ノー・タイトル

うぐいす

ノー・タイトル


コンコン。


扉をステッキで叩く音が、部屋中に響いた。

微かにこだまを伴い、長椅子に座っていた若き姫の耳に届く。

どうぞ、と扉の向こうにいる誰かを招き入れるものの、その声は掠れ、その誰かには届かないようだ。

ノックの後は静寂のまま。

姫は咳払いをして喉を整え、どうぞ、と声を張り上げた。

下品に聞こえない程度に。


すると、扉は仰々しい音を立てて開いた。

その音に似つかわしい、仰々しい態度の従者が現れる。

わざとらしい白いかつらを被った、老いた従者だ。

彼は誇り高く踵を鳴らし、大げさなほど恭しく辞儀をした。


「失礼いたします。お目通りを願いたい者が1人、参っております」

「お通しなさい」


姫はそう答え、座り直す。

背もたれから僅かに背を離し、腹に力を込めた。

さっとスカートの裾を直し、来客に備える。

従者は再び深く頭を下げ、ひょいと消えた。


最初に、足音が聞こえた。

あれはブーツの音。

従者が履く物とは違う、踵の低い革製のものだ。

コツコツと微かに聞こえる。

隙のない、軽やかな音。


その後に、金属の音を聞いた。

シャリッ、チャリッと聞こえる。

甲冑ではない。

帷子の音だ。

身体を守る細く連なった鎖の音が、聞こえる。


2つの音が混ざり、だんだん大きくなり、ついに止む。

音が止んだ時、1人の騎士が姫の前に姿を現していた。


息を呑む。

気取られないよう、抑えて。


騎士は思った通り、革製のブーツを履いていた。

元は漆黒だったのだろうが、今は褪せて泥にまみれている。

ブーツにはブレーが、これでもかというほど押し込まれていた。

無紋章の鼠色のチュニックが腿の辺りまで覆い、その色と同化するように胸元からちらりと帷子が顔を出している。


そして何より目を引く、真っ赤なマント。

りんごより深く、血よりも濃い色のマント。

なのに裏地は真っ黒だ。

どんな闇より深い漆黒。


肩から掛かっているそれは、何よりも主張する。

わたしを見よ、と。

それは、高貴な身分をも圧倒する存在感だ。


しかし、姫が驚いたのは目にも鮮やかな2色のマントのせいではなかった。

騎士が、あまりにも美しすぎるせいだった。


「姫さま」


そう彼女を呼ぶ声さえも、美しい。

凛と澄んだ、芯のある声音だ。

騎士はその場で片膝をつき、項垂れた。


「不躾に申し上げますこと、どうかお許しください。わたしは名を持ちません。故郷も家族も持たぬ身です。今日こちらへ参ったのは、ひとえにあなたにお会いしたかったからです。会って、お願い申し上げたかった」


