這い寄る混沌
@Ohanashikakitaidesu
第1話
Yシャツの背中側に汗の跡が浮かび上がるほど熱い夏の日、私はとある町に向かっていた。あまり詳しく書いて私の後を追う人が出ても困るので詳細は伏せるが、東北、宮城県の仙台駅から新幹線で数駅行き、その後電車に乗り換えて1時間程の場所にある小さな町だ。名前を七宮町しちみやまちという。
何故そんな場所に向かっていたかと面と向かって聞かれれば話すのには困る答えではあったが、幸いこれは書面である為私の当時の目的を包み隠さず書くこととする。私が七宮町を訪れた理由はかの神性、這い寄る混沌と呼ばれる存在と邂逅するためであった。この時点で聡明な方はまず最初に私の安否を心配するだろう、神性と出会ってしまった人間がただで済むはずはないのだから。だがそれはひとまず置いておこう。少なくとも私はこうして物書きができる分には正気を保つことができている。
こう書くと更に一部の方たちはこう思うだろう。「本当にかの神性と邂逅したのか?」。結論から言うと私はかの神性と邂逅することに成功した。恐らく、誰しもが想像しなかった過程で。これから私がかの神性とどのような過程で邂逅したのかを記す。
最初に述べた通り、私はかの神性との邂逅を求め七宮町を訪れていた。普段は一介のサラリーマンである私だが、神仏や霊的な現象に対して強い興味(といってもそれは邪神崇拝や幽霊、異形等のオカルティックな方面へのであるが)を持っており、夏には盆休みと併用して有給を取って各地の心霊スポットや神々と関わりが深いとされる土地を巡っていた。この夏も、私はインターネットの匿名サイトの書き込みや、独自に学んで調べ上げた地脈の流れやそれの集まる位置、その土地の風水等を調べ上げ、何かが潜んでいるであろう土地がないか探していた。すると、いつもは様々な場所が旅行の候補に上がって来るのだが、今回はネット、地脈、風水、その全てが七宮町を指していた。細かい経緯は省くものの、それらの情報は全て七宮町の位置を示すと同時に這い寄る混沌の存在を示準したのだ。それらの情報が出そろった時私は興奮を隠す事ができなかった。まさかかの這い寄る混沌に行きつくなどとは微塵も想定していなかった!
そういう訳で、私は期待半分恐ろしさ半分で七宮町の駅に降り立った。かの這い寄る混沌が潜むかもしれない土地なのだ、何かとんでもないものがあるかもしれないぞ、と。しかし駅から出た私を迎えたのは至って普通の田舎町であった。駅前にはポツンとバス停が一つだけあり、目立つ物は周辺には「まきのや」という看板が掛けられた定食屋が一軒だけ。後は家なのか店なのかもわからない家屋が並んでいるだけだった。正直拍子抜けであった。こう、駅についた瞬間に背中に悪寒が走るとか、雰囲気のある建造物が私を圧倒してくるだとか、そういうのを期待していたのだがそういう類の物は一切なかった。私はこの時点で自身の調査の結果を疑う事になってしまった。
まあわざわざ東京から新幹線や電車を乗り継いできたのだし、ここで帰る訳にも行かないのでひとまず宿へ向かう事にした。事前に調べていた宿があったのでバスに乗り(バス停で40分待たされた!)、6個先のバス停で降り、そこから歩くこと十数分して宿にたどり着いた。宿の名前は御宿亭という名前で、宿に入るなり和服姿の女将とその娘が出迎えてくれた。女将は妙齢である事は伺えたものの、皺一つない上品さを感じさせる顔だちをしていた。そして、娘は女将以上に美しく可憐な姿であった。髪型は、女将は髪を結いあげて団子にして纏めており、娘は可愛らしい三つ編みの髪が首の左右から覗いていた。あまり女性を見る目のない私でも美しいというのがはっきりと見て取れた。特に娘の方は花が咲くかの如く、というべきか美しさと若さからくる愛らしさがその顔の内に同居しており、私は思わず彼女に見惚れてしまった。女将とその娘は私に恭しい会釈をすると、私を部屋まで案内してくれた。
安宿であったし、こんな田舎に数件しかない宿の一つとあって正直たかをくくっていたのだが、この宿は私の想像以上に良い宿であった。私は一階の部屋に泊まる事になったのだが、この部屋の窓からは石組みが敷かれた見事な枯山水の庭園が見え、戸には色艶やかな鶴の姿が描かれていた。どう考えても私の払った値段には釣り合わぬ部屋であり、女将に再三この部屋であっているのかと聞いた程だった。大浴場は決して広くはなかったが湯は天然の物を利用しているとのことでとても気持ちが良かった。極めつけに出された夕食も山菜を中心とした鍋でありこれもまた最高であった。あまりにいい宿だったので、私は翌日の朝になるまで本来の目的を忘れて宿泊を楽しんでいた。
翌日の朝、旅の疲れをたっぷりと癒した私は行動を起こそうとして、一つある問題に気付いた。この町のどこへ行けばいいのかが全く分からないのである。それもそのはず、この町について這い寄る混沌の存在が示準された時点で調査を始めたのだが、ほとんど何もわからなかった。結局私が事前に調べてわかった事と言えば、この町が田舎町であるということだけだった。本来はそんな情報しかない状態の場所に等絶対に行かないのだが、今回に限っては這い寄る混沌という存在に会えるかもしれないという興奮が勝った。仕方がないので女将や娘にどこか曰くつきの場所がないかどうか訪ねたが、二人ともそのような場所は知らないという。いくつか神社や寺を紹介されはしたものの、話を聞く限り這い寄る混沌に結びつくような場所ではなさそうだった。初日は紹介された神社や寺を巡ってみたが、やはり何も得るものはなかった。
ちなみにどうやって巡ったかというと徒歩である。バスは50分に一度しか来ない上に路線は一つだけ、こんな田舎にタクシーなどあるはずもないので私は一日かけてこの町中を歩き回る羽目になった。お陰で宿に帰ってくるころにはもうクタクタで一歩も動けない、という有様だった。
私が宿に帰って来るのとほとんど同時に御宿亭の娘が帰ってきた。私の姿を見ると笑いながら一日中回っていたのかと尋ねてきたのでそうだ、と答えると更に笑われてしまった。彼女は上品にホホホホ、と笑いながら私の苦労を労ってくれた。どうやら彼女は夕食の買い出しに行ってきたらしくこのまま私の夕食を作ってくれるという。宿に入っていく彼女とすれ違った時に、彼女からほんのりと良い香りがしてきたので思わずどきどきしてしまった。
その日は昨日と同じように夕飯に舌鼓を打ち、風呂で存分に疲れを癒した。流石に疲れていたのでそのまま寝ようと考えていた所、部屋の戸を誰かが叩いた。宿場亭の娘だった。私が一日中歩き回ってくたくたのようだからマッサージをしてくれるという。こんな事までしてくれるのか、と感激しつつ一応お金はかかるのかと聞いた。本業が一介のサラリーマンに過ぎない私には些末な金でも重要な問題である。娘は冗談めかして満足してもらえたのであれば後で頂きます、と優しく笑って言ってきた。その時の悪戯っぽい笑みがまた愛らしく、私はより一層彼女に惹かれてしまった。
こんな書き方をしていれば気づかれてしまった方もいるかもしれないが、私は出会って一日しか経っていないこの娘にすっかり夢中になってしまっていた。美しく、それでいてどことなく子供っぽさも残した人懐っこしさ、そしてその愛らしい表情。彼女の全てが私を虜にしてしまっていた。彼女のマッサージはとても上手で、ものの20分程で私は十分満足したのだが、彼女と長く話していたいあまりに結局1時間くらいまでマッサージを引き延ばしてしまった。マッサージの最中に私と彼女は色々な話をした。彼女の方は私に普段何をしているのか、どうしてこんな田舎にまでやってきたのかなどを聞いてきた。流石に這い寄る混沌を追って等とは言えないので、オカルトマニアでそれらしい土地を巡っていると答えておいた。私からは彼女にこの土地がどういう場所なのか、この宿はいつからあるのか等という質問をした。質問の最中に聞きだしたところによると彼女の名前は美代子、女将の名前は佳代子というらしい。私は美代子に何度か質問を重ねた後、ここを出ていく気はないのか、という質問をした。美代子は美しく、それでいてまだ若い(21~23歳程に見えた)にも関わらずこんな田舎にいるのが不思議に思えた。私のその質問に美代子は黙って何も答えなかったが、少し悲しそうな、困ったような表情を浮かべていたのが印象的だった。
