81 そろそろ三十一歳なので、カクヨムを始めた頃を思い返してみる。
今回が僕の三十歳最後のエッセイになります。
来週には三十一歳です。
ちなみに、カクヨムでエッセイを書き始めたのは二〇一八年の五月です。あと三ヶ月で四年になります。
そう書くと始めた頃と今では環境も考え方も随分と変わったなという感じがあります。
生きているんだから、当たり前なんですけれども。
少し二〇一八年の頃を思い返してみると、二十七歳でカクヨムで公開した三つの長編(「眠る少女」と「南風に背中を押されて触れる」と「西日の中でワルツを踊れ」)は書き終わっていました。
直しは死ぬほどしましたけど、一から書く作業は終わっていて、それなりに満足もしたのを覚えています。
この時、三作を殆ど間隔を空けずに書いたこともあって、僕の中では長編小説を書くリズムのようなものが出来ていました。
おそらく、次の日から新しい作品を書いて良いと時間を与えられたら、似たような作品は幾らでも量産可能だったと思います。
ただ、そうしなかった理由は、プライベート的にも時間がなくなかったからとか、色々当然あるんですけれど、今振り返ると三作を書いて身についたリズムは「なんとなく」生まれた、というのが大きかったように思います。
なんでもそうですけど、なんとなく生まれたものにはシステムも戦略もありません。積み重ねと偶然生まれたものは、その後も、積み重ねと偶然で量産していく他ありません(途中からシステムや戦略が生まれる場合もあるんでしょうけれど)。
僕は本当にそういう書き方でいいのか? という疑問が当時の僕の中にはありました。
小説は書けば上手くなると言うのは、走っていれば足が速くなると言っているようなものです。
そりゃあ続けていれば、ある一定値まで上手くなるでしょう。
けれど、それより先に行く為には、工夫が必要になってきます。
走ることに例えるなら、なんとなく走るのでは姿勢やフォームは正しいのか、自分に合っているのか、という精査はできません。
一定値に達した後の作業は、以前のなんとなくやっていても、それなりに上手くなっていく感覚とは裏腹に地味で苦労の割に進みは遅いものなんだと思います。
陸上競技を見ていても0.1秒を競う世界で、その僅かな時間を縮める為に毎日の練習があることを思うと、陸上に限らず何かを極めようとしている人たちには頭を下げる他ありません。
つまり、カクヨムで僕が公開した長編小説は、僕がなんとなく書ける最大値のものでした。
これを超える作品を書こうと思うと、同じ手法では無理で、まずはこの「なんとなく」書くということ自体を止める必要がありました。
そんな意識が明確にあったか、と言うと首を傾げる部分ですが、おぼろげに今のままでは駄目だと言う感覚はありました。
行き詰まりの感覚の中で、僕はカクヨムを始めました。
ネットに文章を投稿するのは、学生時代に黒歴史的な電波文章をアップした以外で言えば、初めてのことでした。
カクヨムにした理由は友人が「小説家になろう」へ投稿していた為でした。
カクヨムでエッセイを始めたのは、小説を読んでもらうための宣伝の一環だったのですが、今となってはエッセイの方がメインになっています。
そういえば、カクヨムの概要ページがリニューアルして「代表作」という項目ができていて、作者側が設定するのではなく、カクヨム側が一番読まれているものを設定したようでした。
郷倉四季の概要の代表作は最初にエッセイを連載した「オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない。」になっていました。
僕がカクヨムを始めた理由は僕の小説を読んでもらいたい、ともう一つ、友人の倉木さとしのの書く作品も紹介していきたい、と書いてきました。
一つの結論として、あまり僕たちの小説はカクヨム内では読まれなかったんだな、というのが代表作を確認した時に思ったことでした。
もちろん、小説を読んでコメントを下さったり、好きになって下さった方たちがいたのは分かっているし、それは有難いと心から思っています。
単なる事実として代表作はエッセイなのが「郷倉四季」なんですよね。結果、僕はnoteでもエッセイを書くようになりました。
カクヨムでエッセイを書いて、それを多くの人に読んでもらってコメントをもらって、という体験がなければ僕はnoteを始めることはなかったでしょう。
そんな訳で、僕はエッセイをガンガン書いて行くぜ! と言えれば、分かり易いんですけど、最近の僕はエッセイを書きたいと思う欲求が底に沈んで、書いてみても形にならないことが増えてきました。
おそらく、小説を書きたいって言う欲求があるのと、エッセイに関する考えも少し変わりつつあるようで、以前のように瞬発的に書く方法ではない形に変わりつつあるようです。
ホント、人間は変わっていく生き物ですね。
最近、東浩紀のゲンロン戦記を読み返していて、以下のような言葉にぶつかりました。
――やるべきことを発見するというのは、ほかの選択肢を積極的に切り捨てることでもある。30代のぼくは、たんにそれが怖くてできなかった。臆病だったんです。だから、「望めばなににでもなれる自分」を守るため、なにもかもできるふりをして選択肢を捨てずにいた。とても幼稚な話です。
僕はまだ三十代が始まったばかりです。
そして、僕はおそらく「望めばなににでもなれる自分」を持っています。「やるべきこと」もまだ発見していません。
今の僕は「臆病」で「幼稚」な人間です。
そういう僕と三十代は付き合いつつ、変わっていく自分を受け止めて「ほかの選択肢を積極的に切り捨て」て「やるべきことを発見」して行きたいと思っています。
なので、来週三十一歳になることを一つの区切りとして、エッセイの更新を月一にいたします。突然ではあるのですが、「幼稚」な人間のすることですので、ご容赦いただければ幸いです。
と、この文章を何人の人が読んでくださっているのか、という問題もあるんですけれども。
来月からの更新日は真ん中の十五日にさせていただきます。
ただ、それだけでは味気ないので、noteで日記を書いているので、それをカクヨムに流用したような連載ができれば良いなとも考えています。
もはや、カクヨムでしっかりとした活動をしていない訳ですが、細々と続けていきます。
小説も、どういう形かは分かりませんが、読んでくださいと言える日が来るように頑張りたいと思いますので、今後ともよろしくお願い致します。
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