第16話 指先負傷事件―薬指の先がなくなる?

パパは私のことをどう思っているんだろう。わざとドキッとすることを言って挑発してもそらしてしまう。でも、こちらがよそよそしくすると、機嫌をとりにくる。一歩前に出ると一歩さがってしまう。付かず離れずでパパはずるい。好きじゃないと一緒に住んだりしないのに。


考えごとをしていて油断した。指が何かに当ったと思ったら血が飛び散った。痛い指が! 指がフードプロセッサーの刃に触れたみたい。


「キャー」というと、周りの人が気付いてくれて、大騒ぎになった。指が血だらけでとても痛い。それを見て腰が抜けた。


すぐに先生が救急車を呼んでくれて、近くの病院へ運んでくれた。まず、指のレントゲンを撮った。それから処置室へ入った。


女の先生が真っ赤に染まった手ぬぐいを外していく。怖くて見ていられない。痛いのか痛くないのか分からないくらいに頭が変になっている。


指の様子を見た後、先生は指に包帯を巻きながら「大丈夫、すぐ手術するから」と言った。


手術は5時からと聞いた。そこへパパが駆けつけてきた。パパの顔をみると涙があふれた。パパが着いたので、主治医の女医さんが来て、傷の説明をしてくれた。


診断の結果、右手中指は第1関節の先の傷が5㎜程度の深さで縫うだけで済んだが、薬指第一関節の先の傷が深く、かろうじて指先がつながっているので、すぐに手術するとのことだった。


細い血管の縫合は難しいのでやって見ないとわからないが、薬指の先がなくなる可能性もあると言われた。


パパが手術の承諾書に署名捺印した。パパはよろしくお願いしますと何度も頭を下げていた。


パパは「大丈夫だから、気をしっかり持って」と励ましてくれたが、不安が一杯で手術室に入った。


手術は2時間かかった。局所麻酔で意識があったが、全身麻酔で意識をなくしてほしかった。指がつながりますようにと何度もお祈りした。苦しい時の神頼み。


手術は長い時間のようにも短い時間のようにも感じられた。手術は順調に終わり、1~2日で成功したか分かると説明を受けた。


病室に運ばれた。右腕は固定されて、左腕には点滴の針が刺されている。身動きができない。外はすっかり暗くなっている。もう8時になっていた。


看護婦さんが出ていった後は、誰もいない一人部屋の病室で、とっても心細い。窓からライトアップした橋が見える。そこへパパが心配そうに入ってきた。


「夜景がきれいだね」


「うん。ごめんなさい」


「結果は1、2日でわかるそうだ」


「先生から聞いた」


「指が壊死すればあきらめて」


「うん、私の不注意。考えごとをしていたの」


「実習中は集中しないとだめ」


「分かっています」


「心配事があるのなら、相談にのるよ」


「大丈夫」とは言ったけど、パパのことを考えていたなんてとても言えない。


「綺麗な女医さんだったね」というので、パパは何なのこんな時にと、カチンと来て「こういうときに不謹慎でしょ」と怒鳴ってしまった。


「ごめん。そういう意味では」


「じゃあ、どういう意味?」


絡んでしまった。パパは黙り込んでいる。いけない、感情的になってしまった。


「許してあげる。それより、1週間は入院しなければならないので、着替えを持って来てもらえませんか? 分かる?」


「いいけど、下着だよね」


「うん。プラケースの中にあるから、適当に2~3枚ずつ、見れば分かるから」


「いいのかい」


「仕方ないでしょ」


「分かった。あすの朝、出勤途中に寄るから」


「お願いします」


「ほかに何かほしいものある?」


「喉が渇いているのでジュースが飲みたい」


「じゃあ、すぐに売店で2,3本買ってくるよ」


パパは出て行った。でも、その前に頼めばよかった。おしっこがしたい。そういえば、実習が始まる前に行ったきりでずっと行く機会がなかった。手術があったので緊張してしたくなかったこともある。


