忍者警官は怪盗少女を捕まえたい

イプシロン

第一稿

 三万本の高層ビルと、果てしなく広大な地下迷宮を内包する人類史上最大の混沌巨大都市、スーパー新都しんと

 ありとあらゆるものが集まるこの都市には、数え切れないほどの騒乱の種が眠っている。


●――――●


 スーパー新都独自歴二一七年十月十日の午前零時、摩天楼ひしめく中心部にて、ビルからビルへ屋上を飛び移る一人の少女の姿があった。

 少女は背中に大きな風呂敷を抱えている。中に入っているのは、一枚あたり10億円は下らないという希代の名画が数点。

 つい先ほど彼女は、それをとある大会社のオフィスから盗み出してきたところだったのだ。


 彼女は前もって予告状を出して警戒を煽った上で、指定の期日通りに盗みを決行。

 スーパー新都都市警察、通称SPDによる総勢百人弱の包囲網を容易にくぐり抜け、数多のセキュリティシステムすらも突破し、こうして絵画を手に入れ敷地からの脱出に成功した。

 これで総勢24回123点、総額にして5432億円の財宝を奪ってきたこととなる。

 彼女は自ら『怪盗ブロッサム』と名乗り、予告状にもその名前を残しているが……一般からは別の名前で呼ばれていた。

 さて、逃げ出すところまでは上手くいった彼女だったが、完全に振り切ることはできなかった。


「貴様、止まれ! 今回こそは絶対に逃がさんぞ!」

「うげえっ! まだ追いかけてきてる! しつこいからいい加減どこかに行ってよ!」

「行くわけないだろ! 俺はお前を捕まえにここまで来てるんだぞ!」


 ただ一人彼女を追跡し続けるのは、SPDに所属する警官の一人、緑川颯だ。

 忍者の家系に生まれ、SPDの中でも最も優秀とされるチーム『第一委員会』の一員に二十三歳の若さで抜擢。

 それ以来数々の犯罪者を忍者としての隠密力・捜査力・戦闘力によって探索、追跡、逮捕し、数々の迷宮入り寸前の事件を解決してきた凄腕のホープである。

 高層ビルから高層ビルへと一足飛びに飛び移って逃げていく怪盗ブロッサムを追い続けるのは、並の人間には難しい。

 ただ一人緑川だけが、忍者としてのたぐいまれな機動力を用いて怪盗ブロッサムに近づきつつあった。


「もういい加減に諦めてよ! これで一体何回目になるっけ? 結局一回も私を捕まえれてないじゃんか!」


 ちなみに緑川と怪盗ブロッサムはこれまで何度かやり合っているが、逮捕することを緑川の勝利条件とするならば、戦績は緑川の連戦連敗。

 怪盗ブロッサムは未だ一度として、官憲に屈したことがなかった。

 ただし盗みに成功することをブロッサム側の勝利条件とするならば、戦績は六勝六敗で互角の勝負。

 ブロッサムとしても、緑川は自分の盗みをいいところで邪魔してくる目の上のたんこぶ的存在だった。


「お前がさっさと捕まればこんな面倒なことにはなってないんだよ、この『ねずみ女』!」


 緑川が『ねずみ女』と呼ぶと、途端に怪盗ブロッサムは足を止める。

 そして憤慨したように、両手の拳を高く空に振り上げた。


「な、な――――っ! その呼び名はやめろって前に言わなかったっけ!? 言ったよね!? 私のことは華麗にして優雅な花の怪盗、『怪盗ブロッサム』と呼びなさいと!」

「はあ――――!? お前が? 怪盗? ブロッサムぅ――――!? 花ァ? 冗談もいい加減にしろよこのダサダサ娘!」

「ダサっ……ダサダサ娘ぇ!?」


 抗議の声に耳など貸さずに、緑川は重ねて煽り続ける。

 煽ることでブロッサムをその場に留めておこうとする作戦だろうか? いや、違う。単に頭に血が上っているだけだ。

 その証拠に、緑川自身の足もその場で止まっていた。


「ブロッサムだの気取った名前を名乗るなら、もうちょっとしゃれた格好の一つもして、花柄の衣装でも着てくればいいだろうが! なんだその唐草模様の風呂敷は! なんだそのほっかむりは! なんだそのひょっとこのお面は!」


 そう。『怪盗ブロッサム』を名乗る彼女だったが、その出で立ちは緑の唐草模様のマント|(風呂敷として使ったりもする)に同柄のほっかむり。マントの下は英字プリントTシャツにスキニーパンツ、真っ白な手袋、顔はひょっとこのお面と……そのセンスの是非はともかくとして、まず間違いなく『怪盗ブロッサム』ではない。


