乙女の真実 3
辻馬車を拾ったが、誰も明確な行先は思いつかなかった。
ロッテはというと鞄を抱きしめたまま黙り込んでいる。肩を落とした横顔を見るのは心苦しいけれど、逃亡しようとする気概はもう感じられない。一先ずのところ落ち着いて話ができさえすればと、フローレンスが提案したのは意外な場所だった。
「コフ河沿いの倉庫通りへ。父の事務所を使おう」
御者に伝え、馬車は走りだす。
ウィリーは固い背もたれに寄りかかると、興味深そうに眉を上げた。
「お前の親父さん、たしか画商だったっけ? いいのか? 連絡もせずに押しかけて」
「父は留守だ。最近は長く大陸の方に出かけている。注目している画家がいるそうだ」
「へぇ、息子の展覧会より大切なものが他に?」
「まぁ、そういうことだ。父は権力とか伝統とか、そういうのが大嫌いだとしばしば口にしていたよ。僕がゴルド先生に師事すると言った時も実は渋い顔だった」
ロッテは暗くなった窓の外を眺めている。日没後の港町はか細いガス燈のあかり以外ほとんど何も見えない。さざめく波の音も、腹に響く蒸気船の振動も、もう車輪の音に上書きされてしまった。
§
シティから20マイルほど離れた郊外の倉庫街。コフ河の眺めの美しい通りに、フローレンスの父親の事務所はあった。
雨さえ降っていなければ、沈みゆく夕日が川の水面に反射して、煉瓦造りの建物たちはますます美しい緋色に染まったに違いない。
長らく留守だというとおりアパルトメントの中は生活の気配がなくどこか寒々しい。
「たしか、このあたりに灯りが……」
「あ、私が」
マッチを擦って燭台に灯す。橙色の炎は、張り詰めていたものを和ませてくれる。
いくつかの蝋燭に火を灯し、フローレンスに断りを入れてから備え付けの小さなキッチンで湯を沸かし始める。
こういうときに必要なのものは、温かいお茶だ。
人の出入りの少ない事務所とはいえ、茶葉もカップも一応用意されていることに安堵して、私は人数分のカップを温めた。
ティーセットを銀盆に載せ、こじんまりとした応接室に向かうと、3人は向かい合って座ったまま無言で待っていた。やっぱりお茶をいれてよかった。ほっと息をつきカップを傾ける三人を見てそう思う。沈黙の色が変わったように感じる。
「──ミス・ブラウン。トランクの中身を見せていただいても?」
カップを置いたロッテは、しばらく鞄の柄を握りしめて佇んでいた。やがてゆっくりとそれを机の上に置くと、錠前を捻った。
ここまで来て、まさか何もないとは誰も思っていない。
期待のような不安のような、揺れる想いで私たちはそれに注目している。
「……──これが、『春』です」
ロッテはそう静かに呟いて、梱包されたキャンバス布地を引き出した。
その絵を前に誰もが目を奪われ、言葉もなく、ただただそれを見つめていた。
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