第2話 喫茶『さちあれ』

 あの頃の自分はとにかく幼かったのだ。

 まるであの黒い塊が、死んだ母が帰ってきたと錯覚してしまうほどに。


 今朝見た夢の続きを思い返し、紺色のエプロンを締め直せば、窓の外から零れる七月の日差しに目を細め、深渕真由子は小さく息をついた。


 夏至――。灼熱ともいえる太陽の刺客に肌を焼かれ、表通りを走る野球男児にとってこの日差しはさぞ地獄のことだろう。

 容赦なく照りつける紫外線に無防備に肌を曝すなど考えただけでも恐ろしい。

 陽炎の如く揺らぐ向こうの通りを眺めれば、カランコロンと暑さに耐え切れずやってきた客がまた一人カウンターの前で注文を取った。


 喫茶「さちあれ」

 それがいま真由子が青春を削ってまで働いている店の名前だ。


 コンビニや有名チェーン店が軒並み連ねて客を確保しようと躍起になるなか。通りを一つ外れただけで都会のやかましさも嘘のように静まり返る。


 晴天と呼ぶべき空模様は憎々しいぐらい大地に降り注ぎ、店の前の芝生は近年問題視されている地球温暖化の影響か、青々とした草木は元気なさそうに枝垂れている。


 それもこれもこの暑さが原因なのだが、環境を破壊してしまうとわかっていても止められないのが人間の性だ。


 ほどよく設定された冷房が、苦みを含んだ香ばしい空気をかき混ぜ、循環させる。


「ほんっと、いい店だなぁここ」


 なんとなくで決めたバイト先だったが、どうやら『当たり』だったらしい。

 人づきあいが苦手な真由子にして、自分でも驚くほど珍しく抵抗なく店の雰囲気に溶け込めていた。


 誰もかれもが必要以上に真由子に関わらず、かといってお客さんはみな新人の真由子の接客ぶりを温かい目で見守ってくれている。

 店長も真由子の関わる『体質』に深く関わってこようとはせず、「ゆっくり慣れていけばいいから」と優しい言葉を掛けてくれた。


 所詮は一介のバイト風情にすぎない真由子だが、それでも人の役に立てているという事実は純粋に嬉しいものだった。


 店内に流れる落ち着いたBGMを聞きながら、慣れない手つきでテーブルを拭いていけば、カランコロンと独特な鈴の音に誘われてきたお客様を出迎える。


「いらっしゃいませー」


 そうして、まばらに入ってきた客のオーダーを受けながら慣れない仕草でカウンターに注文を飛ばしていれば、


「まーゆーこっ!!」


 背後から伸びた手のひらが真由子の胴体を鷲掴んだ。

 驚き身をすくめて振り返れば、そこには同じ高校に通う女子高生が立っていた。


「にっしっしー。やっほー真由子おどろいた?」


 小さな唇を大きく開き、独特な笑い方で指をワキワキさせる友人に真由子は堪らず声を上げた。


「ちょっと神無。いまバイト中だから来ないでっていたっでしょ。なんで来るのよ」

「ふっふっふーよいではないかよいではないかー。わたしも久しぶりにあんたの働く姿が見たくなったのよー」


 冗談めかして肩を揺らす同級生に、真由子は小さく肩を落とした。

 萩村神無は富士見ヶ丘高等学校に通う三年生で、真由子の数少ない友人の一人だ。


 童顔で、目鼻立ちのしっかりした活発な顔立ちの小麦色の肌がよく似合う体育系女子。ポニーテールに結ばれた髪を背中で揺らし、真由子にすり寄る様はまるで大型犬のようで扱いに困る。

 部活帰りなのか、制服姿の彼女の身体から僅かに漂う柑橘系の清汗スプレーの香りが鼻腔をくすぐった。


「神無、なにかいいことあった?」

「ふっふっふーわかってるくせに。まあとりあえず案内してよ。もーお腹ペコペコでさ。はやく店長さんのご飯が食べたい」

「はいはい。それではこちらになります。あと周りのお客さんに迷惑だからもっと声を抑えてね」

「りょうかーい」


 彼女は自分の身体に振りかけた香りで一日のテンションが決まるという奇妙な鉄則を持っているため、その日の機嫌がわかりやすくて助かる。

 柑橘系の香りは彼女が一番好きな香りなので、どうやら今日は何かいいことがあったらしい。

 店内のBGMに合わせて上機嫌な鼻歌が背後から聞こえてきた。

 