「何か文句でもあるの!? どんな格好で活動しようが私の勝手でしょ!?」

「それを格好いいとか言うのは大分感性がずれてるんだよ! だからダサダサ娘の鼠小僧二号、ネズミ女だって言ってるんだ!」

「はー!? これはダサいって言いませんけどー!? 和風コーデが嫌いなだけなんじゃないんですかぁ―――!?」

「それなら怪盗ブロッサムなんていかにも洋物の名前名乗るなや!」


 昂ぶった感情のまま、緑川は懐から取り出した十字の手裏剣を投げる。

 一般的な警察と同じくSPDにも拳銃が支給されているが、緑川は拳銃を使わず代わりに手裏剣を携帯しているのだ。

 高速でブロッサムの腹部あたりへ目がけて飛んでいった手裏剣は、ブロッサムがどこからともなく取り出したステッキにはたき落とされた。


「あっぶなー……手裏剣投げるとか信じられない。分かってる? それ人殺せるんだよ?」

「うるせえネズミ女。怪盗に人権があると思うなよ」

「あー! それちょっと、公人として問題発言じゃない!? 犯罪者にも人権は保障されるんだよ、知らないの? ネットに流してやろー。『絵画盗んだ帰りに警察に手裏剣投げられた。マジあり得ない』……っと」

「無駄なことでネット駆使ししてんじゃねえよ、このこそ泥女!」


 また手裏剣を投げる緑川。

 油断していた怪盗ブロッサムは防ぎきれずに、スマホを串刺しにされてしまう。


「ああっっ!? 私のスマホが! しんっじられない、これめっちゃ高かったんですけど!?」

「うるせえ! その安物スマホよりよっぽど高い美術品を盗んでおきながら偉そうに言うな!」

「美術品は別に誰が持ってても内容変わったりしないでしょ! でもスマホはプライスレスな個人情報とか入ってて、お金

「知らねえよ! 高かったがどうのって騒いだのはお前だろ! 具体的に壊されて困る個人情報って何のことだよ!」

「次のターゲットに関する調査情報とか……」

「ああそうかい! だったら壊して良かったよ!」


 緑川は手裏剣を両手に構えながら、再び前へと動き出す。

 怪盗ブロッサムもそれを受けて、再び逃げるために走り出した。


「お前みたいな美術センスナシナシマシマシ女にはその美術品は勿体ない! もっと美的感覚がまともな人間が持つべきものだ! ……いや、というかそういうの関係なく返せよ! 社長さんめっちゃショック受けてたぞ!?」

「いいじゃん別に! この都市まちであれだけでかい会社を持ってるってことは、どうせ何かしら悪いことして稼いだお金で買ったものでしょ! 悪銭身につかずだよ!」

「訳分からない決めつけをするなよ! いるかもしれないだろ、綺麗なお金で美術品買った人も!」


 ちなみに怪盗ブロッサムのこの主張は必ずしも間違ってはいない。

 民間組織が独自に調査した情報によると、スーパー・新都に本拠を置く企業のうち、資本が大きいもの上位1000社のうち、95%が何らかの不正を行っていると言われている。

 混沌が支配するこのスーパー・新都においては、悪事を働かずに成り上がるのは至難の業なのだ。

 もっとも今回犠牲になった会社の上層部が同じように悪事に手を染めているかどうかは定かではない。


「ともかく、社長が悪いことしてるかどうかとお前が美術品盗んでいいかどうかは全然関係ない話だ! これまで十二回、お前にまんまと逃げられてきたが……今回はそうはいかない! 第一委員会のエースであるこの俺が、お前を必ず逮捕してみせる!」

「第一委員会? 君って第一委員会だったの?」


 緑川の言葉を受けて、怪盗ブロッサムは首をかしげた。

 それを警戒と恐怖のニュアンスだと思った緑川は、得意げに笑みを浮かべる。


「そうだ! 俺はあのエリート組織、第一委員会のエース刑事! 今までは少々不覚を取ったが、本来お前程度に負ける器じゃねえんだ! そろそろ観念して神妙に……」

「……なんで第一委員会のエリート様が、私なんかを追いかけてきてるの?」

「!!」


 だが、怪盗ブロッサムの表情の意味は、緑川が期待していたものとは違ったようだ。


「だって第一委員会って、殺人事件とか組織犯罪とか、もっとこう治安に関わるようなところを担当する部署でしょ? ただ泥棒してるだけの私を延々追い回すのって、なんかおかしくない?」

