はじまりのクロスロード
楠木はる
第1話 ここにいる意味
無意識にため息をつきながらグラスをテーブルに置いた美琴は、背中を思いきり叩かれた。
「こら、美琴! なんて顔してるの」
丸まっていた美琴の背中が伸びる。
痛みの発信源は、同期の寺沢風香だ。
「やっと研修終わったのよ。晴れ晴れと出発する日じゃない」
「晴れ晴れなんて絶対無理! ……いいなあ、風香は希望が通って」
これ以上ないほどふて腐れた声に、風香が肩をすくめる。
研修終了の打ち上げをしようと急遽予約した居酒屋は、狭い個室に押し込められ、隣との距離が近い。
美琴は風香の肩に泣きついた。
「明日からやっていけないよー」
「なに気弱なこと言ってるの。さっき社長に言われたじゃない、適材適所で決めたって。美琴が気づいてないだけで、きっと向いてるんだよ」
「とてもそうとは思えないよ。あ! もしかして誰かと名前書き間違えたとか」
真相を得たとばかりに顔を上げると、風香は眉間に皺をよせた。
「辞令を間違えて渡すような会社に就職したつもりはないわよ」
「……やっぱりそうだよね。どうしよう! どうしたらいい⁉」
「なんとかなるって。まあ、先輩はちょっと怖いかもしれないけど」
「ほら、風香も怖そうだって思ってるじゃない!」
風香のよけいな一言に、美琴は自分の両手に顔を埋めた。
「どうした? 北川、なに落ち込んでるんだよ」
周りで騒いでいた同期たちが美琴の放つ淀んだオーラに気づき、わらわらと集まってきた。研修終了の解放感に加えてお酒も入っているので、みんなテンションが高く声が大きい。
「美琴、商品管理部だっけ。それって日高さんのところか!」
「うわー、厳しそうだよな」
「日高さんって、かっこよかったけど怖そうだよね。私は無理かも」
みんなが遠慮なく口にする名前が重くのしかかった。
ここに集まる十人は、今春セレクトショップ「GROW」に採用されたばかりの新入社員だ。
設立十五年目のGROWは、大手アパレルメーカーのグループ会社にあたる。
親会社の店舗は、どこのショッピングモールにも必ず出店しているほど広く全国展開していて、若い子を中心に人気がある。
流行りのアイテムが安く手に入るので、美琴もまわりの友達もよく利用していてるありがたいお店だ。
みんな似た格好をして、同じようなお店で買ってアイテムが友達とかぶる、そんなこともそれはそれで楽しい。
だけど、これだけ物が溢れている中で、誰とも違う、自分だけのものを見つける ―――そんなコンセプトでできたのが、セレクトショップGROWだ。
GROWは質の高い日本製のアイテムを集め、コンセプトに合っていれば、インディーズでも一点ものでも扱っている。
GROWが企画するオリジナルブランドやコラボ商品もあり、流行りに左右されないベーシックなデザインは定評がある。
それなりに値段はするけれど、手が届かないようなものではない。
そんなGROWに共感する人は多いらしく、店舗もインターネット販売も好調で、東京、大阪、神戸に続いて名古屋に四店舗目を準備中だ。
小さな会社ながらも、GROWが扱うならいい物だという価値感が広がり、着々と売り上げを伸ばしている。
高校生の時に初めてお店を訪れた美琴は、流行りを気にしないのに素敵なものに囲まれた空間に惹かれた。
こんなところで働きたい!と思ったけれど、店舗スタッフまですべて社員で揃えているのでバイト募集はなく、学生時代は他のお店でバイトをしながら、就職先として迷わずエントリーし、内定をもらったのは去年の秋だった。
