第三章 神のいけにえ(3)背徳を知った神
銀髪の剣士は名乗りをあげる。
「神がひとり、フォス・ウィン。義によって参上した。主神ディンスロヴァよ、ここ数百年のあなたはおかしい。何万年も、人々の安寧を護ってきたではなかったか。時を重ねすぎて、乱心されたか」
黒いディンスロヴァは表情を歪めて笑う。
「わがしもべたる神、フォスよ。面白いことを言う。余はここで、なにも変わらぬ人間の暮らしを眺めるのに満足していた。満足していたのだ」
「ならばなぜ――」
「ああ、知ってしまったのだ。この矮小な生き物。人間を叩き潰すのが、至上の娯楽であることを。はじめは事故であった。だが、人間には実に様々な潰しかたがある。それはまだ未知数だ。余は楽しいのだ」
「ディンスロヴァ、あなたは――!」
「フォス、お前の言うとおり、時は残酷だ。ああ、余すらも時からは逃れられぬ。時は余に、背徳すら教えたのだからな!」
黒いディンスロヴァは完全に狂気に堕ちている。説得は不可能だ。
リサは一歩踏み出し、光の槍を喚び出し、それを掴む。それが、ここでは何ら意味をなさないとしても。
そのとき、光と塊となって降り注ぐ存在がもう一体あった。それはまた、神だった。彼の肌は褐色で、髪の色は深紅だった。
「神のひとり、ディオロ。ディンスロヴァへの反逆と知りつつ、人間への義理を立てるべく参上
ディオロの武器は大剣――ひときわ大きな『破壊剣』だった。彼はそれを構えると、その切っ先を黒いディンスロヴァへと向ける。
くくくと、黒いディンスロヴァは笑う。
「フォス・ウィン、ディオロ、なんじらふたりは、束になれば余に勝てるとでも思ったか? 実力差もわからぬなんじらではあるまい」
だが、フォス・ウィンも、ディオロも、言い返すことができない。彼らは勝てないとわかっていてこの場に出てきたのだ。
負け戦とわかっていて、人間を護るために出てきたのだ。リサには、この神々に対して好感が持てた。
しかし、目下、黒いディンスロヴァのそばに膝をついて座っているヴェイルーガを救出する方法が見つからない。
そうこうしている間に、黒いディンスロヴァの背後に天使たちが出現する。
こういうとき、リサはすぐに敵の数を数えてしまう。敵の数、二十四。いずれも『破壊剣』を備えている。以前、神界レイエルスで遭遇した第一階位の天使よりも強い者ばかりだ。
これでは、フォス・ウィンもディオロも迂闊な動きはできない。
そうして、黒いディンスロヴァは言う。
「それに――見よ」
一瞬の出来事だった。彼は『破壊剣』をヴェイルーガの首筋めがけて振り下ろしたのだ。
首が落ちるどころの話ではない。あんな兵器の直撃を受ければ、跡形もなく頭部が吹き飛ぶはずだ。
だが、黒いディンスロヴァの『破壊剣』は、ヴェイルーガの首で止まった。
ヴェイルーガの冷や汗。ミオヴォーナは顔面蒼白。
そしてリサは怒り心頭だ。
黒いディンスロヴァは高笑いをする。
「見たか! 見たであろう! この者は『完全無欠の人間』。余が
さすがに耐えかねたのだろう、リサの背後からミオヴォーナが駆け出す。
「ヴェイルーガ!」
ミオヴォーナはひざまずいてじっとしている姉を抱きしめる。
「面を上げよ」
黒いディンスロヴァにそう言われ、ヴェイルーガもミオヴォーナも顔を上げる。恐怖と不安の入り交じった表情の姉と、目に涙を溜めた妹。
姉妹は絶対者の前で、視線を逸らさなかった。
黒いディンスロヴァはまたおかしそうに笑う。
「人の子よ。運命を弄ばれし、哀れな人の子よ。そこな反逆の神とともに、余を殺しに来い。さすれば、しばらくの間、余が満足している間は、世界は平穏を取り戻すであろうよ」
そう言い残し、黒いディンスロヴァは天使たちを引き連れ、飛び去って行く。
リサにはわかった。これが『人の子』ヴェイルーガを戦いの道に巻き込んだ出来事だったのだと。
なぜ世界は、人を平穏のうちに置いておいてはくれないのか。なぜ、戦いの運命の中に巻き込むのか。
リサは光の槍を消し、ヴェイルーガとミオヴォーナの姉妹を見つめる。命が助かった姉と、それを抱きしめて号泣する妹。このふたりに、『
その場に残った神は、フォス・ウィンとディオロだけだ。ほかにどんな神がいて、黒いディンスロヴァの部下として立ちはだかるか、まるでわからない。
そう、リサはまだ、この途方もない神話の戦いの、始まりの部分を見せられたに過ぎないのだ。
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