クローゼットの向こう側 〜パートタイムで聖女職します〜
里見 知美
プロローグ:新たなる出発
第1話:結婚目前で、捨てられました
「ごめん、ミヤコ。俺、結婚したい人がいる」
3年間付き合った恋人の聡が、わたしとの結婚を目前にしてそう言った。
青天の霹靂とはこういうことだろうか。
それから1年ほど遠距離恋愛をして「結婚を前提に一緒に住まないか」と聡に言われ上京して、去年の終わりに一緒に住み始めた。
結婚したら、「一緒に小さなカフェを開こう」と、ほんの数ヶ月前にそんな会話をしたばかりじゃないか。激しい愛情とかはなかったけれど、結婚するというのはこういうものなんじゃないかと思っていた。
「だから、お前とは結婚できない」
同棲までしてるのに?
「お相手は、誰なのか聞いても?」
聡は視線を泳がせて、少し戸惑ったように顔を伏せた。
「…茜だよ。
なんだと。
聡が結婚したいという女性は、留学中に知り合ったあの女か。クリクリした大きな瞳の可愛い娘。黒髪を金髪に染めてブランド品を買い漁っていて、勉強しに留学してるんだか、ナイトクラブで遊ぶために留学してるんだかわからない彼女に『どっちにするの』と迫られて私を選んだくせに、結局断れきれずにずっと二股かけてたわけね。
都合よく使われていたの、わたし?
「彼女の父親が経営するホテルが、新しくカフェをオープンするんだ。そこの店長をしてみないかと誘われてさ。彼女もバリスタの資格取ってるし、一緒に仕事をしたいと…」
「そう…」
「ミヤコは、しっかりしてるし…俺がいなくても大丈夫だろ?」
なるほどね。
馬鹿馬鹿しい。
でも、そうね。あんたがいなくても資格は取ったし、自分の店を持つ夢もしっかり実を結ぶ予定だったけど。それでもわたし、夢見てたわよ。わざわざ上京して、一緒にお店ができれば、楽しいだろうなとか、どこで店を開こうかとか考えてたわ。好きだと思っていたし、穏やかに一緒に生きていこうと覚悟してた。
それが、何?
雇われ店長っていう餌を目の前にぶら下げられて、うっかり飛びついちゃったってわけ?
ミヤコはふうっとため息をついて目を伏せた。下腹部がぎゅっと絞られる感じがした。黒いものが湧き上がってくる。
「わかった。それで?いつここから出て行くの?」
「え?」
「えっ、て…ここ、わたしの名義で借りてるのよ?」
「ああ…そうだっけ」
「光熱費も水道もわたしの名義だし」
「あのさ、その…落ち着くまで、ここに住んでもいいかな」
「はあ?」
聡にはあまり経済観念がない。留学費も両親に出してもらっていたし、帰国してからも、わたしが上京するまで友人の家を転々としていたらしい。生活感がなく、入った収入は自分の好きなものにつぎ込む癖がある。一緒に生活をするにあたって、折半で生活費を出すはずだったのが、家賃の半分を除いては彼から出されたものはない。食費も私もちだ。食事はいつもわたしが作るし、まあ女だし、こうやって家庭内の面倒を見るのはいずれ私になるのかなと、甘やかしていたのが悪かった。
「そんなの、いいわけないじゃない!茜さんと結婚する予定でいて、なんでわたしと一緒に住めるわけ?茜さんのところに転がり込んだらどうなの?」
「いや、それが…あいつは親と住んでるし…」
基本、ミヤコは我慢強い。ふつふつと苛立つことがあっても、問題点を自分の中で書き上げ解決(あるいは我慢)していくので、怒り爆発!というところまでいかないのだ。
が、もちろん一人前の感情はあるし、ブツブツ独りごちることもある。過去、真剣に怒ったのは両親が離婚した時と、祖母が他界した時の両親の対応の悪さのみ。
そんなミヤコが怒る時。
青白い炎を全身に纏い、絶対零度の冷ややかさで怒りを表す。ブリザード級の冷酷さを持ち、それがたとえ身内であったとしても冷徹になる。弁護士も顔負けの毒舌に3段論法を掲げ、有無を言わせずとことん切りつけて、再起不能になるまで言い負かすのだ。
