#6 テンペスト
「どこだ! 姿を現せ!!」
廃ビルの中を、フェリックスを探し歩いていたルートヴィヒは、ふとある角を曲がったところで不審な影を目の端に捉えた。
その影は、廊下の先の角をすぐに左折し、姿が見えなくなってしまった。
「エリーゼ……?」
多少、ヤツの罠かと疑念はよぎったが、何故かその時は後を追わずにはいられず、急いでその女性の影を追いかけた。
角を曲がると、影は、向かって左側に並ぶ部屋のうちの一つに、扉をすり抜けて入って行った。
影が消えていった部屋の扉を開け、勢いよく前転をしながら中へ進入すると、起き上がりながら膝立ちの体勢になり、視線と銃口を前と左右に振った。しかし、そこには誰もおらず、ルートヴィヒはゆっくりとその場で立ち上がった。
部屋の中は荒れ放題で、尚且つ物は大きめのデスク以外何も残されていなかった。
静かにデスクまで近づきその物陰も見てみたが、そこにも人はおろか虫一匹すらいなかった。
「なんだ、また妻の幻覚でも見たか……」
彼はそう呟いた直後、突然背後に気配を感じて、慌てて銃を構えながら振り返った。
「な……エリー、ゼ……」
そこにはなぜか、彼の妻エリーゼの姿があった。彼女は口元に右手人差し指を当て、左手で銃口を下へ下へと下げていく。そのまま彼に接近すると、静かにゆっくりと腰を落とし始めた。つられてルートヴィヒもゆっくりとしゃがみ始める。
(コッ、コッ、コッ……ガチャッ)
何者かがルートヴィヒのいる部屋の前まで来ると、唐突にドアを開け放った。あまりにも急に現れた来訪者だったので、ルートヴィヒは心臓がドキリと鳴った。
一方急な来訪者は、何事も発さず、しばらくすると「フンッ」と鼻を鳴らしてどこかへ去って行った。
足音が完全に遠ざかったのを確認して、ルートヴィヒは大きく息を吐いた。額にかいた大量の冷や汗をぬぐうと、閉じた目を開き前を見た。しかし、そこには誰もおらず、立ち上がって部屋を見回しても、自分以外誰もいなかった。
「エリーゼ……君は、私を……?」
この廃墟の中で一番大きなホールに、男の姿があった。
「せっかく誘き出したというのに、奴め、怖気づいたか」
「見つけたぞ、フェリックス!」
唐突に名を呼ばれ、徐に振り返ると、そこにはルートヴィヒの姿があった。
「なんだ、また貴様か。しつこいな、ストーカー癖でもあるのか?」
「ストーカー癖? てっきり、追われるのが趣味かと思ってたな」
「なるほどおもしろい。まだまだ余裕がありそうだな――ベートーヴェン」
「っ! おい、その名で私を気安く呼ぶな! 人の姿を借りた化け物め」
フェリックスの挑発に乗り、眉間にしわを寄せ、改めて強く銃を握り構え直すルートヴィヒに、やや嘲笑気味にフェリックスが言葉を返した。
「“化け物”? それを言うなら化けているのは君も同じじゃないか。警察官ではないのに警察官と偽り、偽の捜査協力で日本の警察官を巻き込んで自分の贖罪を果たそうとしているじゃないか……なぁ、知っていたかい。後ろのお嬢ちゃん」
フェリックスがルートヴィヒの背後に視線を投げ、「お嬢ちゃん」と声をかけた。ルートヴィヒは、まさか、と目を見開き、ハッと後ろを振り返った。そこには驚きと疑念の目でこちらを見つめる、福田カノンの姿があった。
「な、なぜ、ここにいる」
「ルートヴィヒさんが心配で、来ました」
「ククク……、来てほしくなかったのか? 来てほしいわけないよなぁ。自分のついてきた嘘がばれるのは嫌だもんなぁ」
「黙れ! もういい。これ以上お前とお喋りをするつもりはない。ここで死ね……!」
ルートヴィヒが引き金に指をかけた、その時である。フェリックスが上着のポケットから何やら小さな黒い箱を取り出した。それには赤い突起がついていて、まるで何かのスイッチだった。