名残惜しくも美代子が自分の部屋に戻っていってしまったので、私も仕方なく眠りにつく事にした。正直、この時の私は完全に美代子の虜となってしまっていて、這い寄る混沌についての事などには全く考えが及ばなかった。結局次の日は美代子に聞いて図書館があるという事を知ったので図書館でそれらしい文献を探す事とした。しかし何を読んでいても美代子の姿が脳裏にちらついて全く集中できなかった。自分を叱咤し、這い寄る混沌と邂逅するのだろ、と激励を送ってもやはり美代子の姿ばかりが浮かんでしまう。一旦休憩して煙草でも吸おうと思って外に出るとなんと美代子がそこにいた。私は別段ロマンチストというわけではないのだが、流石にこの時ばかりは運命を感じずにはいられなかった。私は舞い上がる気持ちを抑えながら美代子にどうしてここにいるのかと尋ねた。すると美代子は私に会いに来てくれたという。頑張っている私を応援しに来てくれたのだと。その瞬間もう私の心は美代子だけになってしまった。ここに来た目的も忘れてこの娘と一緒にいたいと思ってしまった。私は美代子に遊びに行かないかと誘った。彼女も嬉しそうな顔でそれを承諾してくれた。
それからは夢のような時間だった。彼女の案内で七宮町中を巡った。正直殆ど何もない町であったし、いつもの私ならばこんな退屈な町はまっぴらごめんだろうが、美代子がいるというだけでこの町は私にとって光り輝く都へと早変わりした。彼女の透き通る声でガイドされれば例え廃屋だろうと私の目には光り輝く宮殿に見えた事だろう。彼女と過ごす時間は至福であったし、彼女の姿を目に留めるだけで私はとてつもない幸福感に包まれた。夕方頃になって、美代子に人気のない神社を案内された時私は夕日に照らされた彼女の可愛らしい笑顔を見て自分の中の思いがこれ以上ない程に昂るのを感じた。その感情の勢いのままに私は彼女に自分の思いの内を明かした。彼女は悪戯っぽく、それでいてまるで慈愛に満ちた聖母のような表情で私を受け入れてくれた。私達は唇を重ね、そして人に見つからぬように注意しながら肌を重ね合った。流れ続ける汗と、泣き続ける蝉が印象的だった。宿に戻り、食事と風呂を済ませた後も私達は互いに互いを求めあった。もうここから帰りたくなかった。いっそ帰らず、美代子と共にここで暮らそうとまで考えた。
3日目、もう私にとってここに来た目的などどうでも良かった。もう私の目的は美代子だった。彼女と一緒にいる事こそが私がここに来た理由だった。この日も私達は離れる事無く一緒に町中を見て回った、何件か昨日と同じ場所も巡ったが美代子には言わないでおいた。楽しそうに私に説明をしてくれる美代子の姿が愛おしかったのでその邪魔をしたくはなかった。昨日訪れた神社にまで行くと美代子は少し恥ずかしそうに顔をそらした。その反応が非常に愛らしく、思わず私は彼女を抱きしめた。彼女は私の腕に抱かれ、小動物のようにじっとしていた。やがて私の腕の中のまま、彼女は私にこう告げた。「明日の晩ここでお祭りがあって、そこでは誓いの踊りを踊るんです。…私と踊ってくれませんか?」。勿論私は承諾した。言うまでもなく彼女は愛の誓いを求めていた。何より私が彼女の頼みを断る筈がない。もはや彼女は、美代子は私の全てなのだから。
翌日は朝から何かがおかしかった。空気が淀んでいる気がした。何かが昨日までの七宮町と違う気がした。朝は女将が料理を運んでくれた、しかし妙な事に女将は顔を俯けており、私からは彼女の顔を見る事ができなかった。何か容体が悪いのだろうと思い、私は深くは追及しなかった。出された朝食を食べ終えると美代子はどこかと女将に訪ねた。女将は晩まではいない、と答え足早に出て行った。晩まで、という言い方に違和感を覚えながらも彼女にも準備があるのだろうと思い、深くは追及しないでおいた。
