第1話
目覚めて起き上がる。
健康な人間が眠りから覚めたらなんの疑問も抱かずにやる単純な動作は、絶大な期待感を含んだ、どよめきによって出迎えられた。
白い石でできた寝台が一段高い場所へ置かれていたせいで、望んでもないのに注目を一身に集めている。石でできているにしては寝心地は悪くなかった寝床に戻りたくなったが、そういうわけにもいかない。観衆に嫌というほど見つめられているからだ。
寝台と同じ白い石の床、壁、円柱から曲線を描いて繋がった、とんでもない高さの吹き抜け。遥か上の天窓から差し込む光がまっすぐに降り注ぎ、こちらを見つめる者たちは目を細めていた。
見られている。なにかやった覚えもないのに知らない大勢に囲まれている。
思わず出そうになった舌打ちを押さえ、一体なにがどうなっているのかと誰かにたずねようとした時だ。
「我らが救い人の覚醒を、お祝い申し上げます!」
手前の一列、灰色の
要らない称賛に返す言葉はない。元より、起き上がっただけでこんなことをされる理由が見当たらない。かき集めたわずかな記憶にも心当たりはなかった。
というか本当に、己の記憶が一切ない。
今さらだが、自分が何者かが分からない。
寝ながら聞こえてきた、たぶん
名前も何も思い出せない。どこから来たかと自分に問えば、地球の日本だと返ってはきたが、そこから先の詳細がまったく浮かんでこなかった。
完璧な記憶喪失。
いいや、これが記憶喪失だとか、ここが異世界だとかは認識できている。ということは、この時点で分かったのは物事すべての記憶が失われたのではなくて、自分という存在の名前や思い出が己の中からなくなっているということだった。
どうする? この状況を、どうしたらいい?
物凄く厄介なことになりそうだと、心の声が舌打ちしながら訴えかけてくるのだけれど。
こちらの困惑など知ったことではないのだろう。すぐに始まった長い眠りからの目覚めをねぎらう者たちの行列に、なんと言っていいか分からぬまま無言で返す。行列に並んだ人々はそれでも一向に構わぬようで、順繰りにあいさつを終えると立ち位置へ戻って行った。
おめでとうございますか、ありがとうございますの祝賀の一言を言い終えて待つ者たちを、それとなく観察する。
長い裾を床に引きずったお揃いの灰色外套の一列には、相当な年配者と、そのひ孫くらいの年頃の子が混じっている。祝いと感謝の言葉だけで誰も名乗らないので断定はできないが、神官か学者らしい。
地味な見た目の後ろへ控えた、色とりどりの衣をきらびやかまとった美男美女の一団からは、代表者らしき数名が前に来た。こちらも誰も名乗らない。そういう決まりでもあるらしい。
さらにその後方、広間の奥から兜を小脇に抱えて遠巻きにこちらを見つめる豪奢な甲冑連中は、一人も前へは出て来なかった。代わりに全員が息を揃えて「我らが救い人の覚醒を、お祝い申し上げます!」と、初めに灰色外套が言った言葉を繰り返す。
その後は他の者たちのあいさつの間と同じ、警護しに来たついでに目の保養をしているらしく、美男美女を遠慮なしにながめ回していた。
確かに、薄着の彼彼女らは鎧や外套で身を覆っていない分、その見た目からくる違和感の正体がよく見える。
金銀赤毛に青緑、黒茶に灰と髪も色とりどりなら、顔形に体型も様々な者たち。瞳も肌の色も着飾った服と同様に、きらびやかだ。
ふと思い浮かんだ人種のるつぼなんて言葉では言い表せないくらいだった。人種というか、種族と言った方がいいのだろうか。動物たちの特徴を持つ者も多い。
髪飾りの下からウサギやキツネに似た大きな耳が見えている者もいれば、耳そのものが長くとがった者や、頭に角があるのもいる。短い服の裾から大きな尾が出ている者もいるし、尾や耳の特徴が無いならないで、髪色に負けじと体形が作り物のように派手なのだ。
地球産の身からすれば違和感しかない。絵から飛び出して来たかのような現実離れしている容姿をさらした、きらびやかな連中はというと、こちらをやけに凝視していた。
ほころぶ口元を袖で隠して何事か、ささやきあっている。この様子からすると出迎えの儀式で舞でも踊るはずが、出番までが長くて飽きたと見える。
彼らにとっては、いや、ここにお集りのみなさんにとっては、こっちこそが見世物なわけだ。
なんにも分からないまま大勢の人に囲まれている、この状況が落ち着かない。記憶がない自分に、記憶にない自分から気を付けろと声がする。
注目のされ方が異常だ、訳もなく与えられる称賛など信じるな。
そう告げられているような居心地の悪さが、己へ向けられる視線へ、さらにいら立ちを覚えさせた。
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