第31話 木漏れ日の参道で
2019年(平成31年)4月14日
~東京~
平滑に仕上げられたコンクリートの床の隅には、掃き切れない埃が積もっている。
窓の無いガランとした室内を照らす白熱電球が、弱々しく黄色い光を放つ空間には、わずかなカビの臭いと共に、ピリッとした緊張感が漂っていた。
「はい、そうですか、ええ、ええ。」
スマホに向かって返事をする声からは、失望の響きが漏れる。
「はい、4月25日ですね、はい、分かりました、よろしくお伝えください。」
スマホを片手に丁寧にお辞儀をした崇継は、画面をタップして通話を終了すると、一つため息を吐き出してから、顔を上げた。
「ありがとうございました。」
崇継は礼を述べ、スマホを菜々に返す。
「どうだった?」
「宮司は会合で不在だそうです。」
「なんやもぉ!」
「デ、いつ帰ってクルッテ?」
「4月25日です、一応アポは取りましたが、僕の名前はだせないので、半次郎さんの名前を使わせてもらいました。」
「十日以上先か、長いな。」
「何言ってるんだ、十日なんてあっという間だぞ!」
「そうよ、そうよ!」
「だいたい、君たちは張り詰めすぎなんだ、そのままだと、そのうち気持ちの糸が切れちまう。」
「そうよ、そうよ!」
「でも、おじさん。」
「<でも>は無しだ、翔。 今日くらいは、気晴らしに出かけてこい!」
「でも、危険が…。」
崇継が意を唱える。
「<でも>は無しよ、崇継くん。」
「は、はい。」
崇継は、菜々にはどうにも頭が上がらない。
「ほんなら、東京のラーメンば廻ってみるかね、道場破りたい。」
崇継が目を輝かせてダニエルを見ている。
「タカくんも来るね?」
それに気づいたダニエルが崇継を誘うと、嬉しそうに返事をした。
「ハイッ!」
「ボクはアキハバラだ。」
レオナルドの行き先は、まぁ、予想通りの選択だ。
「翔はどげんするね。」
「俺はちょっと試しておきたい事があるから遠慮するよ、気が向いたら合流するかもしれないから、ラーメン屋の候補を教えといてくれ。」
「了解バイ!」
ダニエルはそう言うと、ポケットから手帳を取り出し、スラスラと幾つかの店を書いて翔に渡した。
「順番は適当バイ。」
「じゃあ、連絡する。」
「ジャア、行ってクル。」
楽しそうに出かける三人の背中に声を掛ける。
「気を付けろよ!」
三人は、右手を上げて答えた。
「おじさん。」
翔は、三人の後姿を見送ると、半次郎に切り出した。
「右回りと左回りの話なんだけど…。」
「あぁ、それか、昨日屋根裏から秘伝の巻物を全部引っ張り出して来たから、今日から早速調べるよ、心配するな、きっと何とかなる。」
「俺も考えたんだけど、左回りの気をもっと強くできれば、大丈夫なんでしょ?」
「おいおい、いいか…。」
半次郎は、翔の真剣な目を見て、続きを飲み込んだ。
「まぁ、理論的にはそうなんだが…。」
「じゃあ、俺、訓練してみるよ!」
翔は、そう言って店を飛び出していった。
「理論的には?」
その様子を見ていた菜々が半次郎に尋ねる。
「左回りの気はほぼ才能だ、努力して増やしたり、発現できるようになるものじゃない。」
「じゃあ、どうしてそう言わなかったの?」
「言えるか? 今のあいつに!」
「…そうね。」
菜々は悲しげに半次郎の隣に寄り添い、半次郎は左手で菜々の肩を抱いた。
「それに、それを知ったら、きっと別の方法を探るだろう。
その結果、もしアレにたどり着いたら…。」
半次郎は、恐れを帯びた視線を、白い手袋の下の右手に向け、うわ言の様に呟いた。
「アレは危険な賭けなんだ、リスクが高すぎる…。」
<服部茶房>を飛び出した翔は、鬼子母神の正面の階段を登り、銅鑼を叩いて参拝した。
低い籠ったような低音の銅鑼の音が、優しく耳に響く。
雑司ヶ谷にある<鬼子母神堂>は、距離にして200mほど離れた所にある
<法明寺>の飛び地に建てられたお堂だ。
500年近い昔、山村丹右衛門という侍が目白台辺りの井戸から鬼子母神像を掘り出したのが始まりとされている。
何故井戸からそんなものが出てくるのか不思議だが、モノゴトの言い伝えというのは得てしてそういうものだ。
国の重要文化財にも指定されている<鬼子母神堂>は、平日は閑散として参拝客の姿もまばらだが、それが却って厳かで居心地の良い空間を作り出している。
境内にある<上川口屋>という駄菓子の売店は、レトロを通り越してオンボロという趣があるが、江戸時代中期の創業で、日本で最も古い駄菓子屋とも呼ばれている。
普段は老婆が一人で店を切り盛りしているが、店頭に居ない事も多く、その時は店番の猫が来訪者の相手をしてくれる。
翔は、店番の猫に軽く会釈して挨拶すると、団子などを販売している<大黒堂>の横の坂を下り、表参道を左に進んだ。
閑散としているとは言え、人っ子一人居ないという訳ではないので、訓練の場所には適さない。
そのまま道を進むと、<法明寺>の参道に入る。
参道の両側は桜並木だ。
あいにく、満開の桜を見るには少し遅かったが、翔は、桜が散った後の新緑の緑が好きだった。
生命力に溢れた緑色とそこから差し込む優しい木漏れ日の参道を歩いていると、不思議と心が軽くなる。
参道での短い森林浴を終えると、趣のある山門が出迎える。
正式名称を<威光山法明寺>。
山門を抜けて境内に入ると人の姿はない。
(ここなら人目を気にせず訓練できる)
翔は左巻きを意識して、気の流れをイメージする訓練を始めた。
**********
(バカな人…)
蜂谷薫は、しばらくの間、訓練に勤しむ翔の様子を山門の影から見ていたが、やりきれない気持ちになって目を伏せる。
なだらかなカーブの長いまつ毛が、憂いを帯びてそっと震えた。
(あの努力の先に何があるというのだろう?)
