世の中の黒い箱

和歌山亮

怒りの理由(1)


 一口しかないコンロの上で、ぐつぐつと鍋が煮立っている。透明なふたを通して、適当な大きさに切られたネギや豆腐、しらたきが小刻みに揺れているのが見える。漂ってくる甘い匂いは食欲をそそる。

 しかし、僕、小田おだ 直之なおゆきは、少々苛々していた。

東京某所、大学から徒歩数分のワンルームアパートの狭い台所に立ち、僕は、すき焼きを作っていた。しかし、ここは僕の家ではない。

 振り返ると、部屋の中央に、男四人で囲めばもう窮屈だろうと思われる小さなちゃぶ台があり、その周りに三人の男が座っていた。一人は右側の壁に沿って置かれているベッドに座り、パソコンを膝の上にのせて、真剣な表情でうんうん唸りながら何か作業をしている。多分大学の課題だろう。他の二人はちゃぶ台の左側と奥側の床に直接あぐらをかいて座って、何か話をしている。多分下らん話だろう。奥側に座っていた天然パーマの男、西島にしじま 智樹ともきがこちらに気づき、座ったまま声をかけてきた。

「できた?」

「いや、あと少しかかる。」

 答えてから、いや「できた?」じゃない、そもそもなぜお前らの飯を僕が作っているんだ、と文句の一つも言ってやろうかと思ったが、面倒くさいのでやめた。西島はすき焼きの完成がまだであることを知ると僕への興味を失ったようで雑談に戻った。雑談の相手、桜井さくらい 真司しんじも一瞬ちらとこちらを見ただけで、すぐにその童顔を西島の方に戻した。そして、僕は西島たちに文句を言うより先に伝えるべきことがある。

「本郷、皿はどこだ?」

 右側に座っていた男が手を止めてこちらを向く。この男がこの家の主の本郷ほんごう みつる。短髪で、見た目はスポーツマンのさわやかイケメンといった印象だが、少々感性は独特である。

「何?できた?」

 本郷は自分が呼ばれたことには気づいたが、何を言われたかは分からなかったらしい。

「あと少しかかる。それで、皿を人数分出してほしいんだが、どこにある。」

 本郷が何かに集中しているときに人の話を聞いていないことは過去にも多々あった。その質問が二度目であることには触れず、質問の解と用件だけ伝える。

「ああ、はいはい」

 本郷は立ち上がり、近くの棚を開けると笑顔で紙皿を差し出してきた。こいつは人と接する時だいたい笑顔だ。感性は独特だが人当たりはいいのである。

「いや、鍋をちゃぶ台の方にもっていくから、皿はちゃぶ台のところに用意しておいてくれ。」

「承知」

 なんだそれは。今までそんなこと言ったことなかっただろう。

戯れを受け流し、鍋の方を見ると、完成具合を二度聞かれて自分の気持ちにも変化が生じたのか、なんかもう良いんじゃないか、と思えてきた。まあ牛だし食えるだろう。ふたを開け

「おい、お前ら、できたぞ。」

と、少し大きな声で部屋の中央の方に伝えた。

 鍋をちゃぶ台の上の鍋敷きの上まで持っていって置いた後、そのまま、ちゃぶ台の手前側の床にあぐらを組んで座る。西島と桜井が雑談をやめ、鍋をのぞき込んで「おお」と小さく歓喜の声を上げた。それを見て先ほどまで苛立っていた僕の心も少し落ち着く。

 本郷が紙皿を回してきたので一人ひとつずつ取って回し、その後卵も回ってきたので同様に回す。卵を紙皿の上に落としてかきまぜた後、鍋の中身をぼんやりと眺めていると、今度は紙皿によそわれた白米が回ってきた。これは本郷があらかじめ炊いていたものである。

