夕紅とレモン味

 実直な人々が一日の務めを終え、家路を急ぐ時間帯。


 終わりの始まりにして、生命はその姿態を存分に輝かす。


 沈み始めた太陽が、雲間から存在の断末魔を紅色に放っている。


 ――わたしの世界は、その夕紅(ゆうくれない)の色で永遠に固定されていた。



 歳を取ることもなければ、辿りつく場所もない。

 ずっと十八歳の女子高生のまま彷徨する。夕暮れの中を。



 つまるところ、わたしには生きるとはどういうことなのかわからない。ゆえに三年生の秋になっても全く進路を決められなかった。手がかりすら見つからなかった。

 もっと時間が欲しい。それこそ永遠に近接するほどの時間を。それくらいでなければ、わたしには何も理解できそうもない。


 クラスメイトたちは何故こうもいともたやすく、就職先や進学先を決められたのだろう。将来の夢なんて語れるのだろう。ろくに経験してもいないのに、それをやってみたいと思える理由がまるでわからない。

 わたしが判断しようと思えば、あらゆる職業のそれぞれについて熟達したと呼べるくらいに経験を積んだうえで、比較検討する必要がある。人間の寿命ではとてもじゃないけど足りそうもない。


 中でも理解不能なのが歯科衛生士だ。歯科衛生士になりたいと思う理由がわたしには理解できない。アイドルやユーチューバーならまだわかる。しかし歯科衛生士だけは理解できない。何故好き好んで、他人の口の中を弄りまわさなければならないのか。わたしが特別に他人の口を嫌っているというわけじゃない。何故目でも耳でも鼻でもなく、歯なのかが理解できない。


 昔から選択は苦手だ。ファミレスに行っても、自分が何を食べたいのか考えるのにいつも時間がかかった。全てのメニューをじっくりと確認し、それでも不確かな想いを抱えながらなんとか注文していた。


 食べ残すことはめったになかった。よほどの事情が無い限り、パスタでもピザでも鶏のから揚げでもサラダでもわりかし楽しんで完食できる。悩んでいた時間が嘘のよう。どのメニューを選択したとしても、それなりに美味しく感じられるのだ。何なら鶏のから揚げにレモン汁を合意なく振りかけられたって、わたしは文句を言わないだろう。


 ただ進路となると話は別だ。一度の食事とは違い、人生に重大な影響がある選択だ。簡単にはやり直しも効かない。よく考えなければならない、と誰もが言う。

 いつまでたっても決められないわたしを大人たちは責め、同級生たちは自分達とは違う異物のように扱った。長い間ずっと同じ教室で過ごしてきたのに、その態度の急変ぶりがわたしには理解できなかった。


 大人たちが口をそろえて言う言葉があった。


「やってみればわかるよ」

「経験を積めばわかるよ」

「君はまだ若いから……」


 しかしその経験の具体的内容や、判断の根拠を誰一人として語らないのは何故なのか。わたしがそれを訊ねるとと怒り出したり、曖昧な逃げ口上を用いるのは何故なのか……。



 こうして考え事をしていると、思念が夕紅の空へと溶けだしていくようだ。電線の上に並んだ黒いカラスがカー、カー、と鳴いた。彼らはやがて飛び立ち、どこかへ消えていった。


 カラスはどこへ行くのだろう。群れの中で生きることは辛くはないのか。この脳からは問いばかりがあふれ出し、答えらしきものは見つけられない。わたしには自分が何者なのか、どこから来てどこへ行けばよいのかわからない。

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