第1話 「朝帰りですっ!」 Aパート

「お先に失礼しまーす」


 お客の邪魔にならないように坂口は店内を素早く通り抜け、先輩の北村に向けて挨拶を交わした。


 出入口付近のレジに立つ小柄な北村は、俯いてキャッシュドロアを睨みつけたまま、「ん、お疲れぇ」と生返事をしつつ、素早く札束を数えていた。


 チャイム音を店内に響かせながら、ガラス張りの自動ドアが開く。表に出た坂口は駅へ向かい歩き始めた。春とはいえど、午前中はまだまだ肌寒い。冷ややかな風が頬に当たると反射的に身体が震え、彼は大急ぎでマウンテンパーカーのジッパーを上げた。


 通勤ラッシュも和らぎつつある時間帯、スーツに無表情をミックスした人々はその数を減らし始めている。


 とりわけ、礼服を着た子連れの母親をよく目にした。世間は入学式シーズンであると、坂口は新聞で読んだ記憶がある。子供たちは母親に手を引かれ、居心地の悪い表情を浮かべながら慣れない服の襟に何度も手を触れていた。


 続いて真新しいスーツに身を包んだ一団が前方から群れになって歩道を広がり歩いて来た。女性たちは皆、どこか不自然に黒い髪を頭の後ろですっきりと束ねている。


 対面から隙間なく襲いかかる黒い塊を上手に躱しながら、坂口はようやく駅の改札へたどり着いた。風に煽られた髪を軽く整え、改札を通り抜ける。下り方面であるこちら側のプラットホームに立つ者は少ない。


 電車を待つ間、坂口はリュックサックから小説の文庫本を取り出して読み始めた。朝焼けの中、眠たい瞼を擦りながらこうして本を読むことが彼の習慣となっている。


 線路を挟んで反対側のホームを慌ただしく行き来する人々にふと視線を移すと、その光景はひどくリアリティを帯びており、まるでこちら側は時間の流れを逆行する異端者という感覚を覚えた。


 やってきた電車に乗り込むと、車内は圧倒的に空席が多い。彼はドアを入ってすぐ右の席に腰掛けた。向かいには艶のあるスーツを着用した明るい髪色の男性が座っている。


 男性は窓に後頭部をもたせ掛け、通路の中程まで足を伸ばしたまま熟睡していた。本来は尻を置くべき場所に乗せた背中は、僅かな揺れによりスライドして落ちてしまいそうに見えた。


 左斜め前に見えるドア付近では、花の刺繍の入ったピンク色(正確に言うと、紅梅色……?)のスタジャンを着た若い女性が両耳にイヤホンを挿し、スマートフォンを操作しながら通話をしていた。


 丸みを帯びたショートカットは綺麗な金髪に染め上げられ、口元には真っ赤なルージュを塗りたくっている。


 彼女は一向に座る気配を見せず、時おり大声で笑いながらドアに貼った広告の辺りをしきりに叩いていた。


 『都会では、マナーの多様化が進んでいる』という記事は、以前に目にしたことがある。


 坂口は読書へと意識を集中し、そのまま読み耽った。


 自宅の最寄駅で降りると、坂口は商店街を歩いた。午前中であるせいか、閑散とした雰囲気が漂っている。


 どの店もすでに営業中の札が掲げられているが、通りすがりに店内を眺めると、まだまだ調子が出ないといった様子の店主がのんびり棚の整理や仕込みをする姿が伺えた。


 布団屋のショーウィンドウには頭部がパンでできたヒーローが登場するアニメのキャラクタークッションが数種類並び、寝そべるような格好で彼を見つめている。表で掃き掃除をする丸眼鏡のお婆さんとはいつものように笑顔で挨拶を交わした。


「あらあら。もしかして、今日は朝帰りかしら?」


 お婆さんは笑顔を浮かべたまま冗談半分に尋ねた。坂口はその言葉についてしばし考え、「そうですね。朝帰りですっ!」と笑顔で応えた。


「あらぁ……」お婆さんは仄かに顔を赤らめ、「良いわね、若いって」と小さく呟いた。


 お肉屋は揚げたてのコロッケを店先に並べ始めている。店主が濁声を響かせて坂口を呼び止めたが、リュックサックの中にはすでに弁当が入っているので、必要性を感じなかった。


 その旨を彼が伝えると、「出来立ての方が美味いのになぁ」と店主は呻くように嘆いた。


「どれくらい違いますか?」


 坂口が興味本位に尋ねると、「おっ! そりゃもうっ!――」と店主は張り切って出来たて論を語り始めた。


 五分程度耳を傾けたが、坂口は結局、コロッケを買わずに肉屋を後にした。


 商店街を抜けると、目の前には入り組んだ住宅地が広がっている。そこから自宅へ進む道は大きく分けて二つ、大通りに沿って歩く方法と、目の前の住宅地を抜ける方法である。


 前者は直線で道筋は分かりやすいが、遠回りになる。すでにこの土地の地理を十分に把握している坂口は、細かく路地を曲がりながら住宅地を抜け、自宅に向かう最短のルートを進んだ。


 路地を抜けると大通りに向かい斜めに割り込むような形で合流し、数メートル道なりに歩くと、左側の奥まったところに自宅のマンションが見えてくる。


 マンションの手前に広がった駐車場で向かい合う車両たちは、まるで主人の帰還を歓迎するように、中央の道を境にして等間隔で整列している。スポーツカーやファミリータイプのワゴンなど、車種は様々である。


 エントランスの前には道を塞ぐようにトラックが停まっていた。荷台の部分には引越社の名前と虫のイラストが描かれている。帽子を深々と被り、上下緑色の制服を着た色黒の男性が二人で積荷を下ろし、マンションの中へ運び込んでいた。


 坂口が郵便ポストの新聞やチラシを眺めてからエレベーターホールに向かうと、先ほど荷物を運んでいた二人が戻って来るところだった。すれ違いで乗り込んだ彼は四階のボタンを押し、ドアが閉まるとすぐに上昇を始めた。


 四階に着くと、足元にはブルーのシートが敷かれていた。斜め右方向に見える開けっ放しの扉へと続いている。しばらく不在だったお隣にようやく入居者が入ったようだ。


 坂口は左方向へ進み、自室の扉の前で鍵を開けようとしていると、突き当たりの扉が開いた。中から出てきたのは日本人離れした顔立ちの背の高い男性である。


 寡黙な雰囲気を纏う彼は、坂口が挨拶をすると毎度返事をしてくれる。


「おはようございます」


 いつものように彼が朝の挨拶をすると、男は「どうも」と小声で答えながらエレベーターの方へ向かい足早に去って行った。

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