第135話 ヴェルナー邸への訪問者

 コリンナさまのお屋敷――フォルツ邸へお邪魔した翌日の朝、身支度をお手伝いしている私を鏡越しに見ながらビアンカさまが告げる。


「貴女とモニカさんの話じゃ、コリンナはそれほどコンラートさまのお話を嫌がってはいなかったというけれど、本当に大丈夫かしら……。戻ってきたときのコリンナはとても困惑していたように見えたのだけれど」


 頬に手を当てて心配そうに溜息を吐くビアンカさまに、私はニコリと微笑んで答える。


「コリンナさまはハスラーさまにお気持ちを残していらっしゃるのだと思います」

「そうね、本人もそう言っていたし……」

「ええ。だけど好意はあるけど信用はできないという気持ちはよく分かります。いくらユリアさんを思う気持ちが恋情でなかったといっても、あのお茶会のときの二人の様子を見た限りではとても親密そうに見えましたからね」

「ええ……。正直ユリアさんの傍に立っていたのが殿下だったらと思うと、私なら絶望して立ち直れなかったわ……」

「……コリンナさまはコンラートさまのこと、どうされるんでしょうね」


 コリンナさまはこの先どうするんだろう。コリンナさまだけじゃない、他の令嬢たちも婚約者たちと今後どうなるのだろうと、心配になってしまった。


「……多分、何もしないと思うわ。全ては家が決めることだもの。コリンナの話じゃ伯爵の怒りはかなりなものらしいし、あとはハスラーさま次第じゃないかしらね。……もし復縁することになったら、それはそれでコリンナのことが心配だわ」

「そうですね……。あのときのハスラーさまはほんっとうに最低でしたからね」


 反省したといっても何度もコリンナさまを責めて傷付けたのだ。一度失ってしまった信頼は容易には取り戻せないだろう。そしていくら好きでも信頼できない男に自分の未来を任せることができるだろうか。私ならきっとできないだろう。

 どんなに好きでも、暗い未来が待っているとしたら、それは自分にとっても相手にとっても不幸でしかない。そんな未来を迎える可能性があるなら、いっそ離れてしまったほうがいいのではないだろうか。

 ――……あれ。


「どうしたの? クリス」


 不意に考え込んで手を止めてしまった私に、ビアンカさまが不思議そうに尋ねた。


「あ、いえ、少し頭が痛くなってしまって……」

「……クリス、貴女、最近頭痛が頻繁になってきてない? お医者様に診てもらったほうがいいのではなくて?」

「いえ、原因は大体分かっていますから……」


 頭痛の原因はずっと前から分かっている。恐らくではあるけど、私が失った記憶に関する何かに触れてしまったときに酷く痛むように思う。

 先ほど、以前同じようなことを考えたことがあるような気がする、と考えた途端に痛み出したのだ。


「貴女がなくしてしまった記憶のこと?」

「ええ……」


 苦笑する私にビアンカさまが気遣わしげな眼差しを向けた丁度そのとき、部屋の扉をノックする音が響いた。


「ビアンカさま、王太子殿下のご紹介により宝石商の者が参りました。殿下からの紹介状も承っております」


 侍女の説明によると、どうやらフェルディナント殿下がビアンカさまにアクセサリをプレゼントしたいと、この屋敷に宝石商をよこしたらしい。殿下の紹介状があるなら何の心配もないだろうということで、ビアンカさまは宝石商と面会することになった。


(昼食の準備もあるし、あまり長引かないといいんだけど)


