第2話
我慢する日々を重ねるうちに、私はクラーラを殺す夢を見るようになった。時には崖から突き落とし、時には短剣で胸を刺す。今日は毒薬を少しずつ盛る夢を見た。
「……毒薬を手配できないかしら」
朝の着替えの際、ぽつりと漏らしてしまった。着替えを手伝ってくれていた五人の侍女の手が止まる。
「……冗談よ。気にしないで」
正直言って疲れ切っていた。きちんと微笑むことができたか、自信はなかった。
翌日、侍女の一人が毒薬を入手してきた。その翌々日にはもう一人が。気が付けば五人の侍女全員が、さまざまな毒薬を手配してくれていた。
「けっしてお嬢様自身がお使いにはなりませんように」五人が口をそろえて私に懇願した。
「……ごめんなさい。ありがとう」
私は侍女たちの献身に心の底から謝罪と感謝の言葉を捧げた。
◆
並べられた毒薬を静かに眺めていて思いついた。
私は賭けをすることにした。私とクラーラに少しずつ毒を盛る。
彼がすべてを話して説明してくれたら終わり。私は婚約破棄を受け入れて領地へ旅立つ。
説明してくれなかったら……私とクラーラが死ぬ。
身勝手な逆恨みでしかないのは理解している。
それでも自分一人が毒を飲むという選択はできなかった。
遅効性の毒薬の一つを二つに分けた。
ゆっくりと手足の自由が利かなくなって、最後には血を吐いて死ぬ薬。
子供の頃からずっと仕えてくれている老従僕に、宮廷楽師に薬を盛るにはどうしたらいいのか相談することにした。昔から物知りの従僕なら、何か方法を教えてくれるに違いないと思った。
「お嬢様……わかりました。わしが手配致します。この薬を一日一滴ですな?」
「待って。方法を教えてくれるだけでいいのよ? あとは私が何とかするわ?」
「いいえ。お嬢様、これから結婚をされる方が手を汚してはいけません。わしは昔、王宮間諜でした。わしに任せて、お嬢様はこの薬のことを忘れて下さい」
そう言った従僕は、小さな子供の頃のように私の頭を撫でて微笑んだ。
◆
「クラーラ、どうなさったの? 気分でも悪いの?」
今日もクラーラは練習場ではなく、王宮庭園の東屋で竪琴の練習をしていた。
「え? 大丈夫ですよ! ほら! 今日も元気いっぱいです!」
クラーラが満面の笑みを浮かべるものの、指先には白い布が巻かれている。
「あ、これ、友達に薬を塗ってもらったんです」
「それは良かったわ。お友達が出来たのね」
「いえ。その……昔からの友達で……あの……精霊なんです」
クラーラの言葉に驚いた。一般国民には精霊と契約できる程の強い魔力を持つ者はいないはずだと思いながら話を聞くと、クラーラの音楽の才能に惚れ込んだ精霊からの一方的な契約のようだ。
「今、ここにいらっしゃるの?」
貴族ではあっても、私には精霊が見える程の魔力はない。私が毒を盛っていることを知られていないかと心が冷える。
「私の為に薬草を採りに行ってくれてます。大丈夫って言ってるんですけど、心配症で優しい子なんです」
どうやらあまり力のない精霊らしい。私は内心安堵する。
「……無理をしてはダメよ?」
「うーん。指先と足先がほんのちょっとだけしびれるんですけど、気合を入れたら平気です。誰にも秘密ですよ!」
「揉んでみてはどうかしら? 手を貸して」
「いえいえいえ。そんな! お貴族様に揉んでもらうなんて、畏れ多いです!」
ぷるぷると首を横に振る姿は、どこか小さな動物のようで笑ってしまう。
「お貴族様なんて、初めて言われたわ。面白いわね。じゃあ、お貴族様らしく、手を出すのよ、クラーラと命令するわ」
「はいっ! ロヴィ様! ってあれ? 結局揉んでもらってますよね。しまったー」
クラーラと過ごす時間は楽しくて、イェルハルドに会えないことも忘れることができた。何度会ってもクラーラは変わらない。指先と足先が少しだけしびれるというだけだった。私も同じ症状だ。まだ時間は十分にある。
イェルハルドに会いたいと連絡を入れてても、忙しいと伝言が返ってくるだけになった。
午後の王宮庭園でクラーラと話をしていると、金に近い茶色の髪、青い目の背の高い美丈夫が現れた。紺青の騎士服を着たその人は、〝青玉の騎士〟だ。
「あ、ガブリエルさん! こんにちは! 今日も練習ですか?」