気になるとますます我慢できなくなる。どうしよう。出ちゃいそう。でも動きが取れない。右腕は包帯で胸の前に固定されて、左腕には点滴の管が支柱にまでつながっている。パパ早く戻ってこないかな。思ったよりも時間がかかっている。


ようやくパパがジュースを3本持って戻ってきた。


「トイレに行きたいの、我慢できない」


「看護師さんを呼んでくる。いや、そこのコールボタンを押せばいい」


「待てない。出ちゃう。怪我した時からずっとトイレに行ってないの。すぐにつれてって」


「ええ!」


「早く私を起こして、手を貸して、お願い」


漏らしそう。冷汗が出てくる。


「早く早く」


ようやく、トイレにたどり着いた。とてつもなく長い時間がかかったような気がする。


「下着を下して早く」


「えええ!」


「でも、見ないで、絶対に」


パパは後ろからそっと下着を下してくれた。そして慌てて外へ出て戸を閉めた。これでやっとできる。


大きな音がする。静かな部屋だから余計に大きく聞こえる。すぐに水を流す。パパに聞こえたかな? 恥ずかしい。でもホッとした。


この前のように途中で床に漏らすことがなくてよかった。ようやく正気を取り戻した。立ち上がって戸に背を向けた。


「パパ、下着を上げて」


「は、はい」


パパは恐る恐る入ってきて、ゆっくり上げてくれた。それから、ベッドに連れて行ってくれた。そして「今度から早めに看護婦さんに頼むように」と言い残して慌てて帰っていった。ありがとうパパ。


次の日の朝、朝食を摂っていると、パパが着替えを持ってきてくれた。帰りにも寄ってくれた。「汚れたものはない?」と聞かれたが、下着を出すのが恥ずかしいので、返事しないでいると、パパは「そうか」と言って、帰って行った。


下着の替えがなくならないか心配だったけど、退院が間に合った。幸いにも縫合部分の壊死もなく、指はつながった。安心した。


そのあと2週間ほど自宅療養した。朝食の準備と後片付けはパパがしてくれた。お昼ごはんは冷凍食品で済ませた。夕食はパパが毎日違うお弁当を買ってきてくれた。


洗濯は自分の下着は自分で洗った。小さいものが多いので片手でもできた。パパの分は自分で洗ってもらった。洗濯物の取り込みは私がなんとか片手でもできた。


お風呂は怪我したほうの手をビニール袋で覆って入ったが、着ているものは、時間がかかったけれど、なんとかひとりで脱げた。上がって身体を拭くのが一苦労で、さらにパジャマを着るのがまた一苦労だった。


退院したばかりのころは、パパに目をつむってもらって脱がせてもらった。前に回ったときは、目をつむっているが、後ろに回ったときは、きっと目を開けていたと思う。しょうがないか、パパだから。


2週間でほぼ回復した。手には包帯が残っていたが、日常生活はできるようになり、再び学校へ行けるようになった。


「パパ、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさない。親身になってくれてありがとう」


「今回は退院後の世話を十分してあげられなくて悪かったね。久恵ちゃんのママが生きていてくれたらと、女の子には母親が必要なことを痛感した」


「いえ、十分にお世話してもらったから、そんなことはありません」


「父親がどんなに愛情を注いでも、母親にはかなわない。母親の子供への愛情は父親の愛情とはかなり異質のような気がする」


「私は、物心がついた時から父親がいなかったので、比較できないけど、ママは私を命がけで育ててくれた。母親の愛って本当に一方的ですごいものだと思います」


「また、考えごとをしていてはだめだよ」といわれたけど、パパのことを考えていて怪我したとは、とても言えなかった。内緒にしておこう。でも、これからは本当に気を付けよう。


でも、パパはやっぱり男親、限界が明らかだった。ママが生きていてくれたら、随分助かったと思う。女の子にはいつまでも母親が必要なんだとつくづく思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る