第10話 ドグラ・マグラ

穏やかな午後、事務所内。いつものように、呉モヨコは首に巻いた赤い紐で首吊り死体のように天井からぶら下がり、休憩時間を謳歌していた。そしてその姿勢のまま、モナリザみたいに理想的な微笑を浮かべ、花市に話しかける。


「桃香ちゃん、独りで行かせてよかったのかい? いくら武道ができたって、あの子はまだ雛鳥だぜ」

「問題ねえよ。輩はあいつを殺したと思い込んでるはずだ。死人殺そうとする奴がどこにいんだよ」


桃香は一度犯人の毒牙にかかり、死の淵に立った。いつ攻撃を受けたかもわからないほどの隠密性と、高い致死性を兼ね備えた血統。だが、だからこそ、犯人は攻撃した時点で桃香が死亡したと思い込んで、探そうとすらしてない可能性が高い。

そう考えたこともあって、花市は個人での外出を許可したのだ。


「だから撒き餌にして犯人を炙りだそうってわけかい。酷いねえ、見つかったら殺されちゃうかもしれないのにさ」

「いらねえ心配だな。殺したはずの人間が生きてたんだぞ? あれだけ周到な輩だ、必ずしばらくは様子見をする」

「冴ちゃんは? 念のため護衛につけてあげたらよかったのに」

「てめえわかって言ってんな? あいつはあいつでやることあんだよ」


モヨコはことごとく論破されてなお、気味の悪いくらいに理想的な微笑を途切らせない。まるで、花市をからかうことが主目的のようだ。


モヨコは表情はそのまま、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「やれやれ、きみには負けたぜ。木綿ちゃん」

「その呼び方はやめろっつってんだろ。ぶっ殺すぞ」

「殺してみなよ。ぼくが殺せたら、神だって殺せるかもだぜ?」


モヨコはそう嘲ると、顔を近づけ、花市の瞳をじっと覗き込む。いつも静かに沈んでいる瞳は、そのとき一瞬だけゆらぎを生じた。


動揺が、そこにあった。ほんのわずかであったけれども、しかし確実に。


花市は舌打ちして、「その理屈が通るなら苦労はしてねえんだよ」と吐き捨てると、事務室の電気を消して出て行った。


「……さて。頼みの綱ジョーカーはきみだぜ、憂里ちゃん」


暗い部屋の中で呉モヨコは独りごち、そのまま闇に溶け去った。



一方。

桃香は特に危ない目に遭うこともなく、駅前のカフェにたどり着いた。ここまで全力で走ってきたつもりなのに息が切れていない。入院前よりも明らかに体力が上がっている。


店内に入ると奥に明美の姿が見えた。急いで近づき、待たせたことを詫びて向かいの席に座る。明美は少しだけ不機嫌なような、心配しているような、妙な感じでそわそわしていた。

「それで桃香、昨日はなにがあったの?」

「変な人に追いかけられて、危なかったからバイト先に泊めてもらったんだ」

「……ふーん」

ぼかしてはいるが嘘はついていない。これ以上は言えないけれど、最低限ちゃんとした説明にはなっているだろう。桃香はそう自己評価したが、明美は訝しむような目でこちらを見る。


「桃香、バイトやってないんじゃなかったっけ」

「退院と同時に始めることに決まってたんだよ」

「何のバイトなの?」

「古い壺とか絵とか売る仕事だよ」

「古物商ね。どんな人がいるの?」

「金髪メガネの怖い美女と、昼間からお酒を飲むお姉さんと、日本人形みたいな女の子」

「え、意外。若い女の人ばっかなんだね。そういうイメージないな」

「あはは……」


誤魔化し続けるのも気まずいので、アーモンドパフェとコーヒーを注文しつつ、話を逸らす。

「走ってきたからかもうおなかすいちゃった。さっき牛焼肉弁当食べたのにね」

そう自虐しつつ苦笑してみせるが、返ってきたのは「桃香、今日変だよ」という言葉。

どういう意味だろう、と表情が固まってしまう。


明美は押し黙って、じっと桃香の顔を見て、それからゆっくりと口を開く。


じゃん」


ぞっとした。背中に冷水を流し込まれたような感覚。


「なんとなく噛んだかんじが苦手だけど、みんな好きだから言い出しづらいって、そう言ってたじゃん」


恐ろしいのは、確かに言った記憶があるということだ。それなのに、今の自分は牛肉が好きだと認識しているし、先ほど実際に美味しく頂いた。過去に嘘を吐いたとは思えないし、なによりそんな嘘を吐く理由がない。


