#4 追憶

 生まれながらにして、何故この世に生を受けたのか、自分は何者なのか、それが分からなかった。気がつくと私は大きな木の下で横たわっていた。青々と茂った木々の間を、サラサラと風が通り抜けていった。

 自分が以前、作曲家をしていたと言うのを思い出したのは、それから間もなくのことだ。

 母は体が弱く、特に肺が良くなかった。そして父は極度の大酒飲みで、家族の誰も目があてられなかった。

 挙げ句の果てに父は私に手をあげた。耐えきれなくなった私は、母や弟たちには悪いと思ったが、飛び出すように家を出た。

 作曲家をしていたという記憶はうっすらあったが音楽の道に興味はなく、私はただ何となく大学に進学した。

 そこで、後の妻となる、エリーゼと出会った。


「あの、この前の哲学の授業でも一緒じゃなかったでした?」

「あ、確かにそうですね。奇遇だなぁ」

「えぇ、ほんとに。あたし、エリーゼ。エリーゼ・ローゼンハイム。あなたは?」

「エリーゼさん、よろしく。自分は、ルートヴィヒだ」

「んー、ルートヴィヒ……?」

「ルートヴィヒ……ヴァン・ベートーヴェン」

 私が初めて彼女に自己紹介したとき、とても恥ずかしく、そして緊張した。それは彼女が可憐で可愛らしく、美しかったからではない。もちろんそのどれも彼女のためにある言葉だと思っていたし、今でも勿論そう思っているが、本当にそれが理由ではない。

 当時は今とは違った意味で、自分の名が嫌だったのだ。

「ベートーヴェン。良い名前じゃない」

 私は正直驚いた。彼女は、エリーゼはそう言っただけで、それ以上のことは一切言わなかったし、オーバーに反応することもなかった。ただただ率直な感想を述べただけ、それだけだった。

「……それだけ?」

「え、なにが? もしかして、もっと驚いたり騒いだり、反応してほしかった?」

「いや、全然。むしろ有り難かった」

「有り難かった」

「そう、有り難かった。ただ」

 その時自分は、驚くほど素直に、彼女に思ったことを吐き出していた。

「今までは、この名前を言うと驚かれたり、囃し立てられたり、馬鹿にされたり、本当にもう、名前を言うだけで散々だったから。自己紹介をしなくちゃいけない場面になったら、誰よりも早くその場から消えたい、逃げ出したいと思うほどに嫌な気分になってたんだ。でも、君は笑わなかった。それだけで自分は、とても救われた」

 彼女の眼を見て思いを伝えると、彼女はサラサラとしたそのセミロングに切られたきれいな髪をキラキラと揺らしながら笑った。

「なにそれ、なんか大袈裟」


 最初の出会いは少し不思議だったが、そんな自分たちの仲が深まっていくのに時間はかからなかった。

 大学卒業を機に、自分とエリーゼは結婚した。だが、予てより実家に残した弟たちや母のことが気がかりであったし、自分の今後における財政面でも心配があったので、当時この国で、給与面でも待遇の面でもよかった刑事の仕事に志願することにした。

 多少の波風はあったものの、それでも大きな問題もなく、自分たちの幸せな日々は続いていた。そしてこれからも、続いていくのだと信じ切っていた。


「すまない。明日は君一人で日本に行ってくれないか」

「どうして? 一緒に旅行に行く約束だったでしょ?」

 結婚して何年たった頃だったろうか、結婚記念日ということで、数日休みを取って旅行に行く計画をしていたのだ。

「あぁ、だけど、急な仕事が入ったんだ」

「急な仕事って……」

「俺もどうしても無理だと断ったんだが、もともと俺が追ってた山だったんだ。それでもどうにかして妥協してもらったんだ。一日、いや、半日遅れてでも必ず向かう。だから——」

「えぇ、いいわ……わかった。仕事、頑張って」

 これが最後の彼女との会話になった。今思えば待たしてでも一緒に行くべきだったか、それとも仕事を断ってしまえばよかったか。どちらも正解に思えるし、どちらも違うようにも思える。

 そしてその日が、奴と私の因縁の忌まわしき始まりとも言える。

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