そして誰も私を殺せなくなった
砂条楼花
第1話 豹変する日常
少女は逃げていた。
視界はすっかり霧に覆われてホワイトアウトしている。街灯はおぼろげな光となるだけで、道を照らす役目を果たしていない。道の先が続いているか行き止まりかさえわからない有様だった。
少女、牛久保桃香は何か得体の知れないものに追われている。獣でも人間でもない奇妙な息遣い、足音、そして屍臭。田舎育ちの桃香にはそれが明らかな異常だとわかった。
当然身に覚えはない。
桃香は山生まれというだけで、ごく普通の真面目な女子大生だ。今日だって退院直後だというのに、大学図書館が閉まるまで勉強をしてから帰路についた。
結果としてこのような目に遭うことになったわけだが。自分の過去の行動を心底呪う。
ふと、生ゴミと煙草の匂いが鼻腔を刺す。いつの間にか、桃香は裏路地に入ってしまっていた。じわりと、嫌な汗が栓を切ったように溢れ出した。誘導されている。
焦燥を込めて足元の瓶を思い切り蹴った。
戻ることはできない。嫌な予感がしながら裏路地の奥へ、奥へと進んでいく。
やはり、路地は行き止まりとなっていた。
どうする、どうする、どうする。
焦燥と恐怖とが体中を駆け回って、しかしどうすることもできず、足を止めてしまう。
「そこで諦めちゃうの?」
どこかから、女性の声がした。きらきらして、でも透けて鋭い、水晶のような声だった。
「やるだけやりな。キミは、できるんだからさ」
声は不思議なくらい頭に透き通ってきて、桃香は歯を食いしばった後、息をすうっと吸った。
そうだ、わたしにはおじいちゃんに習った空手がある。
空を仰ぐ。壊れかけのトタン一枚の上に粗大ゴミがたくさん放置されて、今にも崩れてきそうだった。
「君はね、命を狙われる体質になっちゃったんだよォ」
今度は別の声だった。くぐもった男の声だ。
霧の中から唸り声がして、追手は霧から分離するようにその姿を現した。
犬のような人間だった。あるいは、人間のような犬だったのかもしれない。
猫背というにはあまりに前傾すぎる姿勢で、ボロボロの衣服は泥と血痕に汚れていた。そしてなによりその顔は顎と鼻が発達して、ハイエナとも人間ともつかないものだった。
醜悪に退化した人類、という表現が最も的確な比喩であろう。
「君を殺したらね、たくさん死体をくれるって、そう聞いたからねェ」
じりじり、じりじりと怪物は距離を詰める。
「声を出しても無駄だヨ? この霧の、中では、声も、光も、通らないからねェ」
桃香は恐怖に顔を歪ませ、小さく悲鳴を上げた。リュックの中身を怪物に向かって、全力でぶちまける。
しかし、怪物は横にひょいとかわす。
「そんなんじゃ当たらないよォ?」
怪物は更ににじりよろうとして、目に異物が入って顔を歪めた。蜘蛛の巣だ。端まで避けたためにぶつかってしまったのだった。
桃香の狙いはそこにあった。
一瞬でいい。蜘蛛の巣を振り払うその隙に差し込んで、酒瓶を放り投げ窓ガラスを割る。
大量の破片が怪物に降り注ぎ、そのうちひとつが片目に突き刺さり、怪物はうめき声を上げた。
今だ。怪物の目の前に走り込んで、頸椎にかかと落としを喰らわせる。怪物は不格好な前傾姿勢ゆえにバランスが悪く、簡単に倒れ込んでしまった。
さらに、大きめの石を拾って上方へ投擲する。石はトタンに命中し、トタンは鈍い音を立てて割れた。ギリギリのバランスで成り立っていたゴミの山は崩れ落ちる。
冷蔵庫、洗濯機、その他諸々の巨大な質量が重力で加速されたうえで怪物に降り注いだ。
耳を塞ぐ。びりびりと、衝撃音を肌で感じた。
砂埃が舞って、ごほごほと咳をしながら、桃香はその場を立ち去ろうと、背を向けた。
が、その隙をめがけて、怪物の腕が桃香めがけて伸びて……、
「こらこら、敵から目を離しちゃいけないよ」
あの透き通る声とともに、落下してきたナイフによって両断された。
「なんだァ!? いったい誰が……!?」
怪物は洗濯機を肩で持ち上げて立ち上がると天を仰いだ。同じように桃香も呆然と空を見上げていた。
そして両者は同時に目撃した。