「……」


 緑川は痛い腹を探られて顔をゆがめる。

 そう。本来第一委員会は殺人事件の捜査やテロ組織の制圧などを主な仕事にしている部署であり、怪盗ブロッサムのような窃盗犯は第三委員会の管轄なのである。

 にも関わらず緑川が怪盗ブロッサムの件に関わっているのには、理由がある。

 だがそれを正直に言う気にはなれなかった。

 少なくとも目の前の怪盗ブロッサムに対してだけは。

 緑川がしばらく黙っていると、怪盗ブロッサムは何かを分かったように手を打った。


「……ひょっとして私のことが好き、とか?」

「は?」


 心底嫌そうな顔を浮かべる緑川だったが、そのどうしようもないほどねじくれた表情は怪盗ブロッサムには伝わっていないようだった。


「はっは~ん、そういうことね、なるほどね~! なーんで私のことこんなにつけ回すのかと思っていたと思っていたら、私のファンだったのかぁ~!」


 怪盗ブロッサムは一人で勝手に納得して、どんどん話を前に進めていく。


「ふふふ、なるほどなるほど……私もとうとう追っかけのファンが現れるくらい人気者になっちゃったかぁ~! ふーん、へーえ~?」


 怪盗ブロッサムが人気者なのは事実である。

 金持ち、エリート、上流階級を主にターゲットにして大立ち回りを繰り広げる彼女のことを、まるで義賊かヒーローのように慕う下層市民は多い。

 緑川もそのことを知っていた。追っかけというなら、今に始まったことではないだろう。

 だが彼は、真実をブロッサムに伝えてあげるつもりはなかった。


 何故なら緑川は、怪盗ブロッサムのことが心底嫌いだったからである。


 さて、どうしたものか。

 真相を伝えるのは癪だが、このまま自分が怪盗ブロッサムのファンだと思われ続けるのはもっと癪だ。

 どうせ癪なら、本当のことを伝えた方がいい。そう思って緑川は前を向いた。


「……巻物スクロールだ……」

「え?」

「今までお前が盗んできた123点の財宝の中に、スーパー・新都の機密情報について暗号で書かれた秘密の巻物があったはずだ」

「ん? そんなのあったかな……?」


 ひょっとこ面を直しながら首をひねる怪盗ブロッサム。

 本当に忘れているように見えたので、緑川の怒りがさらに高まった。


「忘れてんじゃねえよ! 新都三大暴力団の一角、『新都爆砕組』の本部から奪っていった金細工入りの電子巻物デジタルスクロールだ! 俺がお前に回る直前の事件でお前が持っていった巻物だよ!」

「ああ! 思い出した思い出した! 昔テレビで見たとき表面の装飾が綺麗だったし、しかも結構値段がつくから上等な美術品だと思って盗んだ奴! 読めなかったから中身は気にしてなかったけど、中身も貴重なものだったの?」

