文具沼への招待
涼格朱銀
1.図書委員のお仕事
突然あがった驚きの声に、私は思わず身体を震わせた。模造紙に定規と鉛筆を使って引いていた線が波打つ。
顔を上げ、声のした方を向くと、図書委員長がイスから半ば腰を浮かせたまま、こちらを凝視していた。
そのとき私は、図書室の掲示板に張り出す図書新聞を作るために、大きな模造紙に枠線の下書きをしているところだった。鉛筆で線を引いて、その上から油性ペンでなぞる。
本来、図書新聞を作るのは図書委員長と副委員長の仕事で、一年の下っ端ヒラ委員に過ぎない私がやることではなかった。
ただ、副委員長というのが近所に住んでいるふたつ上のお姉さんで、子供の頃から私の面倒を見てくれている人だった。
その副委員長が演劇部の練習で忙しいというので、帰宅部で暇な私が代役として、この一大事業に関わることになったのだった。私の仕事は線を引くだけだけど。
委員長は三年の先輩で、今まで顔をよく見たことはもちろん、言葉すらろくにかわしたことがなかった。
私にとって彼は「図書委員長」以上でも以下でもなく、こうして顔を見つめていても、やっぱりそれ以上の感想は思いつかなかった。
委員長はしばらくそのまま私の方を見ていた。
……いや、見ていたのは私ではなかった。なぜなら、私は委員長を見ていたのに、視線が合わなかったから。
そのことに気付いたのは、実際に委員長と私の視線が合って、それに委員長が驚いた様子を見せたときだった。
金縛りが解けたようにはっとして、すこしのけぞった委員長は、視線を落とし、そして、模造紙の上でのたうっている鉛筆の線を見て、言った。
「ああ、ごめん」
ただ、その言葉は、どこか上の空といった感じで、やはり何かに気を取られているらしい。
「どうかしたんですか?」
私が尋ねると、委員長は視線をそらし、口ごもっていたけれど、やがて、頭をかきながら妙な笑みを見せた。
「いや、鉛筆がすごかったもんで」
「鉛筆?」
言われて私は、手に持っていた鉛筆を見た。特になんてことのない、六角形で、木目調の鉛筆。
しかし委員長は興奮気味で、頭をかき続けたまま早口気味に言った。
「それ、ブラックポリマー・スリーナイン・アルファでしょ? 黒い軸のしか知らなくて、木目調のがあるって知らなかったから最初気付かなくて……どこの再生鉛筆かなと思ってよく見たら"999α"って」
委員長の言っていることはよくわからなかったが、言われてみると確かに、木目の鉛筆の軸には白色で"Pentel BLACK POLYMER 999"とあり、その後に"α"の文字が目立つように刻印されている。
「そんな珍しいんですか? これ」
私はなんとなく、その鉛筆を振ってみせる。しかし、視線をそらせていた委員長には意味のないことではあった。
委員長は窓の方を向いたまま、答えた。
「ぺんてるはもう鉛筆を作っていなくて、どれももう入手困難なんだけど、アルファは特にレアで、半ば伝説と化してるんだ」
「はあ」
「アルファの付かない普通のブラックポリマーは、ぺんてるのマークシートペンシルと同スペックらしくて、これは僕も使ったことがあるんだけど、アルファはなんでも、バブル期にちょっと出てすぐ廃番になったらしいんだ」
「はあ」
言っていることは全くわからないけど、言われてみると、なんとなく手の中の鉛筆が有り難いもののような気がしてくる……ような気がする。言っていることは全くわからないけど。
ようやく委員長は視線を戻し、私、というか、たぶん鉛筆を見ながら言った。
「それ、どうしたの? その辺で売ってる鉛筆じゃないから、それが何か知らないで持ってる人なんていないと思うんだけど」
「いや……今日、鉛筆使うからってお父さんに言ったら、持ってけって」
「そりゃすごい。……え、何してる人なの? 建築士とか?」
「んー……」
言われてみると、父親がどういう職業なのか、実のところよくわからないことに今更ながら気付いた。何の根拠もなく「普通の父親」と思っていただけだった。何してる人なんだろう?
「よくわからないけど、そういう職業ではないような……」
なんだかよくわからない苦さを紛らわすように、私は自分でも気付かないうちに筆箱から消しゴムを取り出して、曲がった線を消していた。
「その消しゴムは自分で買ったの? たぶんだけど」
え? 今度は消しゴム? 消しゴムも伝説なの? その辺で買ったやつだったはずだけど!
「え? あ、ええ。文具とかよくわからなくて……見た目で」
言いながらなぜだか、変な罪悪感を覚える。私、もっと自分が使っている文房具のことをよく分かってないといけないのだろうか。何の限定かすらわからない限定品とか、ケースがピンクでかわいいからって、消しゴムを選んでいる場合ではないのだろうか。
「いや、その鉛筆を使う人なら、消しゴムもぺんてるのとか、フォームイレーザーとか使うんじゃないかなって。もちろんMONO消しは全然悪くないけど」
わからん。さっぱりわからん。私の手の中にある「ケースの色がピンクでかわいい謎の限定」の消しゴムのケースには、確かにMONOと書かれてある。それが何を意味するかなんて、今まで考えたこともなかった。作った会社の名前なのか、消しゴムの名前なのか、あるいは想像も付かないような謎の暗号なのか。
……モノリス?
「あー、いや、ごめん。邪魔して。それじゃあ、枠線だけ仕上げてくれたら帰っていいから」
消しゴムをじっと見つめる私をヤバイと思ったのか(どうヤバイのかはわからないけど)、委員長はそう言うと、机の上に置いてあった、校内に張るためのポスターの束を抱え、図書準備室から出て行った。
あとに残ったのは、私と、妙に詰まった感じの空気の静けさだった。
私はしばらく、ぼけっと図書準備室の入り口の引き戸のあたりを見ていたが、やがて、手が止まっていることに気付き、消しゴムかけを再開することにした。
あまりに長い距離を一気に消そうとしたものだから、変に力が入ってしまい、消しゴムが一部もぎ取れてしまった。
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