晩になるまで暇になってしまったので、図書館にでも行って暇をつぶす事にした私は宿を出た。すると違和感を感じた。人がいるのだ。何を言っているのだと思うかもしれないが、この七宮町は非常に人が少ないのだ。道の往来で人とすれ違う事など殆どなく、一時間に一人とすれ違うことすら珍しい。それが、宿から出た途端2~3人の女学生が私の左側から歩いてきていた。学校がこの町にあるのは知っていたが実際に会うのは初めてだった。私はなぜかこの事に言いようも知れない不安を覚えてしまっていた。考えすぎだと自分に言い聞かせながら図書館に向かった。
図書館にもやはり人が多かった。一昨日訪れた時は私の他にはいるのは図書館の職員であろう老人が一人と、眼鏡の中年男が一人いるだけだったが、今日は十数人の人間が訪れていた。年齢も若年の青年から老人までがいる。この町にこんな若い青年が残っているものかと訝しんでいると更に奇妙な事に気付いた。全員顔が見えない。全員本で自らの顔を隠しているせいで、私からは彼らの顔が一切確認できないのだ。私の中の不安がどんどん強くなっていくのを感じた。ただの偶然だ、無理矢理その不安を思考の外へ追いやり、私は本棚に向き合い、適当な本を一冊抜き取った。
本を抜き取った本棚の隙間から目がこちらを覗いていた。人間の目だ。その目が私の事をじっと見つめていた。まるで私の心の奥底までをも見透かしているかのような、深い輝きと混沌を湛えた目で私の事を見つめていた。私はその目から目をそらせなかった。その片目は不気味で、だがそれと同時に私の心を決して掴んで離さない何かを持っていた。その瞳とどれくらい見つめ合っていたのだろうか、私は時が止まってしまっているのではないかと思ってしまう程に体を硬直させていた。いや、させられてしまっていた。やがてその目がゆっくりと瞼を閉じると同時に私もその硬直から解放された。私は解放されるや否や急いでその本を本棚に戻し、一度も振り返らず図書館から走り去った。図書館から逃げていく中、私はあの目が何故私の心を掴んで離さなかったのかを理解した。
あれは、美代子の目であった。
結局、私は宿の自分の部屋に戻り、布団を被って晩が来るのを待った。目を開けるとあの目がまたこちらを見ている気がしてきてずっと目を閉じたまま冬眠中の動物のように息を潜めた。もう何も見たくはない、早く美代子に会いたかった。彼女の美しい顔、美しい姿を見ればきっとこの不安は消えるはずだ。彼女が私を救ってくれる、そう信じて私は晩まで待ち続けた。
晩になり、美代子との約束の時間が近づいてきたので私は身支度をして、あの神社へと向かった。神社へと向かう中で、私はこの土地がかの這い寄る混沌の潜む土地ではないかという事を思い出していた。馬鹿な、たかが図書館で変な物を見ただけで。考えすぎだ。そう理性が言い聞かせても本能は全く納得してくれなかった。今朝、起きた時の淀んだ空気。鼻から感じる匂い。肌に当たる空気の質感。その全てがここが昨日までと何か違うと訴えている気がした。こうして神社に向かう道のりを歩いていても何かがおかしい。人が多い、多すぎる。神社までの道はたくさんの人でごった返しており、人ごみが出来上がっていた。こんなにたくさんの人間がこの田舎町のどこにいたのだ?もう私は限界だった。早く美代子に会わなければ。人ごみをかき分け、時には人を突き飛ばしながら私は美代子を探した。
美代子は私と彼女が初めて唇を合わせた場所にいた。彼女は私の姿を認めると、あの可愛らしい、しかしそれでいてどこか妖艶な笑みを浮かべた。私は彼女の胸の中に飛びついた。彼女の体は温かかった。彼女は突如飛びついた私を邪険にする事なく優しく抱きしめ、私の頭を優しくなでてくれた。私が落ち着くまで、彼女は優しく優しく私をあやし続けた。
やがて私が落ち着くと、彼女は私に仮面を渡してきた。この祭りでは踊りの時に仮面を被るという。仮面を被り、誓いの踊りを踊り切る事で誓いが成立するという事らしい。踊り切るまでは決して仮面を外してはならない、と彼女はまるで母親が赤ん坊に注意するような優しい言い方で私に言ってきた。