「まぁ落ち着け。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」
「な、なんだそれは……」
「すべてを終わらせたくないか? 妻を亡くした、この地で」
「ルートヴィヒさん、どういうことです?」
福田はルートヴィヒに声をかけたが、反応はなかった。ただ、銃を持つ手が小さくカタカタと震えていた。
「きっとそうだろうと思って、舞台を整えてあげたよ。どうだい、気の利いた善い(よい)人間だと思わないか。いや、むしろ神と言って良い。抗わず、有り難く神の御施しを受けろ」
「…………くそったれ、思い上がるな。貴様はただの化け物だ。神にはなりえない」
ルートヴィヒが男を睨むと、男は愉快そうに「ハハッ」と笑い、またしても福田に話しかけ始めた。
「彼の奥さんは、エリーゼはここ日本に旅行に来ていたのさ。本当は、そこにいる男と一緒に来るつもりだった。だが、彼は仕事を優先したんだ。だから、彼女は一人だった」
「急な仕事が入ったんだ! その日は無理だと断った。だが断りきれず、結局日本への出発を一日ずらしたんだ。しかし、それでも次の日の朝には、妻に、エリーゼに会えるはずだったんだ! それをお前が! お前さえいなければ!」
「他人(ひと)のせいにするな、ベートーヴェン。貴様が側にいなかったのが悪いのだろう? 貴様が側にいれば、彼女は守れたかもしれない。私のディナーにも、ならなかったかもしれない」
とても残念だ、と言わんばかりに切なそうな表情を浮かべるフェリックスに、怒りを抑えきれず震えるルートヴィヒ。呼吸は荒くなり、目は赤く充血していった。
「ルートヴィヒさん!」
「さぁ、私を撃て。撃ち殺せベートーヴェン。だがいいか? 私が今手に持っているスイッチは、反動式の起爆スイッチだ。親指で押さえている今は作動しないが、親指の支えがなくなればバーが下りて作動する。つまり私の意思か、君の行為、どう転んでも結果は同じ。君の奥さんが亡くなったこの地、この場所、このホテルで、全てを終わらせようじゃないか」
「ホテル……?」
「あぁ……あぁ、そういうことか。すぐに気付けなくて悔しいよ。こんなにも荒れ果ててしまって。お前は、ここで私の妻に会ったんだな……。私の妻だと知ってて近づいたお前は自室に連れ込んで襲い……それから……それから、喰い殺したんだな……」
「君ならすぐに気付いてくれると期待していたんだがな。期待外れで残念だ。関係のない人間まで巻き込むことになったが、仕方ない。共に灰になろう」
「やめろ、フェリックス!!」
「待って!!」
ルートヴィヒと福田が制止するのも構わず、フェリックスは親指をずらした。スイッチ本体についた赤い突起が勢いよく「カチッ」と音を立てて下り、辺りに沈黙と緊張が走った。
数秒間、いやもっと長かったか、ルートヴィヒと福田は沈黙のまま状況を見たが、しかし何も起こらなかった。フェリックスはゆっくりと閉じていた目を開いた。そして徐々に怒りが現れ始めた。
「なぜだ、なぜ、爆発が起こらない! なぜ作動しない!」
「何が起きているんだ?」
「あ、まさか!」
福田には一つ、思い当たる節があった。と言うより、大方それが答えだろうとも言えた。
すると、その答えの主が慌てた様子で現れた。
「おい! 福田、ルートヴィヒ! 大丈夫か!」
「先輩!」
「アンドー!」
そう、その正体は福田と別れて動いていた安藤だった。
「この階と一つ下の階に爆弾が仕掛けてあった。だから急いで特殊部隊を呼んで解除させた。……ところで、あいつが例のフェリックスって奴か?」
「そうだ、とにかく、二人は下がれ。これ以上は危険だ」
ルートヴィヒが二人を後ろに下がらせようと、左腕を伸ばして押そうとした時だった。フェリックスが怒りにまかせて持っていたスイッチを地面に叩きつけた。
「このぉっ!」
(ガシャッ!)
