おまじない

偽薬

第1話

「最近眠れないんですか?」


 僕が文芸室に置かれたパイプ椅子に座ってぱらぱらと漫画雑誌をめくっていると、二つの長机を挟んで左前に座る水原が声をかけてきた。水原は我が文芸部に所属する僕の唯一の後輩であり、僕は水原の唯一の先輩である。さっきまで水原は机の上になにやらむつかしそうな厚い本を広げて読みふけっていたが、今は本を閉じて僕に視線を向けていた。

 水原の言う通り、僕はここ一週間ほぼ眠れていなかった。ベッドに入っても一、二時間ほどではっと目が覚めてしまい、それからは全然眠ることができない。有り余った時間も、頭がぼんやりして勉強もできないせいで、登校の時間までおもしろくもないテレビ番組をぼんやり見ることに費やしていた。授業にも集中できないし、食欲もないから、次の土曜に病院にでも行こうかなと思っていたところだった。


「わかるの?」

 

  僕がそう言うと水原はくすくすと笑った。


「わかりますよ。だって、先輩、目のすみひどいですよ」

「ほんとう?」

 

 椅子から立ち上がり、部室に設けられたシンクの上にある鏡を見る。確かに目の下には大きな黒い隈があり、僕がひどく痩せていることもあって、鏡の中の人物はまるで鬱病のパンダのように見えた。


「全然気付かなかった。確かにひどい」

「コーヒーの飲み過ぎですか?」

 

   水原が後ろから声をかけてくる。鏡には水原が映っていて、僕を心配そうに見つめる表情が伺えた。僕はため息をついて椅子に座りなおした。


「一週間ぐらいからうまく眠れていないんだ。でもコーヒーは飲んでいない。変な薬も飲んでないし、四日前から毎晩10キロ走っても眠れないから運動不足が原因でもないと思う」

「なにか理由は思い当たるんですか?」

「……特には」

 

 僕が首を振って答えると、水原は急に黙り込んで目の前にある本の表紙を、まるでそうしていれば僕の不眠が治ると信じているかのようにじっと見つめ続けた。気付かない内になにか水原の気を悪くするようなことを僕は言ってしまったのだろうか――そんな心配を抱き始めていると、水原がぼそっと呟いた。

 

「おまじない、してあげましょうか」

 

 意外な言葉だった。これまで水原の口から、おまじないなんて非科学的な――というほどでもない気がするけれど――言葉を聞いたことなんて初めてだったからだ。僕とは違って水原は理系分野、特に物理が得意であり、テストでは毎回満点かそれに近い点数を取っている。テストの採点された解答用紙が返却される度に水原は僕にそれを見せて自慢しているのだから間違いない。

 理系分野が得意なら非科学的なことは好かないはずだ、というのは僕の単純な偏見に過ぎないだろうけども、ともかく水原の言葉は僕にとって意外なものだったのだ。


「おまじない? 小学生のとき、消しゴムに好きな人の名前を書いて、それを一か月間だれにも見られなければ両想いになれるなんてものが流行ったけれど、そういうものかな」

「それはおまじないというよりも、ジンクスな気がしますが、まあおまじないとジンクスの違いを言えと言われたら私は答えられないですし、同じようなものだと言っていいかもしれません。先輩も好きな人の名前を消しゴムに書いたんですか?」


 水原が片眉を少し上げて質問する。僕をからかっているときに見せる表情だ。


「ノーコメント。ともかく、おまじないって眠れるおまじない? 水原も眠れないときがあったってこと?」

「そうですね。最近のことじゃなくて小学生のときですけれど、眠れないような夜、母がよくそのおまじないをしてくれたんです」

「へえ、なんだか魔女みたいだ」

「そうなんです。母が言うには、私達の遠い祖先に一人の魔女がいて、今も私達の血には魔女の血が流れているけれど、魔女の血が薄いゆえに奇跡と呼ばれるようなこと――たとえば空を飛ぶとか死んだ人を生き返られるだとか――できない。でも、眠れない人を眠らせる程度の力はあるんだって。魔女の力は女から女に遺伝するから、きっと私もこのおまじないを使えるだろうって」


 ここで水原は自虐するようにくすくすと笑った。


「おかしな話ですよね。この科学の時代に魔女だなんて。小学生の私は信じちゃいましたけれど。それを聞いた当時の私は、日曜日の朝に魔法少女の出てくるアニメを見ては、私は彼女たちと同じなんだと思ってました。さすがに今も信じているわけではないです。でも、今思えばあれは、母が幼い私を安心させるために語った、おとぎ話のようなものなんじゃないかと思っています」

「一種のプラシーボ効果なのかな」

「そうかもしれません。なんであの頃の私が上手く眠れなかったなんて思い出せません。ベッドから見える天井のシミがお化けに見えて怖かったから、なんて他愛もない理由かもしれません。理由がなんであれ、母のおまじないは私を安心させてくれましたし、あれをしてもらうとすぐに私は眠ることができました」


 僕は少し黙って考える。正直言うと、魔女とおまじないという二つの言葉からはあまり良い想像が浮かばなかった。


「そのおまじないは、コウモリの生き血を飲んだり、カエルの肝を食べたりする必要はある?」

 

  僕は少々真剣に言ったのだが、水原は目を細めて、

 

「そんな残酷なことしないですよ。全然痛くないですし、簡単です」

 