そして祭りが始まり、私と美代子は仮面を被りながら踊り始めた。踊りは手を繋いで行う盆踊り、という感じで、踊りがわからず慌てる私を彼女は優しくリードしてくれた。私達以外にも十数程のペアがこの誓いの踊りを踊っていた。もはや、先程まで私の頭に渦巻いていた不安は跡形もなく消え去っていた。美代子と触れているこの時間が何よりも愛おしい。彼女は私の不安を取り去り、私に心の安寧を与えてくれる。私は彼女と一分一秒と一緒にいる間により深く深く彼女に溺れていくのだ。
やがて祭囃子が終わり、誓いの踊りも終わりになった。彼女と踊っている時間が終わってしまったのは悲しいが、これで私と美代子の愛の誓いは結ばれた。私と美代子は永遠に結ばれる。美代子が甘い声で仮面を取ってくれと言ってくる。私はそれに応えて仮面を外し、そして
眼があった。そこにあるはずの美代子の美しい顔はなく、代わりに巨大な一つの目があった。あの図書館で見た目と同じ。深い輝きと混沌を湛えた目。私を支配する目が、一つ。
いや、一つではなかった。周りの人間全ての顔に目がある。踊りの参加者が外した仮面の下に顔はなくただ目があった。一つの目、美代子の目。祭囃子の奏者の顔にも目。見物客にも目。いや、人間だけではなかった。彼らの連れている犬にも目が。目。目。目。その全てが私を捉えていた。優しい、慈愛に満ちた、聖母のような目で。世界の全てが、私を見ていた。
美代子が、美代子だったものが私に近づいてきた。さっきと同じように、優しい抱擁をしようと近づいてきた。私は
私は
私は、「それ」を突き飛ばして逃げた。祭りの会場から全速力でかけだした。神社の階段を下りている最中に月が見えた。月にも目があった。
どこへ行っても目が私を見ていた。草木にも目。建造物にも目。道路にも目。目。目。目。
目がどこに行っても私を捉えてくる。さっきまで無かった所にも目が出てくる。目が這い寄って来る。深い輝きと混沌を湛えた目が、這い寄って、来る。
私は逃げる。逃げる。逃げる。それは這い寄る。這い寄って来る。
逃れられない、ああ。ようやく私は気付いた。這い寄る混沌の正体に。
這い寄る混沌、それはこの町。この七宮町。この町の生物が、この町の建造物が、この町の地面、この町の空気、この町に上る太陽、この町に上る月。この町を構成するすべてが、「這い寄る混沌」なのだ。私はこの混沌の手のひらの中で、踊り続けていたのだ。そう、私が愛し、私が溺れたあの女。あの美代子、あれも這い寄る混沌だった。私は混沌と交わってしまった。
理性が、常識が、概念が、信念が、崩壊する。私を構成してきた全てが混沌に飲み込まれる。
ああ、私は何故この町に来てしまったのだ?何故這い寄る混沌と邂逅しようだなどと考えてしまったのだ?
あるいはもうその時点ですでにこの混沌に、這い寄られてしまっていたのか。
私はあの後、線路内を虚ろな目で彷徨う所を保護された。私を保護した者の話によると私はうわごとのように二つの名前を唱え続けていたらしい。一つは「這い寄る混沌」。もう一つは「美代子」。
そう美代子、愛の誓いを交わした私の愛しい女。彼女は這い寄る混沌だった。いや、這い寄る混沌の一部か?それとも這い寄る混沌の意思?あるいは…いや、そんな事はどうだっていいことだ。私達人間が偉大なる神性の真意を理解できる筈もない。それに私にとっては彼女が這い寄る混沌である事などどうだっていいのだ。彼女は私の全てだ。彼女は私の物で、私は彼女の物。私は彼女の元に戻らなくては。私達は愛し合っているのだから。ああ、美代子。愛おしい。その名前が、その顔が、その髪が、君の存在すべてが愛おしい。待っていてくれ美代子、必ず会いに行く。その優しい声で、慈母のような慈しみで、その輝きと混沌を湛えた目で、私の側にいておくれ…
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