届かない月を掴む ―Grasping the unreachable moon―

ヴィルヘルミナ

第1話

 一際技巧を凝らし、伸びやかな竪琴の音色で演奏会は終わった。


 魔法灯ランプが煌めく王宮内のホールで、宮廷楽師による演奏会が行われていた。

 舞台に立つのは二十名程の宮廷楽師。厳しい試験を合格した者達だ。男性は渋水色のロングコートに黒いトラウザーズ。女性は渋水色の袖のないドレス姿で楽器を演奏する。


「どうなさったの?」

 席を立とうとした時、隣に座っていた婚約者イェルハルド・レーフグレーン侯爵の顔が紅潮していることに気が付いた。淡い金髪に緑の瞳。少し着崩した黒い夜会服は、二十五歳になったばかりのイェルハルドに退廃的な魅力を加えている。


「あの竪琴の奏者は素晴らしいね」

 イェルハルドが珍しく女性を褒めた。長い紫紺色の髪に紫の瞳の美しく若い女性奏者は、最近の話題の中心人物だ。


「最近、宮廷楽師になったのだと聞いています。何でも、とてもすばらしい成績で試験に合格したとか」

 貴族の女性だけの茶会では、男性の注目を浴びる女として危険人物と認識されている。一般国民で正規の教育を受けていないらしく、子供のような言動が貴族の男性達には新鮮で、好意的に受け止められている。


「そうか。名前は知っているか?」

「……クラーラと聞いています」

「クラーラ。……素敵な名前だね。クラーラ……」

 イェルハルドが舌で転がすように女の名前を呼ぶ。


「……ほかの女性の名前を私の前で何度も呼ばないでくださる?」

 少し苛立ちを感じても、セルベル子爵家の娘としては声を荒げる事は絶対に許されない。微笑みながら首を傾げて、イェルハルドに静かに訴える。


「あ。ああ、申し訳ないね。ロヴィーサ」

 頬を紅潮させたイェルハルドが私の青緑の髪の一房に口付ける仕草は、いつもよりも優しいものだった。


      ◆


 演奏会の二日後、イェルハルドが約束より遅れてセルベル子爵家の上級町屋敷タウンハウスに訪れた。

 イェルハルドが着用する青緑色のロングコートは最近の流行りの色だ。私の髪色に合わせた訳ではないだろう。イェルハルドは流行に敏感で、毎夜どこかの夜会や観劇に出かけている。


「昨日、結婚式のドレスの採寸を終えました。貴方の採寸はいつになさるの?」

 本来は一緒に採寸を行うはずが、直前になって解約キャンセルされた。


「……え? ああ、申し訳ない。少し考え事をしていた」

 イェルハルドはうわの空だ。今日は説明しても無駄かもしれない。


「お疲れなのね。お仕事が大変なの?」

 侯爵である彼は王や王族へと助言を行う元老院の一員であっても、年若いので発言権はない。ただ在籍しているだけのはずだ。

 そうはわかっていても、侍女に疲労に効く薬茶をお願いする。


「ああ……少し忙しい」

 イェルハルドが言葉を濁して、用意した薬茶を飲むことなく帰っていった。


      ◆


 三日に一度は食事や観劇を共にしていたのに最近は誘われない。

 宮廷楽師クラーラに取り巻きと共に付きまとっているらしいと噂が入ってきた。


 クラーラに熱を上げている貴族の男は多い。毎日のように贈り物が届けられ、毎日のように食事や観劇の誘いがあるという。クラーラはすべて断って、ただひたすらに竪琴を練習していると聞いている。