顔が上がる。

姫は長椅子で、石のように座っていた。

腿の上に手を揃え、両膝を合わせて足を少し横に流している。

その目は騎士ではなく、騎士の少し前にある床を見つめていた。

そこには何の跡か、茶色のシミがあった。

磨き込まれた床に残されたシミ。


何も声が掛からないことに焦れたのか、騎士は立ち上がる。

立ち上がり、そろりそろりと姫に近付いた。

その度にブーツは鳴り、帷子がざわつく。


「近付くことは許しません」


鋭い拒絶。

姫は騎士から顔を逸らし、俯いている。

拒まれた騎士は、それならばとその場で再び跪いた。


「どうかお願いいたします。わたしをあなたの騎士にしてください」


姫は思わず、顔を騎士に戻した。

何を言っているのか、と瞬きを繰り返す。


「一目見たその時から、わたしの忠誠はあなたのもの。どうか、誓いを受け入れてください」

「…誤解では?わたしはあなたに会ったことはありません」

「ええ、そうでしょう」


騎士はそう言って、語り始めた。



あれはひと月も前のこと。

あなたは城の庭で、蝶と戯れていた。

青々とした芝生に直に座り、お召し物が土に汚れるのも構わず、指先に止まった蝶をじっと眺めておられた。

そこにやってきた猟犬。

猛々しく吠えながらやってきた犬が、その蝶を食おうとした。

なのに蝶は逃げず、その指から離れなかった。

あなたはその姿勢のまま、猟犬を制した。

凄まじい勢いでこちらに向かってくる犬にただ一言、「去れ」と。

犬はぴたりと足を止めた。

吠えるのをやめ、代わりにか細く鳴きながら尻尾を垂らした。

犬はそのままくるりと向きを変え、元来た道を辿っていった。

それからあなたは、何事もなかったかのように蝶との対話に戻った。

わたしはなぜ蝶は飛んでいかないのかと、不思議に思った。

しばらくその様子を眺めていると、気付いた。

蝶の羽が片方ないことに。


「それを見て、心は決まりました。わたしはあなたのものだと」


姫は頰を染めた。

騎士が語ったことに、心当たりはある。

あるが、だからといって忠誠の理由にはならないような気がした。


姫が困惑し、黙ったままでいると、騎士は顔を上げた。

その表情は歪んでいる。

なのに、面差しは端正なままだ。


「ご心配されているのですか」


騎士はぎりりと歯ぎしりをする。


「わたしが女だから。女は騎士になどなれぬ、あなたの身を守れぬとご懸念されているのですか」


騎士はそう言って、また立ち上がった。

今度はずかずかと、遠慮なくこちらに近付いてくる。

騎士が身につけているすべてのものが、騒がしく響いた。


姫はいやだと思った。

近付かないでほしいと願った。

しかし、騎士は容赦がない。

姫の側までやってくると、足元で膝をついた。

しかし、今度は顔を上げたまま。


「わたしは数多の男を倒してきました。女のくせにと嘲る男も、犯そうとする男も、正々堂々向かってくる男も、全員を倒してきました。だからわたしはここにいるのです」


微かに眉を寄せた、熱っぽい瞳。

間近で見るその顔は、遠目で見るよりもさらに麗しかった。


瞳の色は、はしばみ色。

まつ毛は細いが長く、瞬きをする度目元に影が落ちる。

鼻は高く、先はつんと上向き。

唇はアプリコットの色で、ふっくらと上下に均等に付いている。

顎は小さく尖り、そのすっきりとした線が耳朶まで続く。

束ねられた髪は濃いブルネットで、軽い巻き毛が背で揺れる。


美しすぎると姫は思った。

目を伏せ、その顔を見ないように努める。


「ずっと、仕える方を探していたのです。そして見つけた。姫さま、どうかわたしをお側に」


姫は頑なに目を逸らしていたが、我慢できず、ついに首を振った。


「いけません」

「なぜです」

「あなたはわたしに似つかわしくありません」


騎士の顔が、苦渋に歪められた。

柔らかそうな唇が、もう一度「なぜ」と動く。


「わたしの腕は確かです。あなたをお守りしたいのです」

「いいえ」


そうではありません。

姫はか細く呟いた。

それからつい、と立ち上がり、窓辺へ向かう。

騎士から離れられるなら、どこでもよかったのだが。


姫は出窓の側で立ちすくんだ。

ぼんやりと外の景色に目をやるが、瞳には何も映らない。

こんなことは言いたくないと胸を塞ぐ。


「あなたの言うことを疑うのではありません。わたしがあなたに値しないと思うのです」

「何をおっしゃるのです」


シャリン、と一際高く鎖の音が鳴った。

騎士が背後で素早く立ち上がったのだろう。


「わたしは醜い」


姫は思い切ってそう言った。

あまりに早口で言ったものだから、吐き捨てたような口調に聞こえていないといいが。


「あなたは美しく、強い。その美徳に、わたしは気後れいたします」


そう言って、振り返った。

精一杯強がって、笑みを作りながら。


姫は確かに醜かった。