 全員に白米と卵が回り、四本の缶ビールを手に持った本郷が最後に席、ベッドに着き、缶ビールを一人ずつに手渡した後、口を開いた。

「今日は俺の引っ越し祝いに集まってくれてありがとう。大学三年目も頑張ろう。」

「おー」

 適当な返事とともに各々が缶ビールを開ける音が聞こえた。お前のために集まったという気持ちも祝いの気持ちも全くない。早く飯が食いたい。


***


 きっかけは、一週間前、大学三年から埼玉の実家を出て一人暮らしを始めたのだという本郷の話を聞き、僕が何気なく言った「誰かを誘って家で飯なんかもできるな」という言葉であった。本郷はその単なる呟きをたいそう気に入り、言い出したお前もセッティングに付き合えと、宣った。別にやろうといったわけではないのだが、積極的に断る理由もなかったので、僕と本郷が所属するサークルの同期の中から適当に声をかけ、今日四月某日土曜日に開催の運びとなった。そこまではいい。

 人を集めただけで当日まで何を作るかさえ決めていないほどにいい加減な会であったが、その場で僕が決めてよいということだったので、すき焼きにした。自身の好物の一つであるが、我が家では滅多にしないのである。今思うと、ただ単に何を作るか決めるのを全員で話し合うのは面倒だという理由だったのだろうが、その時の僕は会をセッティングした役得だと解釈した。

 しかし、全員で近くのスーパーに行き食材を買って帰ってきて、いざ作り始めようという段階になって、だれが作るのか決めていなかったことに気づく。食材の購入の時のように全員でやればよいという発想もあるだろうが、すき焼きなんて、ネギやら豆腐やらを適当に切った後、市販のしらたきやら肉やら先ほど切ったあれらを適当にたれで煮込めばできるのだ。分担するほどのこともない。さらにワンルームアパートの台所は狭く、複数人で作業するには明らかに向いていなかった。

 そこで白羽の矢が立ったのが何を隠そう僕である。彼らの主張としては「決めたやつが作れ」と。会が開催された時点でもう追加の役割は回ってこないだろうと思い込んでいた僕は抵抗した。しかし、二、三度繰り返した自身の主張が三人に全く受け入れられない様子を見て、抵抗開始から二分も経たず白旗を挙げた。奴らを説得する労力をひねり出すのも面倒くさかったし、自身の腹のためにも早く作った方がよいと判断したのだ。食材の買い出しから帰ってきた時点で時計は一九時を回っていた。


 思い返してみても、やっぱり僕が飯づくりを押し付けられる謂れはなかったと思う。それを再認識したらまた腹が立ってきた。今度こそ奴らに文句を言ってやろうと、伝えるべき言葉を精査していると、突然の大声に思考がさえぎられた。

「マジか、西島」

 本郷の声である。家主がこんな大声を出してお隣さんとの関係は大丈夫なのだろうか。その驚きを提供した西島の方を見ると、そちらは後頭部を掻くという照れのお手本のような照れ方をしている。そして照れの理由は三人の会話を聞かず、あぐらを組んで後ろに手を突く楽な体勢でぼーっと今日のことを思い返していた僕でも分かる。交際の相手でもできたのだろう。

「いや、まだできたっていうわけじゃなくて、その前段階っていうか」

「誰?」

「誰だ、俺らの知り合いか?」

 目の前では、アルコールの入った男子大学生三人がニヤニヤしながら盛り上がっている。

 鍋の中のすき焼きはほとんど平らげられ、完全に切る大きさを誤ったと思われる小さなネギやくずれた豆腐などを残すのみとなっていた。最初は白米が盛られていた紙皿も今は全員が空になっている。

 経験的にアルコールの入った男子大学生が集まったなら、しないはずのない話題の一つである。特に、本郷はこの手の話題が大の好物であった。確か今日最初に話を振ったのも本郷だと記憶している。

 一方で僕は、端的に言って他人の色恋には全く興味がわかない人間であった。そもそも他人の色恋の話を聞いてどうしようというのだろう。三人の会話に入らず今日の理不尽を思い返していたのも、この手の話が始まり、会話に参加する意欲を失ったからである。ちなみに精査していた言葉たちはどこかに行ってしまった。

