かなしい君へ

肥前ロンズ

百年の白昼夢

「ねえ私、妖怪になれないかしら」

 大正八年、三月三日。

 人間の妻は、半妖のぼくにこう言った。

「誰が?」

 ぼくが尋ねると、私が、と妻は笑った。

 妻の実家にあった雛人形の傍では、五歳になった娘がうたた寝をしている。

 ぼくは娘の髪を撫でた。細く、さらさらとした髪だ。ぼくの頭にある猫の耳は、娘にはない。そのことが、ほっとするのと同時に、寂しくも思えた。

「どうして?」

「だってそうすれば、あなたとずっと一緒にいられるでしょう?」

 やっぱり彼女はおかしい。

「ぼくが呪いの猫だってこと、忘れてない?」

「私が死んでしまっては、あなたは寂しくて泣くじゃない」

 でしょ? と、妻はこちらを見ないで聞き返す。

 ……人間を呪い殺すはずだった猫は、いつの間にか寂しがり屋の猫に変わってしまった。


 ぼくが彼女に出会ったのは、元号が明治だった頃。

 彼女は元は武家の娘であり、明治の世では貴族のお嬢様。ぼくは猫と人の間の子。いわゆる半妖だ。

 ぼくは彼女の家に憑き、退治された化け猫の子どもだった。

 完全に猫に変化することも、完全に人間になることも出来ない、中途半端な存在だったため、二百年地下牢に封印されていたんだけど。

 それを彼女の父親が改築のために解いた。二百年のうちに、この家を呪い殺すぼくの存在は忘れられていた。中途半端に猫の耳がついたぼくの姿を見ても、彼らに恐れはなく、そのまま家に居ていいとまで宣った。

 彼らは妖怪の存在を信じず、ぼくを『突然変異で獣の部位がついた人間』だと信じていた。すごい人間たちだ。おかけで、信仰が希薄したことで呪殺する力はすっかりなくなった。

 ただ、彼女だけは。

 ぼくを、『妖怪』だと認識していた。


 さあさあと、雨が降る。

 開けっ放しの縁側から、春雨に濡れる庭を眺める。

 小さな池の水面が揺れる。池には、とある沼の主だった亀が、住む場所を追われ住み着いている。およぐ美しい鯉は紅の色。飛び跳ねるアマガエル。どこの神の使いなのだろう。

 この庭は、この世ならざるもので溢れていた。

「良い天気ね」

 彼女はいつも、雨の日は決まってこう言う。


 彼女は『見鬼』で、妖怪や幽霊を見ることも聴くことも触ることも出来た。だから、社交場に行くときもつい、普通の人には見えないところに声をかけてしまい、それで『狐憑き』だと噂されてしまったらしい。

 彼女を溺愛する父親は心を痛め、社交場の噂が届かない場所に彼女を住まわせた。そこにはぼくも住むことになった。

 文明開化と叫ばれても、人間が訳の分からないものを恐れる気持ちは、貴族も農民も関係なかった。ぼくらは屋敷に閉じこもることが多かった。

 妻が雨のたびに「良い天気」と答えるのも、外に出ない口実がはっきりしているからだろう。



「可愛がられた猫が妖怪になるなら、半分妖の妻が妖怪になったっていーのにねえ。長生きしたら妖怪になれるかしら」

「人間が神様になる方法はあるじゃないか。祀ればいい」

 なんならぼくが祀るよ、どうせ無駄に長生きするんだしと言うと、じゃあやめておく、と彼女は言った。

「私はあなたの妻であって、あなたの神様にはなりたくないわ。あなたを家来みたいに扱うのは嫌」

 一緒がいいの、と彼女は言う。


「ねえ。……じゃあ、ぼくが人間になれば」


 あなたは喜ぶ?

