花とメイドと宮廷画家 盗まれた乙女の肖像

絵鳩みのり

むかしのはなし

プロローグ

 薔薇の咲く季節になると思い出す。

 まだ私が、ウェーリの丘の上にあるお屋敷で、お嬢様と呼ばれていたときのこと。

 あの人と過ごした、最後の春の日を。




「こっちよ、早く!」


 満開の薔薇庭園を駆け抜ける二つの影。

 6つくらいの私と、それより少し年上の少年。色鮮やかに咲き乱れる花には目もくれず、緑色のアーチの下を手と手を取り合いひた走る。


「早くってば! お父様に見つかったら大変なんだから!」

「待ってよ、お嬢様。棘に引っかかったらドレスが破けてしまうよ」

「いいの。早く、早く見せたいの」


 庭園を横切り、息を切らせて辿り着いたのはガラス張りの温室。周囲に警戒しつつ、普段は庭師しか使わない裏口に回り込んで内部に彼を誘った。


「わ、ここは?」

「オランジェリーよ。お父様の新しい趣味」


 温室の中は、汗ばむくらいの湿度と、土と草と花の匂いに満ちている。ドレスを着こんでいると少し息苦しいくらいだ。

 南国の木が珍しいのか、少年はきょろきょろと辺りを見渡した。「こっち、こっち」と彼の背を押して、隅っこにある小さな囲いに彼を案内した。

 庭師がこっそり作ってくれた、秘密の花園。

 私のための、ささやかな花壇へと。


「ほら、見て! 芽が出たの! 私が種をまいたのよ」

「へぇ、本当だ。やるじゃないか、お嬢様。で、何の種?」

「それはわからないの。誕生日に、おばあちゃまからいただいたんだけど」


 私は日傘を畳んでその場にしゃがみこんだ。やわらかく密に茂る小さな双葉たちがいとおしくて、手袋を外して直に葉に触れる。粒のように丸い葉は、しっとりしてくすぐったい。


「これ、何が咲くと思う?」


 小さい私は、種を見せて大人たちに聞いて回った。けれど彼らは訳知り顔で微笑むばかりで、答えを教えてはくれない。


「もしかしてあなたには、これが何の芽かわかる?」


 顔を覗き込むと、彼はゆるく首を振って微笑んだ。


「わからないけど、きっと可愛らしい花が咲くと思うな」


 声変わり前の不安定なアルトボイスでそう言うと、彼はやわらかな畝をはさんで、私の向かい側に座りこんだ。


「――あのさ、お嬢様。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

「なぁに? 改まって」


 ウェーリのお屋敷を訪れる子どもは少なかったから、私と彼は唯一の遊び仲間だった。少なくとも私はそう思っていた。

 もう少し年が離れていたら、もっと他人行儀な関係だったかもしれないけれど。

 私は貴族の令嬢として学ぶべきこと、やるべきことに縛られ始める前のぎりぎりの年齢。

 大人にならなければならないのはやはり、年上の彼の方が少しばかり早かった。


「ぼく、来月からレイングランドの美術学校に通うことになったんだ」


 後世まで名を残す偉大な画家になる、というのは彼の口癖。さんざん聞いてきたから、名門校への入学は我が事のように嬉しい。


「まぁ、すごい! おめでとう! ついにお父様の説得に成功したのね」

「うん……」


 それなのに彼は革靴の先を見つめたまま、黙って俯いてしまった。

 ようやく壮大な夢の第一歩を踏み出すことになったのに、その表情はあまり嬉しそうには見えない。


「どうしたの? 嬉しくはないの? もしかして、こわぁい先生がいらっしゃるとか?」

「そうじゃないけど……。実は、ここに来られるの、今日で最後なんだ。引っ越すんだよ。海の向こうのあの国へ」


「あ、」と口を開いたっきり、私は何を言ったらいいかわからなくなって、彼と同じように口をつぐんだ。


 別れの日は、思ったより早かったのだ。私は陽の下で庭いじりを楽しめる少女で、彼はそれにしぶしぶ付き合ってくれるよき兄貴分なのだと、こんな日はまだまだ続くのだと、そう思っていたのだけど。


 2人はしばらく、温室に満ちる花の香りと、外から聞こえる鳥のさえずりだけを感じていた。


「……だからさ、最後にお願い。その、お嬢様の肖像画を、僕に描かせてほしくて」


 肖像画。――私の?


「ど、どうして?」


 彼は照れ臭そうに視線を逸らして、小さな芽を手で撫で続けながら言った。


「お嬢様の肖像を一番に描くのは、僕がいいなって……ずっと思ってたんだ……まだ、半人前だけどさ」


 それは、少年なりの精いっぱいの愛の告白だったのかもしれなかった。

 幼かった私にはそれがわからなくて、ただただあの場を包む甘酸っぱい雰囲気が気恥ずかしく、「あら、そう」だなんてすました返事をすることしかできなかった。


「今から?」

「そうだよ。画材道具も持って来たんだ」

「屋敷の中で描くのね」

「できれば普段どおりのお嬢様の姿を描きとめたいなって思って」

「じゃあ、戻らなくちゃ。あっという間に日が暮れてしまうもの」

「うん。急ごう」


 手と手を取り合い、明るい薔薇園を歩く私たち。さよならのときは近いのに、それを考えたくなくて、私はことさら機嫌よく振る舞っていた。


「こんな感じに座ればいいかしら? とびきり綺麗に描いてよね」

「ははは。お嬢様はいつでも可愛いよ」


 スケッチブックに向う少年の、真剣な眼差し。

 彼が私を見つめて、私は彼を見ていた。

 吐息すら聞こえるほど、静かに、穏やかに。風すら吹くのをやめたかのような午後だったけれど、それでもやっぱり時間が止まることはない。


 そうして完成したスケッチを、彼は私に見せてはくれなかった。

 

「大切にする」


 ただ、それを抱えて本当にうれしそうに微笑んでくれたこと。頬を染め、最後の握手を交わしたことを、今日の日まで、忘れることができずにいる。




 あの絵は、ちゃんと完成したのかしら。

 できれば生きているうちに、お目にかかりたかったわ。


「ああ、春ねえ」


 私は窓の外、遥か海の向こうに旅立ってしまった人を思って、ベッドの上で目を閉じた。



 



    

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