「ちゃんとOKされたら言うから。」

 本郷の猛攻撃に対し、西島はこれの一点張りで鉄壁の防御を見せていた。OKされることはほぼ確定であるような言い方をする。しかし、さすがに本郷の多彩な攻撃を受け技一種のみで捌くのが厳しくなってきたのか、標的をずらしにかかる。

「そういえば、小田はどうなん?」

 やはり会話に参加せず、白米が空になった紙皿を見比べて、本郷食い方汚いなあ、とか桜井は意外と食い方きれいだな、とかどうでもいいことを観察していた僕は顔を上げ、口を開いた。本当に開いただけだった。僕が言葉を発する前に、左にいる桜井が口を挟んだのだ。その口元にははっきり嘲笑が浮かんでいた。

「はっ。小田にいるわけないだろ。他人の気持ちが分かんないんだから。」

「なっ」

 さすがにいつも冷静沈着で温厚な僕も面を食らった。

 桜井は童顔で小柄という純真そうな外見から初見では勘違いされがちだが、その実中身はひん曲がっており、それが言動、特に言葉に表れる。初対面の人間はその容姿から発せられる言葉群に驚くのが常である。特にアルコールが入った時の口の悪さは常軌を逸しており、一度の飲み会でサークルの後輩を三人泣かせたという逸話を持つ。

 そんなお前に言われたくないとか、そもそもさらっと何ていうこと言うんだとか、言うにしてももうちょっと言い方があるだろうとか、言いたいことが渋滞して中々言葉が出てこない。そんな僕をよそに、西島が自身の意見を上乗せする。

「確かに、小田ってそういうところあるよな」

 こちらは口が悪いというよりかは正直といった方が正しいのか。最後の一人の方を見ると、本郷も笑いながら頷いていた。いつもより口角が上がっている。まあ桜井のような嘲笑ではないのがまだマシだが。

「おい、言いたい放題だな」

「まあ、小田のことはどうでもいいだろ。本郷、最近どうなんだ。」

「そうそう最近はどうなの?」

 言いたいことが山積みであった僕とは裏腹に、言われる側はもうこの話題には興味がないらしい。聞く気のない相手に対して自分の主張を通すことは面倒くさいことこの上ないので、もう何も言わないことにした。実際、僕の西島の質問に対する答えは「いないよ」の一言のみでそれ以上語れることも語る気もなかったのだ。聴衆としてはそれよりか本郷の話を聞く方が何倍も面白いだろう。何せ本郷にはお相手がいることが分かっているのだ。

 本郷は過去にもこの手の話題の時に自身の近況を、惚気を含めて話すことがあった。桜井はそれを期待して本郷に話を振ったのだろう。しかし、本郷の反応は予想されたものと大きくことなっていた。桜井に話を振られた瞬間、本郷の笑みの質が大きく変化したのだ。

「ああ。実は最近、楓… 彼女を怒らせちゃったんだ」

 口角が上がっているのに悲しそうに見える表情が、事の深刻さを示しているような気がした。


***


 本郷満。建築学科所属。大学三年生。さわやかイケメン風な外見とは異なり、中身は少し変わっているが、基本的に人当たりはよく、ひねくれものの誰かさんとは違う。男子高出身のくせに男女いずれに対しても妙に気が利き、それはどこで学んだのかと聞いたところ、「姉に躾けられた」らしい。姉持ちは皆、気配り上手に育つのだろうか。

 そんな本郷だが大学二年の冬まで色恋とは無縁であったようだ。しかし、年末のある日、具体的に言うとクリスマスの次の日、本郷からケータイにメッセージが届いた。奴曰く

『俺のところにもサンタがきた』

 文面だけでは全く意味が分からなかったが、その後会って話を聞くと、彼女ができたということを伝えたかったらしい。もしかすると、プレゼントをくれる相手ができたということだったのだろうか。まあ、そんなわけで奴はそれからたびたび惚気話をするようになった。

