第51話 ルイーゼの怪我 (アルフォンス視点)
モニカがクッキーを持ってきた翌日の放課後、アルフォンスは教室の窓の外を見ながらルイーゼのことを考えていた。モニカとともにルイーゼが製菓クラブに在籍していることを、今日顧問のリーグル先生に確認した。モニカに至っては全くクラブには顔を出していないらしい。
今日得た情報と昨日までの状況から推測する。オスカーが執務室へ持ってきたクッキーと昨日モニカが持ってきたクッキーは同じ人物が作ったものだ。オスカーの家の料理人が作ったクッキーをモニカが持ってくるはずがない。逆に考えると、モニカが製菓クラブで貰ったクッキーを、オスカーは家から持ってきたことになる。そして夢の中の……ルイーゼのバニラの香り……。
「オスカーの屋敷にいる製菓クラブ部員といったら一人しかいないよな……」
クッキーをルイーゼが作ったと仮定して、なぜ隠す必要があるのか。やはりルイーゼが婚約者候補に選ばれないようにするためなのか。周囲に聞こえないほどの小さな声で独りごちていると、教室に来ていたオスカーに話しかけられた。
「殿下、どうしたんですか? 何か悩み事でも?」
「いや……。最近ルイーゼ嬢を見かけないけど頭は大丈夫なのかな?」
アルフォンスの脳裏に遥か昔の記憶がふっと蘇る。十二才のときにオスカーの屋敷を訪ね、薔薇の咲き誇る庭を見て回った。アルフォンスはすでに襲撃者の憂き目にあってはいたが、そのときはまだ薔薇が嫌いではなかった。かといって特別好きというわけでもなかったが。
『どうですか? とても綺麗でしょう?』
『本当だ。とても綺麗な薔薇だね』
エメラルドグリーンの目を細め、花が咲くような無邪気な笑顔をアルフォンスへと向ける少女、ルイーゼ。初めて会ったときの恥じらう表情に心惹かれた。可憐で無垢で表情がくるくると変わるルイーゼをもっと知りたいと、ルイーゼの笑顔をもっと見たいと強く思った。ルイーゼの問いにルイーゼが喜ぶであろう答えを告げると、柔らかな蜂蜜色の金髪を揺らしながら嬉しそうに顔を綻ばせてアルフォンスに告げた。
『一本差し上げます』
アルフォンスよりもまだ遥かに体の小さなルイーゼは、無防備にも薔薇の茂みにか細い手を突っ込み無理矢理バラを手折ろうとした。自分のために無茶をしてくれたのが嬉しくはあったが、薔薇の棘で傷ついたルイーゼの指の血を見たときに焦ってしまった。怪我をさせてしまったと。
アルフォンスはすぐさまルイーゼの手を取り血を止めるべく指を咥えた。ルイーゼはそれを見て驚いたように目を丸くし、真っ赤になっていた。アルフォンスの行動がルイーゼの頬を染め、動揺させたであろう事実に胸が高鳴る。
そしてルイーゼがアルフォンスのために傷を負ってまで薔薇を手折ろうとしてくれた行動が、心から嬉しかった。ルイーゼからは純粋にアルフォンスを喜ばせようとしてくれる気持ちが伝わってきたからだ。これまでアルフォンスから何かを奪おうとしても、喜びを与えようとしてくれた者は一人もいなかったのだから。
ルイーゼの心に入り込みたい。そんな気持ちもあったのだろう。指を咥えるなど行きすぎた行為だと分かっている。だがこの行為でルイーゼの心の一部に自分を刻み込みたいという衝動に逆らえなかった。
アルフォンスはあのときルイーゼに対して初めての感情を抱いた。まだ決して大きくはなかったが、胸に芽生えたばかりの未知の感情は小さくとも確かに存在したのだと思う。十四才のときルイーゼが婚約者候補に選ばれ、それを無意識に喜んでいる自分に気付いた。
だが初めての感情に名前を付ける前に見えない場所へと封じ込めてしまう結果となる。再会した彼女は素顔が分からないほどに様変わりしていた。アルフォンスを襲った女たちと同じような派手な外見へと変わり、きつい薔薇の香水を纏っていたのだ。変わってしまったルイーゼに会わなければよかったと思った。アルフォンスはそのときに初めて薔薇を嫌いになったのだ。
幼いころに芽生えた感情を閉じ込めてから、ルイーゼのことをなるべく見ないようにしていたし、考えないようにしていた。ルイーゼの姿を見て、変わってしまったことを再認識するたびに胸が苦しくなるからだ。
だが明らかにルイーゼが転倒して頭を打った日から様子が変わった。転倒した直後、一瞬素のルイーゼが見えた気がした。あのときはすぐに気のせいだと頭の隅に追いやったが、ルイーゼが助けてくれた事実を知ってから何かが引っかかる。
「頭のほうは傷もなかったようですし、屋敷に戻ってきたときはぴんぴんしていたので大丈夫だと思いますよ。姉もいろいろと忙しいのでしょう」
やはりオスカーはルイーゼの怪我を隠そうとしている。あれから調査してルイーゼが酷い怪我を負っているということも突き止めた。本当に可哀想なことをしてしまった。
夢の中でアルフォンスに差し伸べられた優しい手と仄かなバニラの香りはルイーゼのものだ。危ないと叫んだのもルイーゼだ。クッキーの実情はまだ掴めていないが、階段から転落したのを助けてくれたのがルイーゼだったということだけははっきりしている。
自分を遠ざけようとしていたアルフォンスを身を挺して庇い、ルイーゼは大怪我を負った。その事実からもルイーゼがアルフォンスを大切に思ってくれていることが窺える。
一体今までルイーゼの何を見ていたのだろうか。再会してルイーゼの姿を見たときに、アルフォンスが恋心を抱いたルイーゼはいなくなってしまったと思った。派手な外見ときつい香水があまりに襲撃者たちと重なってしまったために、反射的に嫌悪してしまったのだ。
だが外見が変わったことが、ルイーゼそのものが変わったことになるのか。外見というフィルターで肝心なものが見えなくなっているだけではないのか。次々と湧き上がる疑念が次第に明確な形となっていく。そしてルイーゼの真実を何としても確かめなければいけないと強く思った。
「ふうん、そうか。まあいいや。それよりも今日君の屋敷へ行きたいんだけど、いいよね?」
「ああ、何か用事があるんですか? 今日僕は一週間後の試験へ向けて、試験勉強に集中したいんですが」
「そっかぁ。用事はあのクッキー……ほら、オスカーが執務室に持ってきていたあのクッキーだよ。あれ美味しかったから君の屋敷の料理人に作ってもらえないかと思ってね」
「明日、学園へ持ってきますよ。殿下がわざわざ屋敷に足を運ぶこともないでしょう」
オスカーの表情に動揺は見えないが、今まで一度も訪問を断ったことなどないというのに。オスカーの言葉からは屋敷へ来てほしくないという明確な拒絶を感じる。ここは本心を悟られないよう強引に押し通すか。
「んー、オスカーの屋敷へ行くのも久しぶりだし、君の父上にも会いたいしね。まあ行くよ」
「分かりました。時間は何時ごろに?」
「君が帰るときに一緒に伺うよ」
渋るオスカーから約束を取り付けた。クッキーを作ったのが誰か半ば確信はしているものの、やはり真実を確かめたい。今日オスカーの屋敷でその願いが叶えられるといいのだが。そう思いながらオスカーとともに屋敷へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます