第7話 赤の追憶

暗い意識の水底で、赤の女王は夢を見ていた。それは古い過去の記憶で、夢というよりは追体験というほうが的確な表現かもしれない。赤の女王がまだ赤の女王でなく、どこにでもいる少女に過ぎなかった頃の記憶。舗装すらされていない地獄の僻地で生き延びてきた、その悪夢を、彼女は再び味わっていた。


……それは火傷跡のように、目蓋の裏に焼き付いた、一面に咲き乱れる赤。無縁仏に、彼岸花。生き残るのは、私だけ。


彼女は物心がついた頃から地下街で生活していた。というのも、彼女の母がホームレスであったからである。それどころか、母子ともに戸籍に記載されていない人間だった。それゆえにまともな仕事にもつけなければ社会保障を受けることもできず、母は幼児を抱えて、雨や夜霧をしのげる地下街で生活するしかなかった。


彼女は名を緋色といった。戸籍がないので本当のところはわからないが、少なくとも母にはそう呼ばれていた。由来は彼女の燃えるような赤毛だそうで、母はよく、彼女の頭を切なげに撫でては、「緋色の髪はお父さんの遺伝なのよ」と言った。そうして、父親は北欧とのハーフで、良家の生まれなのだと、本当か嘘かもわからないようなことをつけたした。幼いながらも聡明な緋色が「じゃあ、どうしてわたしたちはここで暮らしてるの?」と聞くと、母は決まって、「あなたが1歳になる頃に、二人揃って鬼神様にさらわれたからよ」と答えにもならないようなことを言うのだった。


元々は裕福な家庭で暮らしていたのだ、と母は夜になると幼い緋色にうわ言のように繰り返した。それが突然存在をなかったことにされて、居場所もなにもかも奪われてしまったのだ、と悪夢にうなされるように語った。


緋色は、母が情緒的に不安定であることから虚言なのではないかとも思っていたが、後に他人から聞いたことによると母は確かに一般以上の教養を備えた女性であった。それに実際、その子である緋色も母の教育によって、地下街の子供にあるまじき教養を身につけていたのだった。


早熟な緋色は、3歳になる頃には、収入の不安定な母を助けるために盗みを覚えた。地下繁華街や地上を練り歩く大人に屈託ない笑顔で愛想よく近づいては、教養を活かして冗談を交えつつ会話し、隙を見つけて財布を盗んだ。しかし、それを母にそのまま伝えるとこっぴどく叱られるので、緋色は決まって「これでかわいい服を買いなさいって言われた」と偽って金銭のみを渡した。教養はあるがどこか頭の足りないところのある母は、それで納得して「緋色はクォーターで、綺麗なかんばせをしているからね」と機嫌良く緋色の頭を撫でるのだった。


幼い緋色は、自分はこの人をずっと助けて生きるのだろう、と、そう思い込んでいた。


緋色は5歳のある日、いつものように盗みを働いたあと、母のいる廃墟に帰ると硝煙の香りがして、知らない男のそばで母が血を流して倒れていた。悲しい、辛いよりも先に頭が真っ白になって、体も動かず呆然としていると、男に銃口を向けられた。


どうしようもなくて、目を閉じた。動き回ったほうが外れる可能性が上がるのだろうが、そんなことを考える余裕は、いつもならともかく、その瞬間は全くなかった。それに、どうせ脚は痙攣したように震えて動かないのだ。


が、銃声の代わりに獣の唸り声が聞こえて、男の絶叫が響き渡る。


何が起こったのかと目を開けると、二足歩行の犬のような化け物が男を喰らっていた。緋色が目を白黒させていると、化け物はこちらを向いて「もう大丈夫だよ」と醜く低い声で言った。不思議と恐怖より安堵を覚えたのは、化け物の淀んだ黄色い瞳が、これまで見てきた誰よりも暖かかったからだろうか。


「私はハンザキという。地下街ここは君ひとりで生きるには危険過ぎる。私の家へ来ないかい?」


断るという発想は出てこなかった。

足の震えはもう止まっていた。そして、目の前の恩人の方へと、一歩、一歩、歩いていった。



ハンザキは、自分を食屍鬼と呼んだ。そうして、地下の大きな家に緋色を住まわせてくれた。自分には見合わない代物だからと、人間の食べ物をたくさん分けてくれた。


そして、緋色に色々なことを教えてくれた。


大槌市の地下の、特に衛生環境の悪い地区で長い期間生活していると、だんだん体と精神が変異して、死肉食らいの怪物、食屍鬼になってしまうのだと。しかし身寄りがないとどうしてもそういった場所で暮らさざるを得ず、さらに食屍鬼化すれば地上で表立って生活するのは難しく、どんどん悪い方にいってしまうのだと。食屍鬼や地下生活者が自由を得るためには、手を取り合い協力することが必要だとも語っていた。


実際、ハンザキの家にはたくさんの食屍鬼や人間が相談にきていたし、議論を交わす姿もよく見た。ときには議論が白熱した結果、ハンザキが怒声を一方的に浴びせられ、相手をなだめている姿も見かけた。


ハンザキは、食屍鬼たちの食事情にひどく苦心していた。

食屍鬼は雑食で腐ったものでも食べられる一方で、個体にもよるが、平均で月に一度、通常の食事に加えて人間の一人分の屍肉を必要とする。純血ならわずかに血を吸うだけで足りるが、呪いの変異が重いため体が人の血肉を大量に要求するのである。