入社式を終えるなり、グループ会社すべてを合わせた新入社員五十人で、研修施設に泊まり込みでの新人研修がはじまった。
親会社も子会社も、基本的な仕事の流れは変わらない。
入社時に辞令が出ているのは店舗スタッフだけで、内勤組は研修が終わるまでどこに配属されるかわからない。
必然的に、みんなどの講義も真面目に聴いていた。
前半は基本的な接客マナーからはじまって、商品知識、カラーコーディネートに心理テストまであった。
覚えないといけないことの多さに悲鳴を上げながらも、バイト時代には教育らしいものを受けていない美琴にとって、手取り足取りでありがたい。
後半は、社員が講師となって、多くの講義が用意されていた。
販売部の講義では、売れ残り商品をどうするかアイデアを出し合う。
企画部の講義では企画からデザイン起こしまでの流れを簡単に体験した。絵が苦手な美琴は苦痛でしかなかったけれど、風香は嬉々として、評価も高得点だった。
同期ともお互いに打ち解け、和気あいあいと緩んでいた空気が、研修も残り二日となった昨日の講義で一気に引き締まった。
「次に来る講師、けっこうきついらしいぞ」
昨日、昼食の席でそんなことを言い出したのは、親会社にいる大学の先輩から多くの情報を流してもらっている男子だった。
「次って商品管理部だっけ」
「GROWの社員で、すげー厳しくて有名なんだって」
「本社差し置いて講師で呼ばれるくらいなんだから、出来るんだろうな」
「店舗に出たら売り上げすごいらしいぞ」
そんな噂話にのぼった講義は、はじまるなりみんなの姿勢が伸びた。
講師としてきた日高は、二十代後半くらいなのに貫禄のある厳しい雰囲気を醸し出していた。
センスのいいスーツと腕時計、整った顔立ちに一瞬色めきだった女子たちは、日高が教室を見渡したその視線に黙り込む。
これまでの講義がきれいでかわいらしい女性や、温厚な年配の男性ばかりだったので、そのギャップも大きい。
「大沢、店にとって一番大事なものはなんだと思う?」
第一声がいきなり問いかけだった。
講師が一方的に話す講義ばかりだったので、誰も当てられるとは思っておらず緊張が走る。
真ん中の席に座っていた男子が慌てて立ち上がった。
「お客様、でしょうか」
「そうだな。じゃあ、島本がここで買おうと思う一番のポイントはなんだ?」
窓際に座っていた女の子が跳ねるように立ち上がる。
「えっと……欲しい商品があること、です」
「そうだな。欲しい商品はある、だけどそれを売るスタッフの対応が気に入らない。長谷川ならどうする?」
今度は一番前に座っていた男子だ。
日高は名簿類を一切見ていない。五十人全員の顔と名前を憶えているのかと度肝を抜かれる。二週間も一緒に過ごしてきた美琴すら、GROW採用者以外は憶えきっていないというのに。
「別のお店にするかもしれません」
「そうだな」
三人に手で座れと合図を出し、日高は部屋を見渡す。
「スタッフの質は、こっちが思うよりずっと購買意欲を占めてるんだ。どれだけきれいな店でも、スタッフの対応にその印象が悪くなった経験は君たちもあるだろう。……北川!」
きゅうに名前を呼ばれ、美琴は飛び上がるように立った。
「お客様の他にも、スタッフの質が重要になる相手がいる。わかるか?」
「ええと……」
お客様以外でスタッフの質を重視する人?