本当に、理解ができない。

動揺した気持ちを落ち着けようと、アイスコーヒーを飲む。


苦い。苦い。苦い。


なんとか飲み込んだものの、ブラックではとても飲めそうになく、シュガーを入れることにする。


「……いつもブラックで飲んでるのに」


ぼそりと明美に指摘され、桃香の顔は青ざめる。確かにそうなのだ。桃香は甘いものとブラックコーヒーを交互に食べては飲みするのをなにより好んでいた。そういう記憶がある。


味覚が変わった? 本当にそれだけか?


自分を心配そうに見る明美の目が返って恐ろしくて、安心したくて、アーモンドパフェをスプーンでとる。


鼻先まで近づけて、嫌な予感が全身を走った。。そう本能が拒否している。


それでもなんとか微量を口に入れ、飲み込む。……と、口の中に違和感を感じる。


歯茎が痛い。喉の奥が、舌が、耳の中が痒い。炎症反応のような熱さを口腔内に感じて、むせてしまう。


明らかに、アレルギーだ。アーモンドにアレルギーは持っていなかったはずなのに。


焦りつつそれを伝えると、明美は俯いてしまった。

「君、手術してから変だよ。間違いなく桃香なんだけど、違う色が混じったっていうか……」


言われてみれば、退院直後の昨日、今日と自分には妙なところがある。あまりにも適応が速すぎるのだ。


奇妙な怪物と戦い、異能を目にし、自分の死がすぐ底に迫り……。普通の大学生である桃香にはどれも圧倒的な非日常であるはずにもかかわらず、恐怖を感じこそすれ、すぐに理解し順応することができた。


桃香は田舎生まれゆえの度胸と図太さ、勝負勘を持ってはいたが、ここまでの飲み込みの速さは元々なかった。明らかに、おかしい。


「もしかして、手術のせいなのかな……」

桃香は震えた声を漏らす。交通事故で入院し、臓器移植手術を受けたあの日、自分は変わってしまったのか。

明美は不思議に思う桃香を黙って見つめていたが、何か思いついたのか、ぱんと手を打った。

「若林さんに聞いてみよ。あの人ならなにか知ってるかも」


若林正樹。桃香が入院中いちばん仲良くなった看護師だった。若林は明るく物腰柔らかい男性で、桃香が挫けそうなときには支えてくれたし、リハビリにもたくさん協力してもらった。他愛もない話にも乗ってくれる人だったし、一応医療関係者だから、与太でも訊いて問題ないかもしれない。


「でもわたし、若林さんの連絡先知らないよ」

「私が持ってるからあげるよ」

明美はさらりと言ってのけ、すぐに桃香へ連絡先を送信する。若林も仕事中なのだから連絡先交換などよくないと思ったが、聞けば勤務時間外に街で会ったのだという。抜け目ない子だ。



桃香は若林に「牛久保桃香です。入院中はお世話になりました。ちょっと伺いたいことがあって、臓器移植で嗜好や性格、体質が変わることってあるんですか?」とメッセージを送った。


すると勤務時間外だったのかすぐに既読がつき、「記憶転移のことかな」と返信がきた。


「実際に、臓器移植でドナー元のアレルギーがうつることはある。嗜好も転移するなんて話もあるけれど、科学的には証明されてはいない、あくまで俗説だね。ただね、こんな言葉があってね、『脳髄は物を考える処に非ず』。夢野久作のドグラ・マグラって小説の一節なんだけど、それによると人間の記憶や思考は細胞ひとつひとつが行なっていて、脳はその思考を統制してるだけに過ぎないらしいんだ。もしそうなら、臓器移植で記憶が転移してもおかしくはないよね」


若林からのメッセージは概ねそのような内容だった。


自分の疑念に裏付けがついてしまった。

そして、その仮説を真であるとするならば、もうひとつの仮説が成り立つ。


なぜ憂里の部屋に入ったとき、既視感と懐かしさとを感じたのか。なぜ花市場での仕事という非日常にすぐ順応できたのか。


それは━━。


桃香は冴にメッセージを送る。

文面は、「憂里さんってアーモンドアレルギーでした?」

十分程固唾を飲んで待って、帰ってきた返信は、

「そうだけど……なんでそんなこと聞くの?」


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