 そう言い切る前に、振り向いた彼女に、手で頬を挟まれた。

 そして、その腕は首に回されて、抱きしめられた。

 ごめん、と彼女が言った。


「ちがうの。あなたが、妖怪じゃなきゃよかったなんて思ったことない」

「なんで。一緒がいいんでしょう」

「一緒にいたいのであって、私と同じ存在になって欲しいなんて思わないわ。妖怪も、人間も、両方あるあなたが好きよ」


 知っているよ。心の中でつぶやいた。

 ぼくも、人間であるあなたが好きだ。

 呪い殺すはずだった家に生まれた、あなたが好きだ。

 だから、そのままでいてほしいと思う。


 母さん。

 ただの猫だった母さん。

 妻の先祖の主だった人に、飼われていた母さん。

 その人を心から慕っていたあまり、主を裏切った彼女の家を呪い殺そうとした母さん。退治されてもなお、好きだった人の血を繋いたぼくに呪い殺せと命じた母さん。

 あなたが何を思って、ぼくを生んだかはわかりません。

 けれどぼくは、呪い殺す猫にはなれません。

 この人と、できるだけ長く一緒にいたいのです。


 長生きするわ、と彼女は言った。

 長生きしてね、とぼくは言った。


 彼女が病に倒れ、帰らぬ人になったのは、その三年後のことだった。



    ◆




 あれから、百年後。元号は、今年で令和に変わった。

 急な雨だった。

 シャッターが閉まった店の前で雨宿りをしていたぼくは、同じくそこにいた少女に声をかけられた。

 緑のフードを被った少女は、それでもこの雨量には耐え切れなかったのだろう。

 外したフードから現れた髪は、濡れて艶めいていた。


「いつも、図書室に来てる人ですよね。たまに目が合うから、覚えちゃいました」


 ……まさか、とぼくは思った。

 妻によく似た少女。初めて図書室で見かけたとき、驚きのあまり声をかけそうになったのを覚えている。

 あれから何度か目で追いかけてしまい、……そうか、気づかれていたのか。


「ごめんね、こんなおっさんが若い子を目で追いかけるなんて、気持ち悪かったよね……」

「いや、そんなことは……って、お兄さん十分若いじゃないですか!」



 これでも年は喰ってるんだよ、三世紀ぐらいは。


「君が、ぼくの知る人とよく似ていたから、つい追いかけてしまったんだ。ごめんね」

「よく、知る人……」

「もう、会えないけどね」


 そう言ってぼくは、少女から視線をそらす。妻にあまりに似すぎて、うっかり妻の名前で呼びかけてしまいそうだったから。

 妻の生まれ変わりなんて、そんなわけない。

 人は死んだら、それっきりだ。



 妻が死んだあと、一人娘がこう言った。

『おかーさん、生まれ変わってくる?』

 生まれ変わって、ぼくらの元を訪れて来るよ、そう言ってあげたほうがよかったのかもしれない。

 けれど、ぼくは娘の希望を打ち消した。

 人間は、死んだらそれっきりだ。魂は戻ってくるかもしれないけれど、おなじ人間じゃない。生まれてくる場所、育った環境が違えば、それはお母さんじゃないんだよ、と。

 あのとき、幼くも死を理解していた娘は、どう思ったんだろう。娘との距離は、妻の距離より遠く感じた。

 血肉を分けた存在のはずなのに。

 それでも、娘のことは妻と同じくらいに愛していた。

 いつか終わりが来る時を知っていながら。



 空襲で何もかもなくした。娘も、孫も。

 ぼくと彼女のことを知る人間はいなくなった。

 その後、人として長生きしすぎたぼくは、生きていないことになった。

 死者でも生者でもなく、人でも妖でもなく、あてもなく点々と各地をさまよった。


 幸せな夢を見ていたんじゃないだろうか。

 何もかも、妻と過ごした時間は、白昼夢だったんじゃないだろうか。

 地下牢に閉じ込められた二百年なんて、あっという間だったのに。

 君がいない百年は、途方もなく長かった。


 しばらくして元号は平成に。次第に妖怪の気配は減っていく一方で、けれどぼくは生きていた。

 呪い殺す力もなく、完全に猫の姿になるわけでもなく。

 猫の耳を隠すために帽子だけは被り続けて、ただ時を過ごした。

 あれほど妖としてすぐれていた聴覚、嗅覚は、今は麻痺している。今のぼくの五感は、人以下だ。

 そろそろぼくは、死ぬのだろうか。白昼夢をみたまま。

 死ぬから、妻の生まれ変わりのような少女といるのだろうか。



 しばらくぼくらは黙った。雨の音だけが、響いていた。

 沈黙に耐えきれなくなったのか、少女が口を開く。

「あのー……いい、天気ですね?」

 奇しくも妻の言葉とまったくおなじで、ぼくは動揺した。

 しかしすぐに、気まずさゆえの偶然だと思い直す。

「……土砂降りだよ?」

 あ、と少女は声を漏らした。

 しかしすぐに、「いや、いい天気です!」と言い切る。

「だって雨でもなきゃ、あなたに話しかけられなかった気がするんです」

「え?」

「ずっと、あなたと話がしてみたいと思ってました。……ご迷惑でしたか?」

 心配そうにいう少女に、いやそんなことは、とぼくは否定した。

「……どうして、ぼくと?」

「え、理由?! 理由必要ですか!? なかったら私ストーカー認定されます!?」

「いやしないよ!?」

 むしろ見た目的にされるのはぼくでは。なかなかこの子も変な子だな、と思いながら、無理して答えなくていいよ、と返す。しかし少女は、強いて言うなら、と続けた。


「さみしそうに見えたから、『声をかけなきゃ』って……」


 その答えに、ぼくは呆然とした。

 はっと、少女が頬を染めてごめんなさい! と頭を下げた。

「目上の人に、それも初対面になんちゅーことを私!?」

「面識は、お互いあったんじゃないかなあ……」

 声が震えた。

 少女が顔を上げる。


「お兄さん、目……」


 言われて、自分の頬に触れる。

 ぼくは泣いていた。


「……ごめんね、おじさんだからちょっと情緒不安定っぽい」

「大丈夫ですか?」


 そっと、少女がぼくの頬に手を伸ばした。在りし日の妻の様に。


 全部なくなったと思った。

 妻が死んで、娘も、その家族も死んで、なにもかも無になったんだと思った。


 けれど、違った。

 雨の日も。寂しいと思うときも。誰かに心配されるときも。

 ちゃんと、ぼくのそばにあったんだ。

 妻と過ごした思い出の欠片が、この世界のいたるところに散りばめられていた。


「……長生きした甲斐、あったかもなあ」

「え?」

「ううん。なんでもないよ」


 人を呪い殺すことも、妻と一緒に死ぬことも、娘を守り通すこともできなかった。

 妖怪にも、人にも、死者にも生者にも、何者にも属せない。


 それでも、確かにぼくは君のそばで生きていた。

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