額は出っ張り、突き出たおでことは対照的に潰れた鼻。

鼻腔は広く、その下の唇は薄すぎる。

そのバランスの悪さが、顔の造作を傾かせていた。

目はギョロリと大きすぎ、眉はないかと思うほどに薄い。

頰の色は青く、不健康そうに見えてしまう。

唯一の救いは、瞳の色。

光の加減によって様々に色を変える、虹彩だ。

しかし、それ以外は決して誰も褒めてはくれぬ容姿だった。


「わたしに美しいものは似合いません」


姫はスカートの裾を指でつまみ、少し上げてすぐに手を離した。

黒に近い藍色をしたそれ。

地味で古めかしく、老婆が着るような。


姫はちらりと部屋中に目をやった。

全体的に暗い色合いの部屋だ。

茶色、灰色、えんじ色。

先程まで姫が座っていた長椅子は、スカートと同じ藍色だ。

桃色や黄色や水色、橙に薄緑なんて明るい色彩は、ここにはない。

唯一輝くものは、高い天井からぶら下がる大きなシャンデリアと、顔が映るほどに磨かれた床のみだった。


「誰に言われたのです」


強い口調。

騎士は澄んだ声音を微かに荒げる。


「誰にそんなことを吹き込まれたのですか」

「誰って…」


みんなよ。


その言葉は飲み込んだ。

両親や従者や貴族や女中や庭師や聖職者や、あまつさえ馬や犬や猫や鼠にもそう言われている。

おまえに麗しいものは似合わぬ、と。


直にはっきりと伝えてくる者も、隠れてこそこそと陰口を叩く者も、言外に匂わせる者もいた。

けれど、中身はすべて同じ。


姫は再び長椅子に戻った。

立っているだけで、ひどい疲労を感じたのだ。

腰かけ、肘掛にもたれる。

すると、肩に重みを感じた。

自分のものではない感覚にぎょっとして、思わず身をよじってそれを振り払う。

何かと思えば、騎士の手だった。

騎士が、そのすらりとした手を姫の肩に置いたのだった。

振り払われた手は、それでも怯むことはない。


「あなたは好きなように生きるべきです。好きなものを身に付け、好きなものを周りに置けばいいのです。わたしがあなたを守りましょう」


言葉の砲弾から。

視線の刃から、嘲笑の殴打から。


騎士の言葉は力強く、甘く、耳に滑り込む。


「外面など、器でしかありません。あなたの優しさと威厳を以ってすれば、皆が褒めるこの身の美しさなど」

「それでも羨ましく思います」


誰もが振り返るほどの美貌。

清廉にも妖艶にも見える、その立ち居振る舞い。

羨ましいと思う。

外から見えるものだけがすべてではないと知ってはいるが、そんなものは関係ないと言えるほど世間知らずではなかった。


この騎士であれば、姫と呼ばれるに相応しいだろうに。


ふと、そんなことを思う。

この騎士なら、豪奢なドレスも、派手な色合いも、輝く宝石もすべて意のままに操ってしまうだろう。

両親は姫を隠そうとせず、金と権力だけを得ようとする男を跳ね除けることができるだろう。

虫や植物だけでなく、共に話して笑い合える友ができるだろう。


嫉妬はない。

ただ、羨ましいとだけ思う。


「姫さま」


再び、騎士は彼女の足元に跪いた。

真紅のマントが、姫のスカートの上に重なる。

藍と赤。

対の2色は、歪ながらもぴたりと合わさる。

それは裏地の黒のせいか。


「わたしはあなたのもの。この身はすべてあなたのもの。この美貌もあなたのものなのです」


騎士は囁く。

囁きは音楽のように心地よく、身を乗り出してしまう。


「だから、どうです。わたしをあなたのお側に置いてみませんか」


いまや姫は、その顔と真正面から向き合っていた。


これは何かの罠だろうか?

わたしを駒にして、何かをしようとしているのかしら?


しかし姫は、それでもいいと思い始めていた。

騎士が自分の何を見込んだのか、正直分からない。

分からないけれど、そのままの自分でいいと言われることの、なんと嬉しいことか。

心がほだされ、体まで弛緩していく。

こんな安楽を、他に誰が教えてくれただろう。


「名を持たぬ騎士よ」


姫は再三、立ち上がった。

厳かに見えるよう、ゆっくりと。


「そうまで言ってもらえるとは、わたしは果報者です。あなたのその言葉を信じましょう」


騎士は恭しく項垂れた。

艶やかな髪の毛の隙間から、なめらかなうなじが垣間見える。


「わたしを守ってくださる?」


問う。

騎士はもちろん、と間髪入れず答えた。

それを聞き、微笑む姫。

そして、少女のようにぴょんとしゃがみ込んだ。

二人の他に誰もいないというのに、姫は口に手を当てて内緒話をする。


「実はわたし、真っ赤なドレスを着てみたいと思っていたの」


【終】

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ノー・タイトル うぐいす @usignolo_oriole

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