だが、そこで人を見境なく殺していては、秘密機関『地域課』を敵に回すことになる。地域課は大槌市の風評を守るため、手段を選ばずに隠蔽を行う機関であり、敵対するのは得策ではない。そこで、あくまで自殺者や罪人、そして既に死んでいる人間のみを食事にするべきだ。そうして、じっくり大槌市と交渉して、権利を獲得していくべきだというのが、ハンザキの考えであった。


一方で食屍鬼の中には無辜の民を殺害するものもいて、ハンザキたち穏健派と対立しており、ハンザキはそれに心を痛めて説得を試みていた。


緋色はそんなハンザキを正しいと思ったし、助けてもらったことに恩義を感じていたので、ハンザキの反対を押し切って穏健派の活動に手を貸していた。食屍鬼の中にあっては、文字の読み書きができる人間は重宝され、更に少女ということもあって、看板娘のようになっていた。


ハンザキはそんな緋色を見ては、

「君はがんばりすぎるきらいがある」

と言って、寂しそうな悲しそうな、不思議なな鳴き声を発した。




それは、緋色が10歳になってから半年経ったぐらいのとき。穏健派の説得が功を奏し、武闘派の融和ムードが高まってきた頃だった。


緋色は、また、全てを奪われた。


ハンザキの家で穏健派による総会議を行なっていたところに、ドアを突き破って、男が侵入してきた。見張りはいたはずなのに、まさか殺されたのか。

食屍鬼たちはざわめきたち、その内ひとりが爪を立てて男に飛びかかるも、即座に頭を殴られ、首をへし折られた。


「純血ダ!」

「……まさか地域課ガ!?」


ひとりが窓から逃げようとするが、男は弾丸のような速度で跳躍して腹部に蹴りを入れ、食屍鬼は動かなくなった。


そのまま緋色の方へ高速移動し、胸部を蹴りつける。緋色の小さな体は吹き飛び、壁にぶつかった。肋骨がへし折られて肺に穴が空いたらしく、呼吸をするたびにヒューと音が立つ。まだ息はあるが、長くは持たないだろうと、直感で理解した。


そうして、男は部屋中の食屍鬼をひとりずつ確実に殺していった。


暴虐の限りを尽くす男の前に、ハンザキが立ち塞がる。

「待て! どうして我々を殺す必要がある! 答えろ」

男は両手を広げ、心底意味がわからないというような、呆れた顔をした。

「どいつもこいつも同じことを言いやがる。俺ァ飽き飽きだぜ」

「何?」

「みんないちいち行動に理由なんざ考えず、ぼーっと生きてんだろ。何気なくラジオ聞いて、何気なく散歩して、何気なく昼寝して……。それと同じで、何気なく殺しただけだってのに」


倫理がごっそり抜け落ちた、外道の発言。外見こそ人間に近いが、こいつこそ本当の化け物なのだと、緋色は確信した。


醜悪な言動を前に、ハンザキは驚愕の表情を見せた後、祈るように目を閉じた。

「ならば私は、同情を持って君を殺そう。死ぬまで人間になれない君を、心底哀れもう」


「は? 意味わかんねー、消えろ」

男がロケットブースターでも取り付けたかのような猛スピードでハンザキへと突っ込んでいき、拳でその腹部へと風穴を開ける。


「雑魚がよ」


勝ち誇る男の肩を、ハンザキががしりと掴んで固定した。男の顔が恐怖で歪み、「ひっ」と怯えた声がこぼれる。ハンザキは、腹部から大量の血を垂れ流しながらも、爪の生えた右手を振り上げた。


「わからないのかね? 半分に裂けても生きているがゆえに、『ハンザキ』なのだよ」


男の喉笛は食屍鬼の凶悪な爪によって簡単に引き裂かれ、血を大量に噴き出して絶命した。


緋色は既に意識朦朧として、視界もほぼほやけて見えなくなっていた。ただ、ハンザキのこちらへ歩いてくる音は聞こえる。

ハンザキは、醜く、そして誰よりも優しい声音で、緋色に語りかけた。


「私は返り血を浴び純血を継承した。そして、今からこれを君に託す。……ヒイロ、他人に優しくするんだよ」


まるで実の父親のように諭すハンザキのシルエットは、涙で霞んだ視界の中では人間の形に見えた。


ハンザキは頸動脈を自ら掻っ切る。血が勢いよく噴き出して、その一滴が緋色にかかった。


純血の継承。

人間であった緋色の体は呪いによって返り血の血族へと作り変えられていく。

全身の骨が、皮膚が、肉が、膨張しているような感覚。体の中に、血管に異物が流れ込んでくる感覚に、緋色は悶え苦しんだ。



そして、再び目を開けたときには一面に血溜まりが広がっていて、仲間も、師も、その仇も、みんながみんな死んでいた。それ以外、なにも残ってはいなかった。



呪いの継承によって胸の傷は治癒したはずなのに、なぜかさっきよりずっとずっと、胸が痛くて、緋色は床に腕を打ち付けて、音もなく泣いた。



生き残ってしまったからには、私がハンザキにならなければならない。


誰よりも強く、優しく、いなければ。


少女は拳を強く握りしめて、そして少女でなくなった。

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