第2章

日常

第9話 「今のは日本語でしょうか?」 Aパート

「いらっしゃいませっ」


 自動ドアを入ってすぐ左横のレジに立つ坂口は、来店客を笑顔で迎えていた。


 通勤ラッシュの時間帯は飲料やパンなど少量の買い物をする客が大半を占めるが、数が膨大ゆえ、油断すると即座に行列ができてしまう。その為、レジ担当は常に二人体勢で臨んでいた。


 一人が会計を始めると数人が同じタイミングで並び始めるのは、何度見ても不思議な現象である。


 奥のレジには先輩の北村が立ち、坂口のおよそ一・八倍の速度で客を捌いていた。彼はこの店一番の古株であり、月間の出勤時間は店長よりも長く、誰よりも多くの仕事をこなしている。ほかのスタッフに比べて愛想は良くないけれど、仕事が早いうえに正確なので、客からクレームを言われる姿を見たことはなかった。


『文句を言われないのは、あるいは彼の外見のおかげかもしれないね』


 と、以前に店長がこっそり話してくれたことがある。


 獲物を睨みつけるような北村の眼差しに、商品を受け取る客も一歩後ろに退くことがある。三ヶ月前に坊主にした髪が少し伸びて、現在は短髪の硬い髪を整髪料で固めている。彼はフルタイムで働くと口元に薄らと髭が生えてくるほどに体毛が濃く、休憩時間にはヒゲを剃る姿もよく目にしていた。


 身長は坂口よりも低く(一般的な男性の平均身長よりも、さらに数センチ低いか?)、話しかける際は見下ろす形になるものの、周囲のスタッフが言うには彼の威圧感を加味すると、対等の存在感に見えているようだ。


 朝のラッシュが佳境を迎える頃、レジの前を見覚えのある女性が通った。目と目が離れ、(カエルのような印象の)綺麗な女の子。今日は仕事先に向かう途中なのか、ライトグレーのスーツを着用していた。


 商品を片手に列へ並び、彼女は二分の一の確率で坂口のレジを引き当てた。


「おはようございますっ」


 商品を受け取りながら坂口が挨拶をすると、財布の中身を確認していた足立は驚いて顔を上げた。


「へっ? ……あっ! えぇと」


「坂口です」彼は胸元のネームプレートを見せ、「これから出社ですか?」


「あぁ、……はい。ここから歩いて少し行ったところに会社があるんで」


 坂口からそっと目を逸らした足立は、彼が商品をスキャンする様子を目で追いながらそう答えた。先日会った時に比べると妙に怯えた印象が伺え、話す声も小さかった。


「この店でお見かけするのは初めてですね。以前から利用されていましたか? ――あ、430円になります!」


「引越しをして、最寄駅が変わったんです。前は向こう側の駅を使ってて。えと、……分かりますか? ――あ、すみません。……大きいのしかないです」


 足立は申し訳なさそうに、財布から一万円札を出した。


三船みふね駅ですよね? 分かりますよ。――はい! 一万円お預かりします!」


 入力を手早く済ませた坂口は、レジスターからつり銭を取り出した。お札の確認をしてもらい、小銭を渡すと商品をレジ袋に詰め始める。


「これからは、ちょくちょく利用させてもらおうかなって、……思ってます」


 エメラルドグリーンの長財布につり銭をしまった足立は、照れたように俯いたままそう言った。同時に袋詰めを終えた坂口は商品を手渡し、「はいっ! ぜひまたお越し下さいっ」と元気に答えた。


「ありがとうございました!」


 足立が店を出る姿を坂口が見送っていると、「なに、今の娘知り合い?」といつの間にか背後に現れた北村が尋ねた。奥のレジに視線を移すと、すでに彼が残りの客をすべて捌いたようだった。


「はい。先週越してきたお隣さんです」


 坂口が笑顔で答えると、「へぇ、お隣さんねぇ」と北村は意味深な笑みを浮かべながら、「会社ってこの辺なわけ?」と続けて尋ねた。


「そうみたいですよ。引越しをして、最寄り駅が変わったと話してました」


「ふうん」


 顎に手を遣った北村は、頭の中に周辺の地図を描き、「この近くの駅って言うと、すぐそこの河内かわちと、環七挟んで向こうの三船だろ? その中間付近のちょいこっち寄りだとして、恐らく会社の場所は三丁目辺りってとこだな」と、確信を持って頷いた。


「仕事は何してんの?」


「知らないです。一度挨拶しただけですから」


「じゃあ、今度聞いとけよ」


 北村が当然のようにそう言ったので、坂口の脳内では、漂う思考がメリーゴーランドのように単調な輪を描き始めた。「――それって、大事な情報ですか?」


 首を傾げる坂口を見た北村は、「そりゃ大事だろ」と答えた。


 次いで坂口の方へとにじり寄り、隣でレジ袋を補充する振りをしながら、「向こうは今さっきお前の仕事を偶然にも知った訳だろ? だったら、今度はお前が尋ねてやるターンなわけよ。情報交換ってやつさ。会話のキャッチボールとも呼べるな」


「キャッチボール?」


「おうよ」北村は彼の肩に手を回し、「ちなみに友人の友人は俺の友人だから、何か聞き出せたら俺にも教えろ」


「そういうものですか?」


「そういうものだ」


 北村はニヤついた表情を浮かべ、「お隣さんとは、親しくしないとなぁ」


「あんた、いいかげんなこと言い過ぎぃ」


 在庫チェックで偶然後ろを通りかかった高梨は、彼らの話を聞いていたようで、冷ややかな目つきをしながら北村を見つめた。「口より手ぇ動かしてねぇ」


「うぇっ……」北村は咄嗟に身体を硬直させ、「ま、前出しやってきまーす」と弱々しく答えると、逃げるように去っていった。


「はい、よろしくぅ」と言って彼が去るのを見送った高梨は、坂口に向けて優しく微笑みかけると、また仕事に戻った。


 小柄かつ温和な表情を浮かべている高梨だが、”怒った時は人が変わったように怖い”と皆の間で評判だった。以前にバックヤードで北村が彼女に向かい、何度も頭を下げる場面を見かけたことがある。理由は頑なに教えてくれなかったが。


 坂口に対しては常に優しく接してくれるので、彼女が本気で怒ったところを彼は上手く想像することができなかった。


 高梨は今年で二十九歳になるが、他の同世代の人々よりも比較的幼い顔立ちをしている。北村は彼女の一つ歳上に当たるはずなのに、なぜだか頭が上がらないようだった。

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