58 映画「あの頃。」が肯定し続ける「今」と共に大人になる。
映画「あの頃。」を見て、今泉力哉監督が気になり「愛がなんだ」のインタビューなどを読み漁りました。
すると、以下のような内容にぶつかりました。
――今泉:最近は恋愛がめんどくさいという人もいて、それは損得勘定であるとか、無駄な時間だから必要ない、という話につながると思うんですね。僕は「恋愛ってコスパが悪い」という発想が一番やばいと思っていて。だって、めんどくさくない恋愛なんて絶対にしたくない、全然面白くないじゃないですか。片思いをして、「メールに返事が来ない」と言って待っていた時間はきついし、地獄でしたけど、本当に大切なのはあの時間ですよね。
面白い人間ってコスパを考えず無駄な時間、それこそ好きな子から「メールに返事が来ない」と言うような内容で地獄のような一日を過ごす人間なんじゃないか、と思うんです。
だって、片思いをしてメールの返事を待っているって、それだけ余裕がある、いわゆる暇な人じゃないと難しいんですよ。
僕の中で面白い人、人間として豊かな人って暇な時間をちゃんと作っている気がするんです。
文學界で國分功一郎と若林正恭が対談している中で、「キューバから日本に帰ってきたとき、印象的だったのが、人と人が仕事以外のことでダラダラ喋っていないことです。仲間と意味なくつながったり、喋ったりする様子が目に入ってこないんですよね。」と若林が言っています。
それに対し、國分功一郎は以下のように返しています。
――よく新聞記者から、「日本でどうしたら民主主義を根付かせることができますか?」って聞かれるんですけど、そのたびに僕は「とにかく時間です。ヒマにすることです」と答えているんです。
若林の「仲間と意味なくつながったり、喋ったりする」時間を描いたのが、今泉力哉監督の最新作「あの頃。」なんだろうな、と言うのが僕の感想でした。
「愛がなんだ」の今泉力哉のインタビューにも通じる部分ですが、人生における損得勘定を度外視した時間を「あの頃。」も描いているんですよね。
そして、そういう時間って期間限定的ではあるけれど、みんな持っていて、それが一般的に「青春」とかって言われるんじゃないかな? と思うんです。
その青春を引き延ばすことが、國分功一郎の言う民主主義を根付かせることに繋がるのか、は分かりません。
もしかすると、大人という社会に完全に出て、例えば結婚して子どもがいても、暇な時間を作るような日々を過ごすべき、という意味で國分功一郎は言ったのかも知れません。
どちらにしても、若林が対談の中で言っている「多動」とか「すぐやれ」みたいな、暇じゃない人のための自己啓発本が平積みされている社会で、暇を作るというのは勇気のいることでしょう。
暇や退屈が敵だって言う社会に僕たちは生きていますが(少なくとも僕はそう感じます)、内田樹のシャーロック・ホームズなんかの記述を読むと、時代によってそれは異なるようです。
――ヨーロッパでは17世紀から第一次世界大戦開戦までの200年ほどの間、貨幣価値がほとんど変わりませんでした。ですから、先祖の誰かが買った国債や公債を相続すると、贅沢さえしなければ、その金利だけで一生徒食できた。
中略
自由に使える小銭があって、暇だけは腐るほどあるという紳士たちが何万人という規模でヨーロッパ各都市にいたわけです。
――この人たちはとにかく退屈している。ですから、新しい芸術運動があると聞けば展覧会に通い、新しい文学作品が出たと聞けば朗読会を開き、新しい科学技術が開発されたと聞けば実験し、北極犬ぞり旅行も、成層圏気球飛行も、地底旅行も、「あ、オレ行くわ。どうせ暇だし」と手を挙げた。
そういう紳士の一人がシャーロック・ホームズだった訳です。
「ひたすら知性と感性を磨いて一生を終え」る人生があったなんて、なんと羨ましい一生だろうと僕は思います。
とは言え、当時の身分の格差は凄まじいものがあったでしょうし、現在から見て決して生きやすい時代ではなかったでしょう。
ただ、術運動や文学作品、新しい科学技術etc.にとって、シャーロック・ホームズのような「知性と感性を磨いて一生を終え」るような人が必要だったのは確かです。
現代的に見れば、「知性と感性を磨」くシャーロック・ホームズはまさに優れた観客です。
東浩紀の「ゲンロン戦記」の副題が「「知の観客」をつくる」で、「知の観客」として優れているのは「自由に使える小銭があって、暇だけは腐るほどあるという紳士」つまり、シャーロック・ホームズな訳ですが、現代にはそんな暇な人間は絶滅危惧種でしょう。
そういう暇のない人間が如何に「知の観客」になるのか、ということを東浩紀は考えており、その答えの一つがゲンロンという会社なのでしょう。
そんな僕は「知の観客」になりきれていない、何者でもない観客ですが、映画「あの頃。」で描かれるような「仕事以外のことでダラダラ喋」る時間を如何に確保すべきなんだろう、と考えるようになりました。
。
かつて僕は「あの頃。」の松坂桃李や仲野太賀が語り合っていたような空間にいて、本当に何の生産性もない酒を二、三人で飲みながら、過ごしていました。
そこでは確かに何もなかったけれど、漠然とした豊かさはあって、僕はそこから多くのものを学んだような気がします。
そして、それを過去形にしつつも、僕は「知の観客」にゆくゆくはなりたいし、「あの頃。」で松坂桃李が演じた劔(つるぎ)の言う、今が一番楽しい日々を過ごしたいとも思います。
劔は楽しい青春的な時間を終えた後でも、今が一番楽しいと言い続けます。それは無理してとかではなくて、本当にそう淡々と思っている。確かに二十代の一番楽しいと三十代の一番楽しいは違う。
その環境にいるからこその楽しさがあって、劔はそれを常に肯定しています。
「あの頃。」という映画が上されると知って、2000年代初頭のモーニング娘が題材になっていると分かった時、僕はタイトル通り、あの頃を懐かしむような映画になるんだろう、と思っていました。
それこそ、戻れないあの頃を懐かしむような映画なんだろう、と。
しかし、「あの頃。」という映画は過去を懐かしむためではなく、今を肯定するためにある、この一点は絶対に譲らない、というような態度を最後まで貫きます。
実際、映画を見た人なら頷いてくれると思うんですが、「あの頃。」ってまったく感傷的でなく、また独りよがりにもなっていない、一種清々しい映画になっているんです。
要因の一つとして、現在もモーニング娘は活動をしており、映画内でも青春期を超えた劔は現在もまだライブに行くくらいモーニング娘を好きでいるからなんですよね。
そういう意味では青春を捨てなければ大人になれない訳ではない、ということを示した作品でもあるのかも知れません。
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