18:黒き蓮華による軍師追放

異変に気づき、駆けつけたらしい梨艶の姿が視界に飛び込んで来た。


「遅かったな秀梨艶。この娘は貰ったぞ――――さあ、愛琳、あれは誰?」



(あれは)




 私の唇を強引に奪ってしまった人。

 心を掴んで行ったくせに冷たくする酷い人。


「そう、それをあの男に吹き付けてやるんだ。その瞬間から、おまえのもの――――」

「愛琳。何をしている」


『お前は俺を裏切ったんだ』


 夜の瞳が切なく煌めいた。でもこれ以上、酷い言葉を聞きたくはない。だから。


《さあ、あなたを私に頂戴。あなたはもう私以外を見ないで! 私だけを、愛して!》


 愛琳の感情を吸い取った香炉がぐんぐんと香気を増してゆく。 


「ぐぁ…っ」その光芒の中央で梨艶が潰れた声を上げ、悶絶した。膝をついて身を捩った。


―――――梨艶?


(あたし。何を…)


苦しそうな声に香炉を投げ出して走り寄ると、香気は光の粒になって、梨艶に張り付いて消えて行った。

 やがて刹那の閃光に貫かれた梨艶は動かなくなり、手を開閉して、はっと愛琳の胸を掴んだ。


「みゃっ…」

「?」


 もみもみ。


 何度も愛琳に触れては、梨艶は眉をしかめている。座り込んだ梨艶は両手を見つめ、動かなくなった。様子がおかしい。後ろで蓮花夫人の笑い声が響いた。


「見事よ、熊猫娘愛琳。その男はこれでお前のものになった。丁度いい。わらわを縛り付けた憎き皇族の興隆の血を引く秀梨艶!お前はこれから生き地獄を味わうがいいわ」


 聞いた愛琳が腰を跳ねさせる。また梨艶の手が今度は腰骨を撫でたのだ。


「そんなことしてる場合じゃない!夫人が!」

「て……ないんだ…」

 梨艶がか細い声で言う。こんな気弱な声音は聞いたことがない。梨艶は両手を床に叩き付けて吠えた。


「俺の男の部分が、全く反応せんのだ、こんな立派な乳に触れているのに!」


梨艶はごくりとつばを飲むと、蓮花に向き直った。蓮花は楽しそうに香炉に口づけしたりしている。明らかにあの朗らかな蓮花夫人とは違う。梨艶が震える声で聞いた。


「皇帝の第一寵姫、朱蓮花貴妃よ……今こそ聞こう。そなたは誰だ」


 必死に愛琳は触られる梨艶の手つきに耐えていた。然し際どい部分を愛撫されても、梨艶は平常心そのものだ。感情が無くなったように見える。

 

―――梨艶の女、感じる感情が無くなった?……だからあたしだけのものになった?


「この女好きめ! お前はどこぞの紅色にそっくりで嫌になる。名乗ってやろう。我は黒蓮華。かつて地上を支配していた華仙界の華仙のひとりのな」

「華仙界だと?」


 この世にあったとされる桃源郷の目撃録は数えきれないほどに残っている。だが、誰も見たことがない、世界の最期の楽園桃源郷と謂われる華仙界。世界の果てにあるとも、超越した先にあるとも言われる神の世界だ。梨艶が文献の一節を無意識に口にする。


「遙昔的美世界地上一。地上之争蔓延刻、其美世界怒之余、空之何処至消去…」


(遙か昔に美しい世界と地上は一つだった。だが地上の争いが蔓延した刻、その美しい世界は怒りのあまり、空の何処へかと消え去ったという―――――)


「遙昔的美世界地上一。地上之争蔓延刻、其美世界怒之余、空之何処至消去」


 再度呟いた梨艶の腕を引っ張った。その言葉は知っている。芙蓉国の天女伝説の一節だ。


「芙蓉国と同じ言い伝えね。……じゃあ本当にあるんだ、華仙界……天女さまの世界…」

「そんなのんきな話じゃなさそうだ」


 見ろ、と梨艶が空を指差した。黒い塊が次々と宮殿に飛び込んでは醜悪な音を立てている。震えあがる愛琳の肩を抱きながら、梨艶はその中央に女王のように立つ黒蓮華と睨みあう恰好になった。


「これはすべて国境からの兵の恨みの念。兵士たちは戦い、死に行く。さぞかしこの国を恨みながらな!その恨みはこの国を滅ぼすに充分。この可愛い陰妖と、この香炉は死への香りを纏う。そうしてこの長き国も滅亡の憂き目を見るであろう」


「まさか…国境の闘いを仕組んで居たのはあなたか!」


 黒蓮華と名乗った天女はうっすらと笑った。


「人の心など、指先一つ、吐息ひとつで導ける。そこの熊猫娘に聞けばよい。ああ、だがお前は暗殺されるのだったか」


 梨艶の身体が瞬発的に動いた。操られた国兵がユラリユラリと揺れながら現れた。


「命令だ! そこの二人を捉え、処刑せよ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る