クラーラは気さくに青玉の騎士に声を掛けた。彼はルンベック公爵家の第三子、子爵の娘である私は正式な礼で迎えようと立ち上がる。
「いえ、礼は不要です。今はただの楽師として扱って下さい」
青玉の騎士が柔らかく微笑む。
クラーラは竪琴、青玉の騎士はミルトという弦楽器で合奏を始めた。楽し気な曲に心が躍る。
「素晴らしいわ!」
二人の演奏を特等席で聞けたことに私は心から喜んで手を叩いた。
「ありがとうございます! 今、二人で『届かない月を掴む』という曲を練習しているんですよー」
クラーラが頬を赤らめる。
「あの六百年前に作曲された難曲よね。是非聞いてみたいわ!」
『届かない月を掴む』という曲は天才を超える天才でなければ演奏できないと言われている難曲だ。この国で演奏できる者は今は存在しない。
「まだお聞かせできる状態ではないですが、頑張りますねー」
クラーラは、今日も満面の笑みを見せてくれた。
◆
手紙を書いていて、書き損じた。
ガラスペンを持つ指先の感覚が薄い。
気を取り直して新しい便箋に替えて手紙を書きなおす。
イェルハルドに会って話が聞きたい。
何度も空いている日を問い合わせても「忙しい」という伝言のみが返ってくる。
情事だけは突然に誘われて、ろくに話す時間もないままに帰される。
噂ではクラーラを外国の貴族の養女にできないかと手を尽くしているらしい。国内の貴族たちは、イェルハルドがまだ私と婚約を結んでいることを知っているし、レーフグレーン侯爵家がセルベル子爵家の金銭的支援を受けていることも知っているので、そんな養子縁組を受け入れるはずがない。
今日、クラーラはセーデルホルム子爵の庶子だと本人が教えてくれた。旅の一座の踊り子の母から生まれ、最近まで父が生きていることすら知らなかったらしい。
自分の生まれを秘密にする替わりに、異母兄が宮廷楽師の試験を受けさせてくれたと感謝していた。
子爵家の庶子なら、他家の養子にする必要もない。
会って話をしてくれたら、そう教えようと思ったけれど、相変わらず忙しいとしか返ってこなかった。
◆
クラーラから、演奏会の招待状と観覧券が二枚届いた。観覧券は抽選販売で、第一王子でさえ手に入れることができなかったと評判だ。イェルハルドも買えなかったらしい。落胆するイェルハルドを誘うか迷ったけれど、結局女性の友人を誘って演奏会へと向かった。
クラーラと青玉の騎士が、楽器を携え揃いの衣装で舞台に現れた。紺青色のドレスとロングコートの組み合わせは、まるで恋人か夫婦のように見える。
イェルハルドに見せていれば、嫉妬していたかもしれない。
『届かない月を掴む』という難曲は、演奏技能も技巧も必要な上、一曲が二刻という長さに及ぶ。クラーラと青玉の騎士は互いの顔を見て、微笑み合いながら演奏を続ける。
――それは、この国の空に朝も夕も常に浮かぶ赤い月フラムと緑の月フランの物語。
原初、赤い月フラムだけが空に存在していた。その月に恋焦がれて、緑の月フランがこの大陸から空へと昇った。
やがて二つの月は白い月フルトを産み落とす。フルトはいつまでもやんちゃな子供のように、姿を変えながら夜を走る。
赤い月と緑の月は、永遠に仲良く並んで白い月を見守っている――。
痛切な恋の曲から、幸せな曲、楽し気な曲と三度曲調が変わる。二人の指の動きは早すぎて目視での確認は難しい。
クラーラと青玉の騎士の二人が、完璧に曲を弾き終えた。
息の合ったすばらしい演奏だった。
汚れきった私の心さえ浄化してくれるのではないかという幻想すら感じさせる。
気が付けば、私も立ち上がって喝采を贈っていた。
もうつまらない賭けは辞めよう。
イェルハルドに私から別れを告げよう。
そう思った瞬間。舞台の上でクラーラが血を吐いた。青玉の騎士がクラーラを抱き上げて舞台から去っていく。
……遅すぎた。あれは中毒の末期の症状だ。
騒然とする劇場で、私はいつまでも立ち尽くしていた。
◆
劇場の夜から五日後、宮廷楽師クラーラは死んだ。
最期を看取ったのは青玉の騎士だと聞いている。
「今日はどうしたのかな? 最近、ロヴィから会いたいって言われないから寂しかったよ」
侯爵家の中庭で、イェルハルドが微笑む。
手入れされているべき中庭は、随分と荒れていた。もう何ヶ月も手入れがされていないのだろう。