 では、その本郷のお相手がどんな人間かというと、苗字は確か荒木あらき、名前はかえでといった。

 なぜ名前の方がすんなり出るかというと、本郷が惚気話の時に度々「彼女」呼びから名前呼びになるのである。

 その荒木さんは、本郷と同じ建築学科の三年生で、見たことはないが本郷談では、長髪黒髪で、つり目のクールビューティらしい。僕はその容姿を本郷から聞いて、気が強そうだなあ、と勝手に想像したが、実際、「言いたいことはその場ではっきり言う」性格らしく、本郷の話の中でも、彼女にもっときれいに食べれないのかと叱られただの、ずっと笑っているのは気味が悪いから止めろと言われただの、怒らせたというか不機嫌にさせたというか、そういった類の話が何度か語られていた。まあ、他人だけでなく自分にも厳しいらしいが。ちなみに、そういった話のオチは基本的に、怒っている様子も可愛いという惚気であった。

 そういった今までの話を考慮するに、「彼女を怒らせたこと」はあまり深刻ではない気がするのだが。

 本郷の雰囲気の急激な変化に一同若干の戸惑いは見られたが、同様のことを思っていたのだろう。西島が疑問を投げかけた。

「『怒らせた』って、そういう話今までもなかった?」

 この疑問は本郷自身、予期していたのだろう。頷き、すんなりと答える。

「ああ、彼女を怒らせるようなことは今までもあった。けど、以前に何回か話したように彼女はその理由をいつもはっきり伝えてくれた。『これが嫌だ、気に食わないからやめてくれ』ってね。」

 話が見えてきた気がする。では、何が問題なのか、という当然の疑問もすぐに本郷からもたらされる。

「今回は、彼女が怒っている理由を言わないんだ。一度『なんで怒ってるか分かる?』って言ったっきり何も言ってくれない。ここ十日くらいずっと謝ってはいるんだけど、全然許してもらえなくてね。」

 本郷は一度言葉を区切る。呼吸を置き、悲しげな笑みのまま続けた。

「ちょっとみんなの意見をくれないか。俺一人じゃどうもダメみたいだ。」

 今までの惚気話に出てくる荒木さんの印象にはあまり合わないが、『なんで怒ってるか分かる?』というフレーズは、男性にはよく分からない理由で女性が怒ったときに発するということで、巷で有名である。実際に言った例というのは初めて聞いたが、それを茶化せる雰囲気では決してなさそうであった。

 少しの間、沈黙が流れ、他三人の意見を代表するように桜井が口を開いた。

「まあ、とりあえず話してみろよ。お前自身の考えの整理にもなるだろうし。」

 その言葉への同意を示すように僕は小さく、西島が大きくうなずく。

 桜井は、ひねくれてはいるが、弱っている友人から助けを求められて「知らんがな」と捨て置くほどには冷徹な人間ではなかった。そして、僕もそうであると、自分では思っている。桜井が本郷から視線をそらす。桜井の言葉を聞いて、本郷の笑顔の悲しげな成分が少し弱まった気がした。本郷が強引に僕に今日の会の開催の手伝いを求めてきたのも、この件が少なからず関係しているのだろう。

 三人の了承を得て本郷が話始めた。

「ありがとう。じゃあ、何から話そうか…。そうだな。まず、彼女を怒らせてしまった日は分かってるんだ。その日のことを話すよ。あの日は初めて彼女の家に行ったんだ。

 彼女の実家は地方にあって、一、二年の時は寮生活だったんだけど、三年生になって通うキャンパスも変わるし、四月から寮を出て、俺と同じように部屋を借りて一人暮らしを始めたんだ。

 その日、授業が終わって一緒に帰ってたら、新しい家の最初の客として俺を招きたいって言われて、うれしかったなあ。実際、彼女が一人暮らしを始めたことを知ってから、ずっと誘われるのを待ってたし。

 そういや、誘われたときなんだけど、彼女、一人称が『ウチ』で、自分の家もおんなじイントネーションで『ウチ』っていうんだ! そんで、誘うときに『ウチのウチくる?』っていう彼女がかわいくて」

