17:天女の声は
香炉は不気味に金色に鈍く光った。
(これが、本当に天女さまの道具?)
「どんな香もこれで焚くと、媚薬になるというわ。いらっしゃい、愛琳」
蓮花夫人の部屋はいつしか白い布が掲げられていた。こうすると、香りが充満しやすくなるのだと言う。
「蝋を」
ランプの中の芯を切り取り、女官から蓮花夫人がそれを受け取る。その時愛琳は頭を押さえた。
―――――愛琳!それを決して渡すな!
遠くの富貴后の声が聞こえた気がする。愛琳は一度手を止めたが、蓮花は微笑んで、彼女にしては強い口調で愛琳に言った。
「怖気づきましたの? それではあなたは明日、惨めにも蓬莱に追い出されるのでしょう。もしかすると殺されるかも知れなくてよ。秀梨艶軍師は冷酷ですわ」
―――――殺される?
目を瞠る愛琳に蓮花婦人はほほほとコロコロ笑う。
「青蘭の宮中に貴方は入ってしまいましたもの。そのまま芙蓉国に無事に戻れるとでも? ほほ、ここは貴方にとっては敵国なのをお忘れかしら? でも、梨艶が貴方を愛せば、命がけで守ってくれるでしょうね。どんな理由であろうとね」
愛琳は唇を噛んだ。
(梨艶を説得し、どんなことをしても、果たさなければいけない使命がある。皇太子さまにも会えていないのに。……それより、梨艶に愛されてみたい……)
あのつややかな声で名前を呼ばれたら、どんな世界にだってゆけるだろう。この膨らんだ胸を触って欲しい。どうやら、梨艶は愛琳のふくよかな胸が好きな様子だ。
梨艶に愛されたい。気持ちが揺らがない。もう、悩む理由はなかった。愛琳は香炉を蓮花に渡した。
「おりこうな子。それで良いの」
受け取った香炉を手に、蓮花が微笑む。小さな香炉の蓋を抓んで可笑しそうにコロコロと笑い始めた。
「ほほ、こんなに溜めて……それに礼を言うぞ」
蓮花の瞳はゆっくりと開いてゆく。瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が愛琳を襲った。蓮花の眼は、深紅に染まっていた。魔物の眼だ。
「蓮花夫人、瞳、開けられた.....の.......?」
目を開けた蓮花はまるで別人だった。
赤い瞳を持ち、黒髪は濁流のようにたなびき、声は可愛らしいそれから、まるで女王のように腹から響く迫力を持ち――
「奪われし香が我が手に戻った! 感謝するぞ熊猫娘よ」
低く唸るように彼女は言い、両手を広げた。不穏な紫の靄が蓮花を包む。その異変に気が付いた蓮花の女官が金切声をあげた。
「不躾な女官。しばし静かにしておれ」
目の前で女官が胸を切り裂かれて倒れてゆく。その血しぶきの向こうで、蓮花はその香を高く掲げた。
愛琳はあまりのことに声が出せない。
様変わりした蓮花夫人を唖然とした瞳で視界に呼び込むように見やるのが精いっぱいだった。
「さあ、約束の神宝を取り返しましたわ! 今こそ我を美しき天にお還しを!」
し―――――――――ん。
「何も起こらないね」
血しぶきを上げた女官の姿は掻き消えてしまい、何も残ってはいない。そこでようやく愛琳は何かがおかしいことに気が付いた。
「蓮花夫人…...?」
「紅…かくもわらわを愚弄するかぁっ!」
連花の瞳を無数の黒い影が飛び回っては消えてゆく。
妖霊だ。蓮花夫人は何かに憑りつかれたかのようにユラリと立ち上がった。
「ふ…ふふ…それならそれで良い……ほほ、おぬしの心は操りやすそうだ。愛琳」
――脳裏に染み付くネットリとした声。すべてを支配しようと蠢き始める。愛琳は逃げる間もなく、妖に囚われて行った。
闇の女王が微笑んで肩に腕を伸ばしている。耳元に優しい声が滑り込んだ。
そなた、梨艶が欲しいのであろ?
想う通りにして、閉じ込めておきたいのであろ?
この香はそれを可能にする。永遠に梨艶の心はお前のものになる。華仙界の神宝『双の香』の前には誰も逆らえんのさ。
さあ、どうだ?
欲しいだろう……そら、やって来たぞ。
またあの男はおまえに侮蔑を投げつけるだろう。おかわいそう。心はぼろぼろで、それでも信じてゆくしかない…
ふ、フフ…おまえ自身、そんな屈辱は嫌だとわめいているぞ。ほぅら、捕まえたーーーーーー
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