 しばらくすれば諦めるだろう。

 禁忌の恋は反対すればするほど燃え上がることがあると、昨年結婚した友人に忠告を受けた。私は静かに見守ることにした。


      ◆


「ロヴィ。おいで」

 侯爵家の主寝室でイェルハルドが優しく手を差し伸べる。

 イェルハルドが二十歳、私が十五歳の時、先代の侯爵夫妻が馬車の事故で亡くなった。


 爵位を継いでからイェルハルドは私を主寝室へと誘う。最初は口付けして抱き合うだけで、十八歳になった時に初めて結ばれた。あれから二年が過ぎ、私は二十歳になった。


 ベッドにいる間だけは取り巻きがいない。

 イェルハルドが私だけを見てくれることが嬉しい。


 今日も薬を手渡された。カップに半分程の濃い緑色の液体を飲み干す。

「……薬が苦すぎるわ」

 本当は飲みたくはない。飲んだ後、数日は微熱と下腹部が絞られるような痛みが起きる。この怪しげな避妊薬は正規に流通している薬ではないと知っている。


「ロヴィの為だから我慢して欲しいな。結婚したら飲まなくてよくなるよ」

 イェルハルドが優しく笑うけれど、本当は私の為ではないとわかっている。


 この国では貴族が結婚前に身ごもることは許されない。

 婚前交渉は本来行うべきではない。

 理解してはいたけれどイェルハルドに求められることが嬉しかった。


「ロヴィ、こんなに腰を締め付けなくてもいいよ」

 私のドレスを取り去ったイェルハルドが胴衣コルセットのボタンを外そうと躍起になっている。


「……これが最近の流行なのよ」

 ボタンを外す間に今日は諦めて欲しい。そう思っていたのに、背中の紐を緩めると簡単に外せることに気が付かれてしまった。


「ロヴィの手触りは本当に素敵だ」

 イェルハルドの溜息混じりの感嘆に肌が震える。あちこちを撫でられると心が震える。


 イェルハルドの淡い金髪をさらりとかき混ぜる。

「くすぐったいよ。ロヴィ」

 くすくすと笑いながら、何度も軽く口付ける。


 イェルハルドの緑の瞳に、青緑の髪、青の瞳の私が映る。

 こうして抱き合って口付けをしている時間が一番気持ち良い。


「もういいかな?」

 私は不満を感じた。いつもなら、もっと抱き合う時間が長いのに。

「もう少しだけ、こうしていたいの」

「ごめん、出かける約束があるんだ」

 イェルハルドの返答に内心驚く。いつもなら朝から夜まで一緒に過ごすはず。


「それでは、今日はもう終わりにしましょう」

 私の言葉に一瞬眉を下げたイェルハルドは、強引に事を進めた。私の体の負担を考えない、一方的な行為が続く。


「……痛いの。……やめて」

 我慢できずに訴えた途端、イェルハルドが呻いて果てた。

 温かい体が覆いかぶさってくる。いつもならこの重みで感じる幸せを、今日は感じることができなかった。


「ごめん。ロヴィが素敵で、やめられなかった」

 私の流した涙をイェルハルドが唇で吸い取って、私は静かに目を閉じた。


      ◆


 誘いを断り続けるクラーラの頑なな態度に、一人、また一人と興味を持っていた貴族たちが脱落していく。最後に残ったのはイェルハルドだけと聞いた。

 飽きるまでの我慢と耐えていても、一体どれだけ魅力的な女性なのかと興味はある。


 月に一度の王妃主催の茶会へ参加した後、侍女と従僕を連れて王宮庭園で散策していると素晴らしい竪琴の音が聞こえた。王宮庭園の東屋で竪琴を引いているのはクラーラだ。


「こんにちは。とても良い音色ね」

 曲が終わった後、私は声を掛けた。どのような返答が返ってくるのかと身構える。


「こんにちは! そうなんです。この楽器がとっても良い音を出すんです!」

 紫色の瞳を輝かせ、本当に子供のような笑みで返されて毒気が抜かれた。


「どうしてこんな所で練習しているの? 宮廷楽師用の練習場があるでしょう?」

「……なんか仲間外れされてるみたいで、居心地悪いんですよー」

 口を尖らせる仕草は、演奏をしている時とは別人のように子供っぽい。


「そうなの?」

「言葉に訛りがあるとか、髪の色が気持ち悪いとか、聞こえるか聞こえないかっていうくらいの声でぼそぼそと話してるんで、怒鳴ったら今度は無視されるようになっちゃいました」


「訛りはそうね……少しあるわね。気を付ければ直ると思うわ。貴女の髪はとても珍しくて綺麗ね。この髪色は波打っている髪質の人が多いの」

 許可を受けることなく髪に触れてしまって、失敗に心がすくむ。許可なく他者の体に触れるのは無作法の中でも一番嫌われる行為だ。


「ありがとうございます! そう言ってくれるのは母さんだけだったんで嬉しいです!」

 クラーラの満面の笑みに安心した。不快とは思われなかったらしい。


「あ、私、宮廷楽師のクラーラっていいます」

「私はロヴィーサ・セルベル。よろしくね」


「はい! よろしくお願いします!」

 クラーラの子供のような無邪気な笑みは、私にはとても眩しく見えた。


      ◆


「ロヴィ、おいで」

 この所、まったく食事にも観劇にも誘ってこないのに、情事の誘いだけは増えた。昼間のわずかな時間での性欲処理のような行為が続く。


「見に行きたい劇があるの。いつが空いているかしら?」

 勇気を出して私から誘ってみた。これまで私から観劇に誘ったことはなかった。

「ごめん、忙しいんだ」

 イェルハルドの言葉に、高揚していた気分が醒めた。


 毎夜あちこちに出かけては、貴族たちにクラーラを養女にしてくれないかと頼んで回っていると聞いている。側室か妾にするつもりなら貴族である必要はない。貴族であることが必要なのは、妻という立場だけだ。


 私が婚約破棄されたのではないかという噂が回るようになっていても、イェルハルドには届いていないらしい。ドレスの仮縫いの際にも、お針子たちが気まずい顔をしていることが多くなっていく。


 父母が諫めると言ってくれてもイェルハルドは侯爵だ。子爵の立場ではどうにもならない。揉めて婚約破棄になるのが怖くて、父母には手を出さないようにと懇願した。


 何度誘いをかけても、クラーラからは断られていると聞いている。きっと一時の気の迷い。結婚式までには目が覚めるだろう。

 私は、そう自分に言い聞かせていた。

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