失くしもの 6
私は青い瞳から逃げるように慌ててティーセットを片付け始めた。
「私などのことは、別に」
「興味があるんだ。僕の家にはメイドなんていなかった。こんな風に
(興味があるって言われても……)
胸を張って語れるようなことなど何もない。
私は、自分の父親がウェーリの出身であること。幼い頃、母と一緒にシティに戻ったこと。貧しくはない家だったが、母を助けたくて女学校を卒業してすぐ貴族のお屋敷で働き始めたこと。運よく王宮メイドの紹介状を勝ち取ったことなどをおずおず語った。
「なるほど。じゃあこの仕事は? 楽しい?」
私は俯いた。まだほんのりとハーブティの温もりを残した白磁のポットを、両手で包むようにしてそっとトレイに載せる。
「……楽しいとか、楽しくないとかは、あまり考えたことはない、です。考える暇もないほど忙しい時期もありますし、真面目にやらないと周りに迷惑がかかるし。ここにいる限り衣食住には困らないし、何より使えないメイドに明日はありませんから」
「厳しい世界なんだね。君たちも」
「あ、あの、でも、最近は……その、楽しい、です」
本音がぽろりぽろりと口から零れ出る。
宝石のような青い瞳は瞬きもせず、私を眺めている。
「実は私、フローレンス様の絵が、好きでしたから……。本当ですよ。美術館で観て、衝撃的で……忘れられなくて」
「へえ。今までそんなこと一度も言わなかったじゃないか」
ゆっくり髪をかきあげて、彼は少し表情を緩ませた。その眼差しを向けられることが、なぜだかとてつもなく恥ずかしい。私は彼の視線から逃げるように背を向けた。
「ふぅん、そっか。で、どの作品?」
「あ……えっと、『ウェーリの荒れた冷たい海』、それから『花と宮殿』」
「ああ、それね。他は? まだある?」
「あ、はい……初期なら『白い花瓶』、『アルジャンクストンの帆船』、最近のものだと『風に乗る日傘』、『コフ川の館』」
「なんだ、詳しいじゃないか。へえ。具体的に、どこがいいの?」
「ど、どこって」
「僕の絵の魅力って、何?」
「そ、それは……、抜きん出た画力、とかじゃないでしょうか」
「着色のこと? それとも構図? 色?」
「構図……? わかりませんが、静物画だと、独特の色彩、というのでしょうか……私は色が好き、です」
彼の描く絵にはどれも、何か誘惑めいたものがあるように思う。
私のようなただのメイドであっても敷居の高さを感じさせず、ひと目惚れに近い感覚で視線を奪っていく。あの美しさの裏には何かとんでもない秘密が隠されているんじゃないか、と――気が付けば足を止めて、隅々まで余すことなく、食い入るように見てしまう。彼の世界観にどっぷり浸ってしまっている。
「『白い花瓶』は、しっとりと潤った塗りが、花瓶と室内の優しい生活感を表しているように思いました。あんな部屋に住みたいなって思うような……身近な憧れ、みたいな。それから、風景画は静物画とはまた違って、一目見ただけでその写実的な迫力に圧倒されてしまうんです」
観客たちは、描かれているモチーフを通じて、絵画の中に起こっているストーリーを想像する。今にも波に飲み込まれそうな船に思いを馳せ……まるで船員の家族になったかのような気持ちで、あの船の無事を祈る。
日傘で溢れたストリートで、貴婦人たちは何を思ってお互いを見つめているのか、絵の前で立ち止まって考えてしまう……。いつの間にか、頭の中はレイ・フローレンスの絵のことでいっぱいになる――。
──などという講釈を、本人の前で熱弁することになるなんて。
とにかく恥ずかしくて仕方がなかった。ただ作品のファンだと伝えるだけなのに、どうしてこんなにも――まるで愛の告白のような気持になるのだろう。
「――もう、ご勘弁下さい。夕食の支度に遅れてしまいます」
私は火照る頬を押さえた。
「うん、わかった」
フローレンスはため息をついた。それは落胆ではなく――たしかに満足そうな雰囲気のものだったので、私は胸をなでおろした。心の中を正直に話すというのは、こんなにも神経を使う物なのだろうか。同時に、私の胸はこの上なくドキドキしていた。
彼は古いスケッチブックを掴んで椅子を立った。
「少し、奥の部屋で描いている」
「はい。ご入用でしたら、ベルを」
フローレンスに出会うまで、画家が毎日何をしているのかなど、想像もしたことはなかった。
見たことのない道具を使って、あっという間に大きな絵が完成していく過程を見るのは、まるで魔法のようで。
あの静かなアトリエで、フローレンスが描きあげてくる絵が、私の日々の楽しみになっている。
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