「いやー毎度のことながら雰囲気のいいお店だねー。ここ数学のみっちーも利用してるらしいし、なかなかの穴場だよ。美人のバイトさんもいるしね」

「そりゃどうも。でも、おだてたってなにもおごらないよ」

「ぶーっ、けちー」


 ザッと店内を見渡すように視線を巡らせる神無。

 夏休みに入って通算三度目の来店だが、どうやら店のシックな内装が気に入っているらしく真由子のシフトが入っていない日も時々入り浸っているらしい。

 促すように奥のテーブル席に案内してやれば、席に着くなりテーブルに突っ伏す神無から豪快な腹の音が鳴り響いた。


「ふはぁーあづぅー。そして腹減ったー。真由子や飯くれー腹減ったー」

「はいはい。こちらがメニュー表になります。それで……、選抜の結果はどうだったの?」

「おっ、それいま聞いちゃいます? ふっふっふー聞いて驚けもちろん合格じゃー!!」


 そう言ってVサインを作るあたり、ご機嫌の理由はこれだったらしい。

 三年最後のソフトボール選抜試験。

 富士見ヶ丘高等学校は都内でも有数の強豪としてしられているゆえ、毎年、強者が集うわが校では部活のレギュラーに入れるだけでも大変なのだ。

 この喜びようだと、無事に高校最後の大会のレギュラー入りを果たせたらしい。


「いやー、真由子の言う通りお守り持っておいてホントよかったよー。なんせ緊張でガッチガチだった体が軽いのなんのって。真由子って結構お守りに詳しいよね。あれどこで買ったの?」

「それは秘密って言ってるでしょ。で、ご注文は?」

「んじゃ、とりあえずカップチーノとサンドイッチで。ああ、あと真由子のおススメデザートがあったらそれもついでにヨロ。いやーもうお腹ペコペコでさーとにかく何でもいいからお腹に入れたい」

「はいはい。それじゃあちょっと待ってて。すぐ作ってもらうから」


 はにかんだように笑う彼女の声に送り出され、カウンターを覗けば初老の男性がちょうど珈琲を入れ終えたところだった。


「店長。サンドイッチとカップチーノ。それにイチゴショートケーキ一つお願いします」

「ああ、承ったよ真由子ちゃん。五分待ってくれるかな?」


 柔和な声がカウンターから響き、反射的に頷けば柔らかい笑みが返ってきた。


 芳原店長。

 喫茶店『さちあれ』のオーナで、いつもにこやかな笑みを絶やさない、真由子にしてみればとても人当たりの良いおじいちゃんだ。

 糊のきいた白いYシャツに黒いベストと蝶ネクタイ。

 白髪交じりの髪をオールバックに後ろに流し、年季の入った両手が紡ぎ出す所作の一つ一つがまるで骨董品でも見ているかのようで、女の自分でも渋くてかっこいいと思わせる何かがあった。


 少なくとも、文化祭での男子たちが行った模擬店をごっこ遊びと称するなら、やっぱり本職は違うのだと実感させられる。


 すると白いティーカップに温めたミルクを注ぐ店長から、唐突に声を掛けられて驚き肩をすくめてみせた。


「真由子ちゃん。そろそろここの仕事には慣れたかい?」

「え、あ、はい。おかげさまでなんとかやれてます」

「はははっ、そうか。それはよかった。初めの面接で堂々と接客業は苦手ですなんていうから大丈夫なのかなと思ったけど、心配なかったみたいだね」

「ははは、あの時はご迷惑をおかけしました」


 気まずそうに頬を掻けば、店長は白い歯を見せて小さく笑ってみせた。


 確かに我ながらあんな酷い面接でよく受かったものだと、店長の懐の大きさには感心させられる。

 人嫌いで、必要以上人間関係を広げたくない真由子にとっては接客業はまさしく地獄だ。なぜわざわざカフェでバイトしているのか自分自身も理解できないが、直感でここしかないと履歴書を提出してしまった以上はどうにもできない。

 真由子ものっぴきならない事情で一年でどうしてもお金をかき集めなければならない理由があるのだ。


 しかし幸いにして、自分の体質が異常に反応するという事件はここ最近は起きなかった。


「このあと神無ちゃんと一緒にお出かけかい?」

「はい。なんかわたしに相談があるらしくて。ついでにこの後ショッピングに駆り出されるみたいなんで、洋服の着せ替え人形にさせられそうです」

「ははっそれは可愛らしいね。せっかくの夏休みなんだ楽しんでくるといいよ」

「ありがとうございます!!」


 そう言って壁に立掛けられた時計に視線をやる店長。

 もう上がっていいよ、という言葉に甘えさせてもらい紺色のエプロンを脱げば、真由子は手を振る店長に挨拶を交わして奥の小さな更衣室に入っていった。


 焦る必要もないのだが、部活で忙しい神無との久しぶりのショッピングだ。


 動きやすい黒のジャージパンツと白の襟付きのチェニック。

 どちらもクロムラで買った商品だが、フリフリした格好が好きではない真由子のために神無が選んだ自慢の外着の一つだ。

 Yシャツを脱ぎ、しわが寄らないようにハンガーに立掛ければ、手早く着替えを済ませて更衣室の扉を静かに開け放った。


 するとにこやかに頬にしわを寄せる店長と視線が合い、カウンターの上に二人分のカプチーノとサンドイッチ。それから大きなイチゴが乗ったショートケーキが用意されていた。


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