「今は惚気はいい。」

 テンションが上がってきた本郷に、桜井がしかめっ面で口を挟んだ。「今惚気って、お前、どういう神経してんの?」と言わんばかりだ。普段だったら言っていると思う。奴の独特なグッとくるポイントが今全くどうでもいいのは僕も同意見である。が

「まあ、もしかしたら何か手掛かりになることがあるかもしれない。好きに話せよ。」

と、フォローする。これで話が省略気味になって大事な情報が抜け落ちたら分かるものも分からない。惚気は桜井の苦言で十分収まるだろう。

 本郷が少ししゅんとなって話を進める。

「ごめん…。それで、その日、楓…、彼女の家にお呼ばれすることになったんだ。

 彼女は最初から手料理を振舞おうと思ってくれていたらしい。家に招かれて早々『ご飯作るから食べていって』と言われた。もちろん食べていくことにした。

 そのあとは、彼女は料理が完成するまでずっと台所にいて、俺はその日に出された課題をやってた。もちろん最初は手伝おうかと思ったけど、この家と同じように二人で作業するには台所は狭かったし、『何か手伝うことある』って聞いても、『そこに座ってくつろいでて』って言われて手持無沙汰になってね。

 料理ができた後、彼女と一緒に夕食を食べた。彼女は食器も二人分用意してたんだ。彼女の手料理を食べるの、初めてだったから若干不安だったけど料理は美味しかったよ。でも彼女の方は結構心配していて、『ウチの料理、おいしい?』って何度か聞いてきたから、『おいしいよ』って答えてた。あとは世間話だな。これは俺の主観だけど、夕食までは怒るどころか料理を褒められて上機嫌に見えた。

 それで、大体夕食が食べ終わって、彼女がお手洗いに行ったときに全部の食器をお盆にのせてシンクにもっていった。洗い物は俺がやろうと思ってね。直接彼女に俺がやるって言っても、また断られちゃうと思ったんだ。程なくして彼女がお手洗いから戻ってきて、シンクで洗い物をやろうとしている俺の後ろから近づいてきたのを感じた。洗い物も私がやるよ、とかそういう感じだろうと思ってたんだけど、ほとんど隣まで近づいてきて声をかけてきた彼女の顔を振り向いて見たとき、びっくりしたよ。今まで見たことがないってくらい怒った顔をしてたんだ。

 何に対してこんなに怒ってるのか全く分からなかったけど、ともかく、これはこっぴどく怒られるなあ、と覚悟して次の言葉を待っていたけど、次の言葉は『なんでウチが怒ってるか分かる?』だった。そんな回りくどい言い方、今までされたことなかったから戸惑って何も言えない俺の様子を見て、彼女は『分からないなら出てって。分かるまで口は利かない』と続けた。そのまま家を追い出されて、その後はさっき言ったように、この状況がずっと続いてる。」

 どうやら話は終わりのようだ。話し終えた本郷は、どう思う? というように三人の顔を見渡した。

 確かに、それほど単純な話ではなさそうである。一聴しただけでは、人を激怒させるような行動が本郷にあったようには思えなかった。

 最初に口を開いたのは、ずっと黙って聞いていた西島であった。

「うーん。話の中では特別怒らせるようなことはやってないように感じたけど、何に怒るかは人それぞれだからね。本郷が何気なくやったことが彼女さんの怒りポイントに触れちゃったっていうのが、可能性として高いと思う。」

 恐らく、そうなる。本郷の何かが彼女、荒木さん独自の「容認できない項目」に抵触したのだ。それは本郷も分かっていたのだろう。大きくうなずいた。

「うん。そうだとは思うんだ。」

 西島はさらに続ける。

「じゃあ、それがズバリ何かっていうのは話聞いても分かんなかったんだけど、やっぱり最後の食器を持っていったのが怪しいんじゃない? だって食事中は機嫌よかったんでしょ?」

 ふつうは消去法でそうなるだろう。怒っていることを隠して接していて、急に爆発させたというのも人によっては可能性が無くは無いのかもしれないが、今まで聞いてきた荒木さんの印象からして、怒らせるようなことをしたら、その瞬間にアクションがありそうである。