薄汚れた石のテーブルを挟んで、対峙するように石の椅子に座った。以前なら、隣に座っていた。
「お別れを告げに来ました。婚約を破棄してください。すでに私の父母には了承を得ています」
ただ淡々と要件のみを告げることに専念する。少しでも感情を零したら、きっと泣いてしまう。
「何を言ってるんだ? 三ヶ月後には結婚式だろう? 楽しみにしていたじゃないか」
イェルハルドが困惑の表情を浮かべた後、苦笑する。私の気まぐれとでも思ったのだろう。
「私が知らないとでも思っていらっしゃったの? クラーラを外国の貴族に養子に出して、結婚するつもりだったのでしょう?」
「……それは……違うんだ。誤解だよ」
イェルハルドの目が揺れる。嘘をついている時の目だと、幼いころから隣りにいた私にはわかってしまう。
「側室か妾なら、貴族の身分は必要ありませんわ。貴族の身分が必要なのは、妻だけでしょう?」
「いや、そんなつもりは……」
「どんなつもりでしたの?」
静かに微笑みながら問いかける。
しばらく待っても、答えは返ってこなかった。
すべて正直に話してくれたら、それで終わっていたのに。
「最後に教えて差し上げるわ。クラーラが恋していたのはガブリエル・ルンベック。青玉の騎士よ」
青玉の騎士がクラーラをどう思っていたのかはわからない。クラーラは結婚を考えていたわけでなく、ただ純粋に青玉の騎士を慕っていた。
「そんな馬鹿なことがあるわけない!」
イェルハルドの叫びに溜息を吐く。クラーラは何度も拒絶していた。はっきりと断っているのに、話を聞いてもらえないと困り果てていた。
イェルハルドはいまだに現実を受け入れていないのだろうか。
「貴方、一度でも彼女に好きだと言われたことはある? 貴方は彼女の気持ちすら確認しなかった。そして私の気持ちも」
突然の嘔吐感に咳込むと手に血が広がった。これでいい。
私はイェルハルドに会う前に、残っていた毒薬をすべて飲み干していた。
「……私、彼女に少しずつ毒を盛っていたの。そして私も同じ毒を飲んでいた。子供の頃から毒には耐性を付けているから彼女よりは効果が出るまで時間が空いた。もうすぐ終わり。……私を抱いていて気が付かなかった? 不自然なほど手と足が痩せていたでしょう?」
「出会った時から貴方のことが好きだった。でも貴方は私の家のお金が必要だっただけなのよね?」
私が死ねば、もう援助は行われない。イェルハルドは爵位を売るか、破産するしかない。
「違う! 僕を置いていかないでくれ。一人にしないでくれ」
本当にイェルハルドは自分のことばかり。
私も自分のことだけだったと苦笑する。きっと似た者同士だった。
「……私は私のくだらない理由で将来のある人を殺したわ。罪悪感で押しつぶされそうなの。貴方にはこの気持ちはわからないでしょう?」
「理解するよう努力する。だからもう一度僕に機会を与えてくれ」
「何度も機会はあげたでしょう? 毎日毎日、いつ話してくれるのか、いつ婚約を破棄されるのか、ずっと私は待っていた。貴方がすべてを話してくれるのが先か、私たちが死ぬのが先か。私はくだらない賭けをしていたの。貴方は自分の欲望しか見えず、彼女と私の気持ちすら知ろうとしなかった」
この期に及んでも正直に話してくれないことに、私は完全に諦めた。
イェルハルドが好きだった。もう過去形でしか語れない。
「今はっきりわかった、僕は君を愛してる。何をしても許してくれると信じていた。君を失いたくないんだ!」
イェルハルドの初めての愛の言葉は、虚しく響いた。イェルハルドが立ち上がって、テーブルを回りこんで近づいてきた。
「……今更、遅いわ。近づかないで」
私も椅子から立ち上がって、ポケットから魔法石を取り出した。
ささやかな魔力しか持たない私でも、魔法石があれば死ぬまでの時間くらいは結界魔法が維持できる。
淡い緑色の結界魔法を展開しながら数歩離れる。これでイェルハルドは近づけない。
視界が徐々に暗く狭まっていく。
最期の瞬間にイェルハルドの姿は見たくなかった。
青い青い空を見上げる。
青い空には、赤い月と緑の月。
何故か手が届きそうな気がして、手を伸ばす。
私が、この手に掴みたかったものは、何だろう。
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