「むしろ中身にしか価値がねえんだよ! ガワは安物の工業生産品レディメイドだバ―――――――カ!!!」


 いつの間にかまた、二人の足は止まっていた。


「だ、誰が馬鹿だ! 失礼な!」

「馬鹿ってのは不適切だったな! 壊滅センスのネズミ女! 大量生産品と上等な美術品の区別もない節穴審美眼!」

「よくもそこまで次から次へと罵倒が思い浮かぶね! 流石にちょっと泣きたくなってきたよ!」


 泣きたいのはこっちの方だと緑川は思った。

 ここまで芸術に対して理解がない奴が今まで数々の美術品を好き放題に盗んできたなんて、こんなに恥ずかしいことはない。

 もっとも、ここまで真贋を見分ける目がないのなら、これからは前もって本物と偽物をすり替えておくのが有効になりそうだなと思った。


「……で、その巻物がなんだっていうの? 別に私、それを悪用とかしてないよ? 使い道とか知らないし……なんなら今度何か盗むときにそれ返そうか?」

「別にわざわざヤクザの手元に戻す必要はねえし……悪用だのなんだの、そんなことは俺にはどうでもいい」

「ええ? じゃあ何に怒ってるの? 巻物と一緒に本も数冊盗んだけど、それが貴重なものだったとか……

「違う! その巻物スクロールは、元々俺の親父が奪おうとしていたものだったんだ!」

「……は?」


 思わずフリーズする怪盗ブロッサム。いきなり何を言い出したのかと、緑川の真意が分からなくなったのだ。


「俺は忍者の家系だ。親父も忍者として長年活動し、一時は『当代最強の忍者』とすらうたわれたほどの実力者だった」

「当代最強もなにも忍者ってそんなに沢山いるの?」

「ある日親父は、敵対組織から機密情報を奪い取るミッションを与えられる。その機密情報こそが、お前がこの間盗み出した巻物に詰まっていた!」

「そ、それで……?」

「だが親父は失敗した。暴力団の連中に捕まって、見るも無惨に殺された」

「……そ、それはなんというかお悔やみ申し上げます……。いくら泥棒でも、殺されるのは酷いよね……っていうかごめんね? 辛い話をさせたみたいで」

「もう十年以上昔のことだ。別に今更その話をしても何とも思わないし、俺が自分からした話だ。その点については何も言わねえよ」

「そ、そう……」


 しばしの沈黙。


「……ん!? それで結局お父さんのことと私に何の関係が!?」


 置いてけぼりになる怪盗ブロッサムの前で、目をつぶったまま拳を握りしめる緑川。


「俺は親父を尊敬していた。その親父が失敗するほどの任務だ。きっと果てしなく高難易度に違いないと思ったもんだ。そして俺は、その後なんやかんやあって警察に就職し第一線で活躍していたが……そのときお前のニュースを聞いた。怪盗ブロッサムが爆砕組の本部から巻物スクロールを盗み出したと」