やりきれない疑問を抱えて、左手の墓地へと続く道の手前にある石段に腰かける。
すると、春の日差しに誘われた呑気な猫が、どこからともなく表れて、落ち着ける場所を探してのんびり歩いている。
(こっちにおいで。)
無言で差し出された手を見て動きを止めた猫だったが、興味を引いたようでゆっくりと近づいてくる。
(やった!)
薫の指に鼻を近づけてクンクンと臭いを嗅いでいたが、危険はないと判断したのかペロペロと舐めはじめた。
ザラザラとした猫特有の舌の感触を堪能していると、薫の膝の陽だまりを発見して、飛び乗って香箱座りに寛ぐ。
その丸い後姿を慈しむ様に眺めながら背中を撫でていると、突然声を掛けられた。
「また、サボッてるんですか?」
振り向くと、翔がにこやかな笑顔で立っている。
「今日は授業がひとコマだけなんですよ。」
慌てて猫に視線を戻して、平静を装う。
「猫、好きなんですか?」
翔はそう言うと、薫の隣に腰かけ、膝の上の猫の喉を撫で始めた。
猫はゴロゴロと喉を鳴らし、恍惚の表情で目を閉じている。
「服部翔です。」
薫は、猫に向ていた視線を、翔に戻した。
「みんなは、ショウって呼びます。」
猫を見つめる翔の、無邪気な笑顔が眩しい。
無言の間が<あなたは?>と問いかけているような気がして、薫は自ら名乗った。
「私は…カオルです。」
「カオルさんね、よろしく。」
そう言って翔は、猫の頭を軽くポンポンと叩いた。
「ショ、ショウさんは、何をしてるんですか?」
気恥ずかしくなった薫は、何気ない質問をする。
「実は探偵なんですよ、仕事で出張中なんです。」
「そっちがサボりじゃないですか!」
「違いますよ!探偵の仕事って、傍目にはそう見えるだけなんです!」
必死の弁明が可笑しくなって薫は噴き出した。
「そういう事にしておきますよ。」
そう言うと、悪戯に微笑む。
猫の大きなあくびが、穏やかな空気を更にゆったりとしたものにていく。
「お寺に参拝するのもお仕事ですか?」
「あぁ…あれは…」
翔は少し考えた後、静かに、しかし、力強く答えた。
「失ったものを取り戻そうとしてるんです。」
(この男が取り戻そうとしているのは、生きる理由だ…)
生きるための心の拠り所、忍者がそれを自分の術に求める気持ちは、薫にはよく分かった。
世の中にはそれを<愛>に求める人間も多いが、それは<馴れ合い>だ。
薫もこの前まではそう思っていた。
(今はもう何も分からない、私は何のために生きているの?)
薫には、一度失った生きる理由を取り戻そうと、もがいている翔が少し羨ましくもあった。
(だが、術が戻らなかったら、この男の生きる理由は?)
不意に胸が締め付けられるような気持ちになる。
「もう行きますね。」
薫は気持ちを悟られそうな気がしたので、猫を持ち上げて翔に渡して歩き出した。
「じゃあ、また!」
背中越しに飛び込んできた声に振り返ると、猫を抱きかかえた翔が、前足を持って左右に振っている。
穏やかな光景に、胸の奥が暖かくなり、薫の笑顔が木漏れ日の中に弾けた。
**********
「ただいま~。」
翔が<服部茶房>に戻ると、何やら店内が騒々しい。
「おう、お帰り~、今地下の模様替えやってるんだよ、簡易ベッドだけどこれで寝袋からは解放されるぞ!」
「それはありがたい! すぐ手伝います!」
地下に降りようとする翔を、半次郎が手で制す。
「お前はあっちだ。」
賑やかなイートインコーナーの方を指さして、顔をしかめる。
「翔には変わった友達が多いんだな。」
「友達?」
するとイートインコーナーから、落ち着いた雰囲気の服部茶房に似つかわしくない声が聞こえて来た。
「せやろ、せやからウチ言うたったんや!『頭パッカーン割って、脳みそストローでチューチューしたろか!』て。」
「…谷本!?お前何でここに?」
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