冷たい視線で日高に見据えられ、美琴は真っ白になる頭の中で必死に考える。
「運送業者さんですか?」
正解ではないようで日高が眉をひそめた。入社式のあと、案内してもらったGROWの社内で出会った人たちを順に思い浮かべる。
「システム管理の人、店舗の内装屋さん……あ、お弁当屋さんとか」
くすくすと周りから笑いがもれ、日高が額に片手をやって下を向いた。
呆れられているとわかるけれど、焦れば焦るほどなにも出てこない。
「すみません、わかりません」
恐る恐るこたえると、「今までの講義聞いてたか?」と日高は顔をしかめ、座れと声をかけられる。
「運送業者やシステムエンジニア、弁当屋は向こうもプロだ。こっちの質によって仕事をおろそかにはしない」
言われてみると確かにそうだ。
「だけど、商品の作り手であるサプライヤーは提供先を選ぶ権利がある。ここに提供したいと思える店にならないと、いい商品は入ってこない。逆にサプライヤーからここでならと思っていただけたら、いいものを仕入れお客様に届けられる」
日高の言葉にこれまでの講義がつながった。考えたらあたりまえのことなのに、どうしてこたえられなかったのだろう。
「自分の仕事がどこから来て、その先どこへ流れていくのかしっかり意識してほしい。レベルの高い会社は、全体を把握しようとする意識が高いんだ」
話し方は厳しいけれど、その内容には納得がいった。
周りのみんなも指名にびくつきながらも小さく頷きながら聴いている。
その後、商品管理部の仕事内容が紹介されたけれど、美琴は恥ずかしさと緊張で半分ほどしか頭に入って来なかった。
「お客様やサプライヤーには、新人もベテランも関係ない。新人だからできないなんて言い訳するなよ。お客様にとってベストな商品、空間を提供する心構えは忘れないようにな」
低い声で締められ講義を終えた。
日高が研修室を出て行くと、まわりが一斉に吹き出した。
「美琴! さっきのこたえなんなのよ。入社式の日に見かけた業者さん並べたでしょ」
「お弁当屋さんとか、笑わせないで」
GROWのメンバーが大笑いしながら美琴を囲み、室内が一気に騒々しくなる。
「でもさ、なんかやる気出てきた」
「服売るだけなんて思ってたけど、深いよな」
はじまる前は重い空気が漂っていた室内に、不思議な熱気が起こっている。
「日高さんがすごいって噂、ちょっとだけわかった気がする」
みんなは盛り上がっていたけれど、美琴の中では怖い人だとインプットされた。
関わりたくないなと感じたそれは、虫の知らせだったのか。
研修の締めくくりとなる辞令式。
嫌な予感は当たり、美琴の辞令には「商品管理部」と明記されていた。
よりによって美琴一人だけがそこへの配属とわかり、研修で培った覇気は一気に萎えた。
カクテルをちびちびと飲む美琴を、いい加減お酒のまわった風香が陽気に叩く。「新人指導は二、三年目の人が多いらしいよ。日高さんってもっと上じゃない。新人担当はないわよ」
「……でも先輩なことには変わりないもん」
「もー、前向きになりなよ」
風香は美琴の背中をさすりながら励ましつつも、言葉とは裏腹に目は笑っていて、楽しんでいることが手に取ってわかり憮然とする。
風香は希望通り、企画部へ配属された。オリジナル商品やコラボ商品を手掛ける部門だ。
商品管理だって大切な仕事だけれど、美琴がやりたかったのは店舗スタッフだ。 バイトでの経験が役に立つだろうし、お客さんとのやり取りが好きなのに。
周囲はへこむ美琴を気にも留めず、運ばれてきた追加のドリンクに盛り上がっている。
「愚痴ばっかり言わないの。美琴、会社の誰かに恩があるんじゃないの?」
グラスに口をつけながら、風香がじっと見つめてきた。
どういう意味だろう?
怯んだ美琴の目を見て、風香がにんまりと笑う。
「美琴、最終面接に来なかったでしょ」
とっさにこわばった美琴に、風香は「そんな顔しないで」と笑いかける。
「最終面接って三人組でね、私、美琴と同じ組だったの。受付の人が『北川美琴さんがまだです』って小声で話すの耳にして。結局美琴抜きの二人で面接受けたのに、入社してるから驚いただけ。もう一人の子は入社してないし、他の子たちは誰も知らないわ」
「……どうして今頃?」
風香とは研修初日に隣同士の席になり仲良くなった。
はじめから知っていたのなら、どうして黙っていたのだろう。
「言うつもりなかったのよ。でも美琴があんまりふて腐れるから。どんな理由か知らないけど、内部の誰かに助けてもらったんじゃないの? それをあんまり愚痴るのもどうかと思って。野次馬でごめんね」
謝りつつも、風香が美琴に喝を入れようとしてくれる気持ちが伝わる。
「……ほんというと、私も全然わからなくて」
みんなの騒ぐ声を隠れ蓑に、美琴は風香に打ち明けた。
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