「……それで?」


 緑川は目を見開き、ブロッサムへ向けて大きく前進した。


「お前みたいなどこの馬の骨かも分からないような盗賊より劣るなどということが、俺には認められなかった!」

「は!?」

「だから俺はお前を捕らえる! 『忍者』の力でお前を捕らえて、代々受け継いできた忍者の心技体が『盗賊』なんかに負けていないことを証明するんだ!」

「想像の百倍知ったこっちゃない逆恨みだ! 私が全く微塵もあずかり知らぬことだよそれは! そんなことで捕まえられたらたまったものじゃない!」


 思った以上に自分と関係のない理由だったので、ブロッサムは大きくたじろいだ。


「つまんない八つ当たりは捨てて、大人になろ? 前を向いて生きよ? ね?」

「俺がたとえ怨恨を捨てたとしても、どのみちお前が犯罪者であることに変わりはないだろ? だったら、お前を捕まえたら一石二鳥だ!」


 緑川の懐から、また二枚の手裏剣が現れ出る。今度は先ほどまでの十字手裏剣ではなく、六枚刃の六方手裏剣で……刃先からはぼたぼたと妖しい汁がしたたり落ちていた。

 怪盗ブロッサムは妖しく輝く手裏剣を見ながら、右手のステッキを軽く振る。


「……それ、明らかに毒付き手裏剣だよね? 今使う? もっといい使い方あると思うよ?」

「続きの話は留置所でしてやるよ」


 緑川の両手から手裏剣が放たれる。ブロッサムはそれをステッキで弾いた。

 手裏剣の着弾と同時に飛び出していた緑川が、ブロッサムとの距離を一気に詰める。いつの間にかその両手には忍者刀が握られていた。

 緑川の動きの切れと、単純な身体能力がさっきまでより明らかに増している。


「……っ!」


 形勢の悪化を悟ったブロッサムは緑川に背を向け、ダッシュで距離を取ろうとする。

 隙だらけの背中に緑川が新しい手裏剣を投げると、それは風呂敷の横をかすめるように遮って……風呂敷に切り込みを入れた。

 すると風呂敷の中身がばらばらとこぼれ落ち、ビルの屋上に散らばってしまった。


「あ――――っっ!!」


 ブロッサムは慌てた。風呂敷が破れてしまうと、絵画を手軽に運べない。

 一刻も早く回収したいところだが、すぐ後ろから真っ黒な忍者が追いかけてきている。

 集めているうちに捕まってしまうかもしれない。

 一瞬の長考の末、ブロッサムは手遅れにならないうちに決断を下した。


「……今回は諦める! 六勝七敗だこのヤロー! 勝利の余韻を勝手にかみしめろー!」


 悩んだ末に彼女が出した結論は、財宝を諦めるという選択だった。

 緑川が介入するようになってから、彼女の盗みは定期的に失敗するようになった。

 慣れっこになってきたとはいえ、今でも頑張って準備して盗もうとした財宝を手に入れられないのは悔しい。

 だけど私は偉い子なので、ちゃんと途中で折り合いをつけられる。変に欲張らず、次を見据えて諦めることができるのだ――――と彼女は考えていた。

 ついでにいい加減あっちも疲れてきただろうし、手土産絵画をここに置いていけば満足して去ってくれるだろうとも考えていた。

 だが。


「何が勝利だ! お前を捕まえられない限り、俺が全敗のままなんだよ!」


 緑川はそう考えない。

 屋上に絵画を放置したまま、ブロッサム逃がすまじとさらに走る速度を上げる。


「ええええ――――っ!? しつこい、本当にしつこいって! いいじゃん今回は私が負けを認めたんだからさー! 絵画だって返したよ、もってけドロボー!」

「泥棒はお前だ馬鹿野郎! せめて盗んだもの全部返してから言ったらどうだ!」


 ビルからビルへ飛び移りながら、ブロッサムと緑川の追いかけっこは継続する。

 三万本の高層ビルを擁するスーパー・新都は、ビルの屋上だけでも軽い迷路である。

 だがそれを迷路として使える身体能力の持ち主は極めて少ない。

 『盗賊』怪盗ブロッサムと、『忍者』緑川颯は、その数少ないうちの一人だった。


「ええい、埒が明かない! もう、いい加減に諦めなって!」


 追いかけっこはその後五分ほど続き、距離はぐんぐんと縮まっていく。


「いいや諦めねえ! 俺は絶対ここでお前を倒し! 逮捕し! 忍者の強さを証明する!」


 二人の距離は、もうあと数歩で忍者刀が届きかねないほどまで近づいていた。


「死ねえええっっっ!!!」


 ブロッサムが着地したビルに、緑川も着地する。そのまま忍者刀の峰をブロッサムの首筋に叩きつけようとした緑川だったが……。


「……スイッチ、オン」


 ブロッサムが僅かに指を動かす。

 瞬間、緑川の足下から極大の火花が飛び散った。


「あばばばばばばばば!?!?!?」


 声にならない絶叫を上げながら、緑川はその場に倒れる。

 着ていたスーツはそこら中黒焦げになっていた。


「……いやあ、まさかここまで追跡されるとは思ってなかったよ。この仕掛けを使うことになるとはねぇ」


 ひらひらと手を動かすブロッサムの手には、小さなリモコン。

 朦朧とする意識の中緑川が足下に目を向けると、そこは剥き出しの配線まみれになっていた。

 どうやら前もってこの場所に罠を仕掛けてあったらしい。

 何故これだけ追いかけっこを続けないと辿り着けない場所に仕掛けてあったのか、緑川には理解できなかったが。


「力強く踏んだら電気ショックが発生する仕掛け。こんなところまで追いかけてくるのは君みたいな化け物身体能力の持ち主くらいだし、私より強くこの床を踏めるのも君みたいな化け物くらいだ。だから多少強めの電気を流しても、別に死んだりしないもんね?」


 そんなに身体能力変わらないだろうが。緑川はそう言おうとしたが、声にならなかった。


「そんなわけでこれでも私は、君のことを信用してる。さて、君のことを信用しているそんな私が、次に何をしようとしてるか分かるかな?」

「……! てめ……」


 答えるまもなく、ブロッサムの蹴りが緑川の脇腹に突き刺さり、そのまま緑川は屋上から空中へと飛ばされ――――


「うおおおおおおおおっっ!?!」

「じゃーねー、バイバーイ。君ほど強い人なら、多分ここから落としても死なないでしょ。このビル、二百三十五階立てだけどっ!」


 摩天楼からネオン輝く地上の雑踏へと、流星のように墜落していった。

 風切り音も聞こえなくなった頃に、安心しきったブロッサムは肩をすくめてから空を見上げる。


「今から絵を取りに行っても大丈夫かな? ……いや、流石にもう他の追っ手が近くまで来ててもおかしくないし、危険だよね」


 誰に言うでもなくそう呟くと、怪盗ブロッサムは唐草模様のマントをはためかせながら、夜の闇に消えていった。


●――――●


「うっ……ううっ……」


 墜落しながら電気ショックの衝撃から回復し、スーツに隠しておいたカプセルサイズ落下傘で落下速度を吸収、そして忍者刀をビルの壁に突き立ててこすりつけ速度をさらに軽減。