 血を飲んだりする必要がないなら安心だ。痛くもないし簡単なら、別にやって損はないだろう。僕はなるべく気軽な調子に聞こえるように言った。


「なら、試しに頼んでみようかな」

「では、やってみましょう」

 

 そう言って水原は本を背後の本棚に戻すと、椅子から立ち上がって僕の隣に来た。

 

「実は私、このおまじないやってみるの初めてなんです」

「実験台にされるのは嫌だな」

「大丈夫です。臓器はなるべく高く売りますよ。じゃあ先輩、こっち見てください。あ、椅子には座ったままで」

 

 僕は椅子ごと90度に回転させて水原と向き合った。いくら水原が小柄と言っても、立っている水原は座っている僕よりも高く見えるなとどうでもいいことを考える。水原の背後で窓から西日が差し込んでいて、カーテンが風にはためいているのが見えた。


「では目を閉じてください」

 

 目を閉じる。眠れないとき特有の、絡まった糸くずみたいな黒い模様が視界に広がった。


「ちゃんと閉じてます?」

 

 風を切る音が聞こえ、瞼を透かして目の前でなにかが動くのがぼんやりと見えた。きっと僕の顔の前で手を振っているのだろう。


「部屋が明るいから真っ暗とは言えないけれど、瞼は閉じてる」

「……では触りますね」

 

 すると顔の横に人の温かさを感じた。水原が両手を僕の左右のこめかみに当てているのだ。水原は色白な女の子であり、またその指や手が細いことから、僕は勝手に水原の指先は冷たいだろうというイメージを抱いていたが、実際は違っていた。水原の手はとても温かくて柔らかい少女の手だった。


「いいと言うまで、目を閉じたままにしてくださいね。そうしないとおまじないが失敗しちゃうから。絶対に目を閉じたままですよ」

「わかった」

 

 返事はなく、多分二分ぐらい沈黙が続いた。その間ずっとこめかみに水原の手の温かさを感じていた。端正に切られた水原の爪の硬さを耳に感じていた。僕に触れている水原の手は少し震えているようだった。顔のマッサージを始めるのだろうかと僕は考えたが、違った。


「じゃあ、失礼します」

 

 という声が聞こえた直後に、右目の下、ちょうど隈があるところに、温かくて柔らかい、なにか湿ったものを当てられる感覚があった。感覚の正体に考えを馳せる前に、右目の下から当てられた何かが離れる感じがして、次に同じことが左目の下に起こった。柔らかくて細いものが一瞬鼻頭に触れた。

 頭が真っ白になった。

 数秒して、僕の目の下に当てられたものが、紛れもない水原の唇だと思い至った。

 水原は僕の目の下にキスをしたのだ。

 気付いた瞬間、頬が熱くなるのが自分でもわかった。耳も熱くなる。水原の指先は耳に触れたままだったから、きっと水原は耳の熱に気づいただろう。

 

 なにか言わなければならない。

 水原になにか言わなければならないと思った。けれども麻酔がかかったみたいに舌がひどくもつれて上手く言葉が出てこない。なんだか上手く呼吸もできない。きっと今の僕の表情はひどく困惑して愚かしいものになっているのに違いなかった。

 なんでもいい。何かを言おう。今日の天気の話だっていい。雪男の存在を信じるかという質問だっていい。

 必死に口をもごもごさせていると、舌の麻痺がようやく解ける。僕は口を開いてこう言った。


「め、目を開けていい?」


 我ながら間抜けで気の抜けた声だった。 


「まだ駄目です」


 水原は即答する。僕は数十秒間沈黙する。その間ずっと水原の手の温かさを感じていた。


「……開けていい?」

「……まだ駄目です」


 またしばらく黙っていると、今度は水原の方が口を開いた。


「これで終わりです。目、開けていいですよ」

 

 恐る恐る目を開ける。目を瞑っていたせいで少し視界が青みがかってはいたが、相変わらず水原は僕の前に立っていて、水原の背後では窓から西日が差し込んでいて、カーテンが風にはためいているのが見えた。目を閉じる前と、なにも変わらない世界。けれどなにかが違った。姿形は同じまま意味がすっかり変わっているように思えた。

 水原を見上げる。水原は笑みを浮かべていた。


「今夜はよく眠れるといいですね」

 

 そう言って水原はくすくすと笑った。


 

 

 その晩、僕はよく眠ることができた。翌朝起床して鏡を見ると、あの深い隅は嘘のように消えていた。水原には本当に魔女の血が流れているのかもしれない。

 部室で水原に会って、おまじないは効いたみたいだ、ありがとうと礼を言うと、水原は複雑な表情を見せたが、「それはよかったです」と言ってそれ以上なにも言わなかった。

 水原からおまじないをかけてもらってから何日も経ったが、今のところ僕は毎晩ちゃんと眠れている。毎日ちゃんとおなかが減って一日に三食を食べているし、授業にも僕なりに集中できている。水原も相変わらず部活の時間はずっとなにやらむつかしそうな厚い本を広げて読みふけっている。

 今の生活と、僕が不眠に悩まされる以前の生活との間には、なにも変わるところはない。だから、最近眠れないんですか? と水原が僕に聞いてくることもない。

 

 けれど、

 けれど、と僕は思う。


 もし僕が、また眠れなくなったんだと言えば、

 きっと水原は僕の嘘を嘘と見破るだろう。本を閉じて、くすくすと笑うだろう。

 そしてまた僕にあのおまじないをかけてくれるだろう――


 僕はそう思っている。

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