえ。そんなの、ミヤコ自身に決まってるじゃないの。自分で蓋をしてしまったのよ、ミヤコ」
「わたしが?どうして?」
「どうしてって…辛かったから?じゃないの?」
辛かったから?いつ自分の記憶を消してしまったというのか。何がそんなに辛かったのか。両親の離婚も捨てられた事実も受け入れてきたはず。それ以上に辛かったことって?
「ミヤコはおじいちゃんっ子だったのよ」
祖母はそれだけ言うと、うふふと笑って森の中に降り立った。
「臭い…。瘴気の匂い?どこ、ここ?」
「そうねえ、この国の人たちは
「
「まあ、ずいぶんゴミが増えてるわね」
「この匂い瘴気だよね!危険な場所なんでしょ、ここは!」
「まあ、そうでしょうねえ。薬草が雑草に見える人たちだから仕方ないわね。さて、じゃあミヤコはここをどうしたい?」
「どうって…どういうこと?」
薄暗い森の中、瘴気を吐く植物はノロノロと移動を続けている。ただ精霊のいる場所は避けていて、苦手意識を持っているように見えた。
「ここはもともとミヤコが作った森なのよ」
「わ、わたしが?まさか!」
それは精霊の愛し子が作ったのではなかった?わたしがまさか、精霊の愛し子だとでも?クルトが討伐で死にかけた森をミヤコが作ったとなれば、クルトに殺されても文句も言えない存在ではないか。第一、そんな森を自分が望むわけがない。
「まだミヤコが幼い頃、ここで歌をいっぱい唄ったの。覚えてない?」
「歌…」
「あの日、わたしが口笛を吹いてあなたが歌を唄ったわ」
「あ」
あの夢。
黄金の草原で
「ミヤコが精霊王アルヒレイトと決別した日よ」
はっとして、ミヤコが顔を上げる。
「もうここには来ないと宣言して、あなたが記憶を消した日。そして、あの人がここに囚われてしまった日」
ミヤコは思い出そうと眉を寄せる。そして腹の奥に固まった淀みがゆるゆると流れ出した。
溢れる記憶。
悲しい思い出。
それは、ミヤコが人前で言霊を使って公園の桜を満開にした時のこと。
母親の驚愕した顔、周りの人間が叫んで化け物を見るような顔をしたこと。
母の花壇を一瞬で枯らし、母をも巻き込んだこと。
しばらくして母親が狂ってしまったこと。
父親が祖母に自分を預け、母を連れて自殺してしまったこと。
祖父がミラートの世界の精霊王だということ。
耐えきれなくなって、見たくなくて辛かった記憶を消してしまったこと。
悲しみと絶望から
そのせいで、祖父がこの森に囚われてしまったこと。
そのせいで、祖父と祖母が別れなければならなかったこと。
「う、そ…。わたしが、全部…?」
覚えていなかった記憶。
すり替えていた残酷な記憶。
「お、おばあちゃん…」
「思い出してくれた?」
「お、お、おばあちゃん、おばあちゃ…わ、わたし!どうして、こんな」
「起きてしまったことは仕方ないのよ、ミヤコ。でもね、気づいてしまった間違いに対しては責任を持たなくちゃね」
「どうすれば、いい?わたし…お父さんもお母さんも殺して…この森も、クルトさんの世界も、おじいちゃんも、みんなわたしが…っ」
ミヤコは両手で髪を掴みその場に崩れ落ちて、大声で泣いた。自分の罪で心が潰されそうになった。記憶を消すなんて、罪を忘れていたなんて。そんなミヤコを抱きしめて、祖母は優しく頭を撫でて、微笑んだ。
「ミヤコは、どうしたい?あの人を…精霊王を助けてくれる?」
「……わたしに、できるの?どう、すれば、いい?」
「歌って、ミヤコ。
ミヤコは地面に落ちる涙をしばらく見つめて、ぎゅっと地についていた手を握りしめた。
初めはゆっくりと、呟くように。
次第に顔を上げて、乾かない涙はそのままに、透明な声で謝罪を込めて。
悲しげな歌声に精霊たちは震え、瘴気が浄化されていく。
その波紋は次第に広がり、水紋のように波を打っていく。
森が震えた。
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