「危険? 上等じゃねぇか。第一、爆弾を見つけて解除させたのは俺だぞ?」
「そ、それなら私だって、タオルケットかけてあげたじゃないですか」
「し、しかし……」
ルートヴィヒが当惑しながらもう一度フェリックスを見ると、そいつの身体の周りを黒いオーラのようなものがグルグルとうごめき、そいつの身体自体も、形の輪郭が崩れ、煙のような姿になりつつあった。
時折獣のような太い唸り声を発しており、それは奴が化け物に変化(へんげ)しつつあることを示していた。
「ほら、早く!」
「グワァァァァァッ!」
完全に変化したフェリックスは、その四肢を大きく動かして、猛スピードでルートヴィヒたちに向かってきた。
「シャイス!」
ルートヴィヒが何発も銃弾を撃ち放つが、例え当たっても貫通しているのか、どうも手応えが感じられない。なにより、相手の勢いが落ちないのだ。
「なにっ!?」
あっという間にそれは三人に迫り、ついに飛びかかろうとフェリックスの躯体がはねた。
するとその時だった。不思議な現象がルートヴィヒを襲う。なんと、周りの動きが止まったのだ。
この現状に戸惑っていると、突如エリーゼがルートヴィヒの横に現れ、そっと彼に寄り添ってきた。
「これは、一体どういうことだ?」
「どうもこうもないわ。あぁ、生きて会いたかった。ベートーヴェン」
「私もだ、エリーゼ。ただ、きっと君は、怒っている」
「えぇ、怒っていた。でも……恨んではないわ。だって、恨むべきは貴方ではないから」
ルートヴィヒは、何を言えばいいのか整理できずに、ただ無言で見つめていた。そしたらエリーゼが「ふふっ」と笑った。
「ううん、そう、違うわね。怒ってはないわ、この件に関して。怒っているけれど、それはあなたが、私と同じ日に日本へ一緒に行けないことを、謝る前に言い訳したから。だから怒ってる。だけど、そう、それだけ。それだけよ」
「そんな、エリーゼ。すまない」
「いいの。でも言えてよかった。きっとあなたは、全てを後悔していると、悩んでいると思ったから。側にいれなかったこと、守れなかったこと、一緒に行けなかったこと。一緒にいる時間を、愛を語り合うささやかな日々を作れなかった、過去の自分を」
「当然だよ。エリーゼ……」
「でもこれで終わり。今日、この日、この時から以前のことは取り敢えず終わりにしましょう。無かったことにはならないけれど、いつまでもそこに生きる必要はないわ」
ルートヴィヒの頬をつたう涙をそっと指で拭うと、エリーゼは微笑みながら彼の銃を持つ手に左手を添え、そのままゆっくりと上にあげて、銃口を真正面に、フェリックスのちょうど胸の位置に向けた。そして、ルートヴィヒの右肩から右手を回し、彼の右頬にそっと触れ、彼と共に銃口の先を見据えた。
「誤算だったな、フェリックス。永遠よりも長い沈黙を。これが運命だ」
(パァァン!)
辺りに乾いた銃声が響いた。
福田と安藤は目を見開いた。そこに化け物はおらず、いるのは心臓を一発で撃ち抜かれ、驚きに目を見開き、混乱と痛みで顔をひきつらせながら、一歩、また一歩とよろめきつつ後ずさりしていくフェリックスの姿。そして、憑き物が取れたような表情で真っ直ぐに立つルートヴィヒの姿だった。
間もなく、後ずさりするフェリックスの動きが止まり、天を見上げて後方へバタリと倒れ込んだ。何故か一向に血は流れず、ただひたすらに沈黙があった。
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