 しかし、本郷もそれくらいは考えていた。

「俺も最初はそう思って、『なんでそんなに怒らせちゃったのかは分からないけど、食器を持って行ったことが原因で怒らせちゃったなら謝る』って連絡したんだけど…」

 ずいぶん曖昧な理由で謝ったな。まあ曖昧なところから攻めることによって、その反応からも情報を引き出そうという魂胆だったのかもしれない。それは少しセコいか。

「返信が帰ってこない。彼女の性格からして、かすりでもしていたら、『もっと具体的に』っていうような連絡があるはずなんだけど。」

 つまり、全く的外れということか。自分の考えが完全に否定された西島は、そうかあ、と呟き口を閉ざす。しかし、予想した魂胆があっていたとは。引き出せる情報はなかったようだが。もっとも本郷の「彼女の性格分析」が正しいとも限らないし、実際荒木さんのことが分かっていないから怒らせているのではあるが、ここはある程度信頼することにしよう。

「でも、方向性は間違ってないと思うんだよな。」

 次に口を開いたのは桜井である。

「シンクに近づいたこと、それ自体がアウトだったっていうのはどうだ?」

「つまり、本郷は気づいてないかもしれないけど、彼女さんにとっては見られてはマズイものをシンクで見たってことか。」

 西島が自身の考えを口に出して整理する。

「例えばそういう場合だ。まあ、目で見たものでも、においでも音でも何でもいいが。」

 本郷は、うーん、と唸った。

「シンク周りで特におかしいと感じたものはなかったけど。」

「いや、さっきの西島の話と同じで、別に本郷がおかしいと感じていなくても、その彼女にとってヤバいものがあったんだよ。

 さっきも、『行動』について謝ったから反応がなかったんだ。何にも見てない、聞いてないっていう自分の『認識』について話したら解決するだろ。」

 桜井は本郷の意見を否定し、真実はこれ以外ないと言わんばかりの、したり顔をした。

 別に、その顔が憎らしかったから、というわけでは断じてないが、まだうんうん唸っている本郷に代わって、僕が待ったをかけた。

「それは、ちょっと彼女…、荒木さんの性格からして考えづらくないか。」

「どういうことだよ。」

 僕に口を挟まれるとは思っていなかったのか、いい気分を邪魔するな、とばかりにすごい顔で睨んできた。童顔なので見た目の迫力はそれほどないのだが、自分で思っていたより先ほどの暴言が利いていたらしい。その視線に若干ビビりつつ続ける。

「その場合、シンクに何か見られたり聞かれたりしちゃいけないものがあったっていうのは、完全に荒木さん側の過失だろ。だって、本郷を家に誘ったのは荒木さんなんだから。例えば、もしそういう物があるのなら家に入れる前に他の場所に隠すとか、色々やりようはあったはずだろう。それなのに、シンクに近づいただけの本郷に対して激怒するっていうのは、今まで聞いてきた荒木さんの性格からして、不自然じゃないか? 」

「それだ。」

本郷がスッキリした顔で同意を示してくれた。荒木さんは人に対して「言いたいことはその場ではっきり言う」性格だが、それは白黒はっきりさせたいということであって、決して嫌味な性格ではない。そして、それは自分に対しても同じであり、自分が悪いと思ったら素直に非を認める一面もある、らしい。

 そんな荒木さんが、自分の過失を棚に上げて本郷に激怒するのは考えづらかった。本郷がうんうん唸っていたのも、直感的に荒木さんがそのような行動をとる不自然さを感じていたからだろう。

 桜井が口をへの字に曲げる。何も言わないが、今の反論で自分の推論の筋が通らなくなったことは認めたようだ。しかし、むかつかなかった訳ではないようで、僕に突っかかってくる。

「じゃあ、そういうお前はどう思うんだよ。」

 三人の視線が僕に集まる。確かに、僕だけが意見を言っていなかった。しかし、正直聞き役に徹するだけで十分だろうと思っていたので、あまり真剣に考えていなかったのだ。今からでも少し考えてみることにしよう。

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