 そして最後は、繁華街の路地裏にふっくら山積みになったゴミ袋の山に墜落して、衝撃を完全に殺しきる。

 ありとあらゆる手を尽くしながら、緑川颯は無傷で地上に着陸した。


「……っ、あのネズミ女……!」


 ゴミ袋から飛び出たバナナを頭にのせたまま、緑川はむっすりと立ち上がる。

 怪盗ブロッサムのカウントでは七勝六敗で彼の勝ち越しだが、緑川のカウントでは十三戦全敗。

 何度追っても逃げおおせる怪盗ブロッサムを自分の手で逮捕し刑務所にぶち込まなければ、彼の溜飲は下がらない。


「くそっ、くそっ、くそっ……!」


 墜落した繁華街の壁にもたれながら、彼は苦汁を噛み締める。

 次こそは、次こそはと心にいくら念じたところで、今日という日に苦杯を喫したという事実に変わりはない。


「……切り替えろ。次だ。次」


 本来次の事件が起こることを望むべきではないのだが、緑川としては知ったことではなかった。

 とにかく怪盗ブロッサムを捕まえて、忍者の力がこそ泥に負けていないことを証明する。

 それが今の彼にとっては最優先事項だったからだ。

 頬を叩き、気持ちを切り替え、落ちた場所はどこだろうかと周囲を見渡す。

 落書きだらけの壁や風景、剥がれた舗装、ゴミ置き場のマーク、ネオンの色彩……緑川はそこが、地上で一番治安が悪い一帯であることを理解した。地下ならばもっと治安が悪いところは山ほどあるが。

 面倒なところに着地してしまったな。ため息をつきながら歩を進めると、嫌な予感は案の定的中した。


「例のブツは持ってきたか?」

「ええ、こちらに。ですがまず代金の方をお願いしますよ」

「分かっているさ。これでいいのだろ……む?」

「どうしましたか旦那……はっ!」

「……」


 薬物取引の現場に、偶然出くわしてしまったのだ。

 ただ墜落した路地裏から、人通りの多い大通りに出ようとしただけなのに。

 地上であっても治安が悪いところは本当に悪いものだなと、緑川は深々とため息をつく。

 二人がどうするか見守っていると、売人と思しき小男の方が手をすりすり緑川に近づいてきた。


「へ、へへへ。旦那。SPDの方でごぜえますよね。今日もお仕事ご苦労様です、それであの……」


 財布から紙幣を取り出そうとする小男の手を掴んで、緑川は冷淡に告げる。


「俺は第一委員会だ。賄賂は通じない」

「ふへっ!?」

「ああん!? 第一委員会だと!? そんな背広のエリート様が、どうしてこんなところにいるってんだ!?」


 驚きのあまり財布を落としてしまう小男。

 買い手らしきサングラス・スキンヘッドの大男が、指を鳴らしながらずかずか緑川に近づいてきた。


「どうせフカシだろう! てめえみたいな薄汚い黒焦げの優男が、第一委員会のはずがねえ! だが正義感だけは無駄に発達してるようだな……」


 男は手が届く距離まで近づくと、懐から注射器を取り出して腕に突き刺した。


「その正義感! この町じゃ長生きできねえええええぜっっ!!」


 男の腕はみるみるうちに成長し、瞬く間に人間の胴体ほどの太さまで隆起した。

 一時的に筋力を強化する違法薬物。質の良いものであれば、出力を十倍以上に高めることすら可能とされる。

 緑川も何度か、その使い手を相手にしたことがあったが。


「俺の経験上――――」

「なんだボソボソ言いやがって! しゃべれなくなるくらいミンチにしてやるああああああ!!」


 男の拳が、緑川の頭部目がけて振り下ろされる。


「――――そういう薬物を使う奴は、一人の例外もなく『弱い』」

「はぼっ……!?」


 すれ違いざま、一瞬。

 どこからともなく取り出した麻縄が、男の体をキツく縛り付けていた。ついでに肩と膝の関節も外されていて、こうなってはもう脱出は不可能である。


「違法薬物の売買に、ドーピングドラッグの使用疑惑……小物だな。絞っても大した情報も取れないだろう」


 緑川は気絶した小男を右肩に、縛られた大男を左手に軽々と持ち上げた。


「……だがまあ、これから待っている始末書の枚数を減らすくらいには使えるか……」


 さほど興味もなさそうに呟きつつ、緑川は二人を抱えて夜の町を歩いて行く。

 ここからなら中心街横の交番が一番近いだろうから、そこに二人を届けてさっさと家に帰ろうとか、そんなことを考えながら。


 ここは混沌と自由が集う万物のるつぼ、スーパー・新都。

 安寧秩序と平穏平和を除いたありとあらゆる何もかもが、この大都市には詰まっている。

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