そこには。
黒いレインコートを纏った女がいて。
手首から大量の鮮血を振り落としながら。
舞い降りてくる。
刹那、鮮血は鉄へと姿を変え、無数の槍となって怪物を襲った。鉄の雨は自由落下によって加速し、ひとつひとつが確かな致命傷となって怪物の体を貫く。過剰なほどの殺意を前に、怪物はコンクリートに倒れ伏した。
レインコートの女はその脇にひらりと降り立って、桃香に笑いかける。モデルみたいに整った綺麗な笑顔だった。
「ま、筋はいいから及第点ってとこかな」
「それってどういう……」
言いかけて、あ、と声を出す。
「助けて頂いてありがとうございました! それと、手首、大丈夫ですか? かなり血が出てましたけど……」
女は目を丸くして数秒桃香を見つめたのち、朗らかに笑った。
「あはは! 気にするとこそこなんだ! 大丈夫、鉄で止血してあるから」
ぱっくり切れていたはずの女の手首は、いつの間にか光沢を持つ糸で縫合されていた。
でも、あんなに血を出して大丈夫なのかな?と、桃香は首を傾げた。
「あたしは
「牛久保桃香です」
「桃香ちゃん、知らない人に名前を教えるものじゃないよ?」
桃香は口を手で押さえるものの、出た言葉は引っ込まない。その様子に冴はひとしきり笑ったあと、突然ふらふらとよろめいた。
「あら。こりゃ貧血だね」
「もう! あんなに血を出して大丈夫なわけないですよ!」
「あはは、たしかに」
すると冴は桃香を抱き寄せて、
「ちょっとごめんね〜」
といって首筋に噛み付いた。じわりと首に感じる痛みと熱。桃香はレインコートを掴んでもがくも力づくで抑えられてしまう。
しばらくして、冴は桃香の首から口を離した。
桃香は恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔を真っ赤にして、
「何するんですか!?」
「ごめんって言ったじゃん。……それより」
冴は急に真面目な顔をして後ろに視線を送っった。
「安全なところまで逃げよっか。やつらはまだいる」
耳をすませば唸り声。鼻につく獣臭さ。
桃香は身震いして、何度もうなづいた。危機に瀕して怒りも引っ込んでしまった。
ふと背後を振り返ると、怪物の死体は消えていて、黒々とした液体と血痕だけが残っていた。
裏路地を抜けたところで新手の怪物に遭遇した。冴は怯える桃香を手で制して、涎を垂らす怪物の前に立つ。
「お嬢チャン……君が、濡羽烏カナ?」
「どうせ死ぬんだから関係なくない?」
冴は下ろした腕の手首をナイフで切り裂く。
怪物は唸り声をあげて、野犬のごとく飛びかかる。
瞬間、滴る血液は一瞬で凝固し腕から突き出す鉄刃となり、冴は一刀にて怪物の首を切り落とした。怪物は倒れると同時に黒々とした液体に分解され、腐臭を撒き散らした。
「冴さんとか、この怪物とか、いったいなんなんですか!? わたしわかりません!」
「『返り血の血族』。これ以上は長くなるから省くけど、あたしだって『血族』のひとりさ」
冴は怪物の死を確認すると、前方を指し示した。もっとも、霧が深くて何があるのかは見えないが。
「この街ね、頻繁にこういう変な霧が出る気候なの。こうなると音も聞こえないし一寸先は闇状態だから、犯罪やら怪物やらがのさばっちゃって治安は最悪ってわけ」
「そんなの、聞いたことないです。信じられません」
「ま、
「そんなことって……」
そう言いつつ、桃香は祖父の言葉を思い出していた。三ツ角大学に進学するから家を出ると伝えたとき、祖父は顔をしかめて「オオノヅチはいかん」と言った。結局、それで喧嘩別れになってしまい、桃香は痛く後悔しているのだが。
「そういえば、安全な場所ってどういうとこなんですか?」
「おねーさんの職場だよ」
「職場?」
「表向きは古物商。裏の顔は奇妙な事件専門の調査局。その名も探偵事務所『花市場』!」
きらきら光る冴の瞳とは裏腹に、桃香の勘は冴が所謂ダメな大人であることを敏感に察知していた。
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