 そんなことを考えながら、ビアンカさまについて応接室へと向かった。

 応接室の扉を開けると、宝石商と思われる若者がビアンカさまの姿を見て椅子から立ち上がった。そして私の姿を見て大きく目を見開いた。

 そんな若者の姿を見て、私も驚いて心臓が口から飛び出そうになった。なぜならその商人は、以前刺繍糸を買いに町へ出かけたときに私を追いかけてきた若者だったからだ。


「君は……やっぱりあのときの」


 若者の呟いた言葉で確信した。やはり間違いなかった。若者を見た瞬間から再び始まった頭の痛みが増してくる。

 お互いに驚いたように見つめ合っている様子を不思議に思ったのか、ビアンカさまが首を傾げながら尋ねる。


「貴方たち、顔見知りなの?」

「あ……、お見かけしたことのある方だと思っただけです」


 私がそう答えると、若者は眉根を寄せて悲しそうな表情を浮かべた。そんな若者の表情に驚いてしまった。

 え、話したことはないよね? 私だけ忘れているとか? でも会ったことがあるなら絶対に忘れるわけがない。ひと目見ただけでこんなに胸が高鳴る人のことを。


「君はなぜ……」


 若者が何かを言いかけて口を噤んでしまう。とても平静でいるとは思えないような若者の様子を見て、ビアンカさまが尋ねる。


「あの……貴方はこちらにいらっしゃるのも初めてですわよね? 殿下のお知り合いの宝石商だと伺っておりますが、クリスとは一体どこで?」


 若者は真剣な表情でビアンカさまのほうを向いて答える。


「これは、失礼しました、ヴェルナー嬢。お初にお目にかかります。私はアルフォンス・ルーデンドルフと申します」

「アルフォ……。いえ、まさかそんな……」


 ビアンカさまが驚いたように目を瞠ってそのまま言葉を失ってしまった。恐らくあまりにも聞き覚えのあるその名前に、まさかここにいるはずがないと混乱してしまったのだろう。

 そして私はというと、頭痛が一層酷くなってきた。街で初めて会ったときから、目の前にいる若者の姿を見るとどうしようもなく胸が騒ぐのだ。

 若者が名乗った名前には私自身も聞き覚えがあった。アルフォンス・ルーデンドルフ――隣国であるルーデンドルフ王国の王太子であり、『恋パラ』の攻略対象者でもある。

 だけど腑に落ちない。目の前の若者はかなりの美青年だが、私の記憶の中のアルフォンスのスチールとは髪の色も面立ちも違う。同じなのはアメジスト色の瞳だけだ。混乱のあまり思わず呟いてしまう。


「アルフォンス……殿下とは容姿が……」


 私の呟きを聞いて、「ああ」と何かに思い当たったように、若者は首にかけていたペンダントを外した。

 すると驚いたことに、若者の姿は確かにゲームに登場していたアルフォンス殿下――銀髪とアメジストの瞳の美しい王子へと変化したのだ。


(ああ、アルフォンスさまだ……)


 心の中の呟きは、前世でゲームをプレイしていたOLとしてのものだったのか、よく分からない。なぜならその名前を聞いたときに無性に泣きたくなってしまったからだ。

 確かにアルフォンスはゲームの中で一番の推しだったけど、胸が締め付けられるようなこの激しい感情は何なのだろうか。若者――アルフォンス殿下に見つめられると、魂が震えるような気すらしてくるのはなぜだろうか。


「なぜルーデンドルフ王国の王太子殿下であらせられる貴方さまが我が家へ?」


 人見知りで臆病なビアンカさまが、すっと背筋を伸ばして私を背中に庇うようにしてアルフォンス殿下に尋ねた。


「……まずは謝罪をさせてください。宝石商と偽ってこの屋敷を訪問してしまったこと、申しわけありません」

「いえ、何か理由がおありなのでしょう? どうかお顔を上げてください」


 頭を垂れるアルフォンス殿下に、ビアンカさまが慌てたように声をかけた。


「お心遣い、感謝します。表だってこちらを訪問するわけにはいかなかったものですから。ちなみにフェルディナント殿下の紹介というのは嘘ではありません。彼に全てを打ち明けたところ、快く協力を申し出てくださいました」

「協力とは?」

「私はそちらにいるクリス嬢を迎えにきたのです」

「クリスを……?」


 ビアンカさまが戸惑いながら私のほうへ視線を向けた。私はそんなビアンカさまに向かってフルフルと首を左右に振った。

 私には何も答えられない。私も何がなんだか分からないのだから。


「クリス嬢……いや、ルイーゼ。君はなぜクリスと名乗っているの?」


 ――ルイーゼ


 アルフォンス殿下の口からその名前が出た瞬間。アルフォンスさまの優しい声でそう呼ばれた瞬間。

 ずっと頭の中で暴れていた何かがすっと収まって、割れそうなほど酷かった頭の痛みが嘘のように引いた。その代わり鼻の奥がツンと痛んで、目に映っていた景色が歪んだ。気付けば私は目にいっぱいの涙を溜めていたのだ。

 溜まりきらなくなった涙が、とうとう私の目からひとしずくぽろりと零れて落ちた。

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