そして今がまさにそれだった。
怒りを鎮めるように、ミヤコは軽く俯いた。怒るほどのことではない。馬鹿相手に怒っても空振りしてますます腹が立つだけだ。ぎゅっと拳を握る。
「悪いけど、付き合いきれない。ここは解約します。三日以内に出てって」
むかつく。
むかつく、むかつく、むかつく。
3年も付き合ったけど、二股かけてたなんて最低。気づかなかったわたしもわたしだけど、あんまりの扱いに涙も出ない。 優しい人だと思ってた。私と同じ夢を持って、一緒に歩んでいけると思ってた。
でも、結局あの人は優柔不断で薄情で自己中な男だったのね。
結婚なんてしなくてよかった。毎月の生活費も私一人ならやっていける。二人だったから2LDKのアパートに住んで、私の給料から食費も消耗品も出してたし、家具も電化も全部私持ちだった。
聡はそんなこと気にもつかなかったに違いない。たとえ必要のないものでも、ひとつたりとも譲ってやるものか。身ひとつで出ていけばいい。
ちょっとは、自分の足で立ってみやがれ。
わたし一人なら1LDKでも大丈夫だし、そもそもこんな都会に住まなくたっていい。もっと海沿いか、自然の多いゆったりした町を探そう。
ああ、そうだ!おばあちゃんのうちに帰ろう。
おばあちゃんが他界して1年経つけど、一緒に住んでた土地と家がある。今は哲也叔父さんが管理しているけど、わたし名義だから売りに出したりはしていない。連絡を取ってみよう。おばあちゃんの畑がまだ残っているなら、ハーブと野菜を育てて、夢だった小さなオーガニック・カフェを開こう。片手間に作った手作りの洗剤や消臭剤は今ではいい収入源にもなっているから、それも店で売ればいい。
そうと決まれば、こんなところでイライラしていても仕方がない。
ミヤコが8歳の時、両親が離婚して裁判になった。どちらがミヤコを引き取るかで押し付け合いになったためだ。二人とも仕事が大事で、キャリアを伸ばすのに子供は正直なところ邪魔だったらしい。それなら子供なんて作らなければよかったのに。
だが、不憫に思った祖母がミヤコを引き取って、高校を卒業するまで面倒を見てくれた。祖母との二人暮らしは楽しかった。父の弟である哲也と妻の和子はすぐ隣に住んでいて、ミヤコを本当の娘のように可愛がってくれたし、3つ上の従兄弟の
祖母の君代は農家の人で、畑と田園を持っていたが長男であるミヤコの父が後を継がず、都会に行ってしまったため、止むを得ずほとんどの田畑を手放した。残ったのは、君代が住んでいた一軒家と哲也夫婦に残した土地と家。
君代はそれから小さな畑を裏庭に作り、鶏を何羽か育て、自給自足を始めた。もちろん肉や魚は市場で買ったり、叔父さん家族が持ってきてくれたりしていた。祖母が他界した際の遺言で、祖母の持つ土地はミヤコの名義になっていて、ミヤコの叔父の哲也が管理をしてくれている。
それに対して、ミヤコの父と裁判沙汰になる騒ぎも起こしたのだが、結局ミヤコの父は裁判に負けた。それ以来、ミヤコは両親とは顔すら合わせていない。
そんな中で一緒に暮らし育ってきたミヤコの自立心はすくすくと養われ、自然とハーブや野菜栽培に興味を持ち、栄養学にまで手を伸ばした。高校を卒業して専門学校に通ったものの、海外のハーブの食文化にも興味を持ち、留学をしたのだった。
ミヤコが帰国して間もなくして、祖母は風邪を拗らせて他界した。
そんなこともあって、ミヤコは聡のいる町へ移り住むことを決めたのだが、アパートのベランダで作るハーブだけでは店に出すほどの商品も量産できなかった。都会の空気にはいつまでも馴れず、結局祖母と過ごしたあの家が恋しかったのかもしれない。
「よし、田舎に帰ろう」
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