◇芙蓉国女官 愛琳 雨に濡れて乳揺れる。

1:熊猫娘と夜空色の龍

 天から滴が降り注ぐ。冬の雨は雨霰のように激しくなるから好き。とはいえ少し激し過ぎる。傘からはみ出した腕に当たった水滴に思わず顔を顰めた。


「まずい、これじゃ富貴后さまの衣装、濡れてしまうよ」


 山脈近くの風土が特徴の我が芙蓉国が雨に見舞われるのは仕方がない。ぱしゃん、と水たまりを揺らして、走り出したところで、ちょうどいい軒下を発見。もう閉まっている茶屋の下に落ち着いて、額に張り付いた髪を指で払う。行き交う人がもの珍しそうに自分を見ては、そそくさと去って行く。びしょ濡れの女がそんなに珍しいかと王愛琳ワンアイリンは、ハタと気付いた。


 皇極の宮廷衣装は薄い布を何重にも重ねた言わば重ね着スタイルで、その上に被った被きは水を吸い込んで少し透けている。どうやら荷物ばかりを庇い過ぎたせいで、自分は雨霰の餌食になってしまっていたらしい。芙蓉国国后、富貴后さまの女官として失格。

 それでも主の衣装が無事なのを確認して、ほっと一息を付いた。


 ここは芙蓉国を少し離れた商人と娯楽の都、蓬莱都。芙蓉国国后である富貴后は蓬莱の衣装を甚くお気に召していて、愛琳はその衣装を引き取りに度々蓬莱を訪れている。


「無事で良かった。急に降るんだもの」


 ぎゅっと濡れた袖を絞って、解れた髪をより分ける。芙蓉国女官の規則は厳しい。女官は髪を降ろすことはおろか、髪飾りも許されない。愛琳はきっちりとふわふわの髪を二つに分け、頭の両端に持ち上げ、それを地味なピンで止めていた。


ちょうど耳があるようにも見えるので、あだ名は熊猫娘。

ただ、何故か髪の色は桃色。桃色熊猫娘はしばらく雨霰を睨んでいたが、やがて雨嵐の中走り出した。富貴后がおわす巌環苑まではあと少し。走ればすぐにつく距離だ。

何より御忍びの国后を独りにしておくのは心配である。


「背に腹は代えられないね! 行くよ、愛琳!」


 自分に声をかけ、一歩踏み出したところで、愛琳は何かに腕を引かれ、地面に見事に顔面から落ちた。べしゃ、と水飛沫の上に降り注ぐ雨霰にぶるぶると頭を振った。


「何するね!あなたなんで今腕引っ張った。だからあたし転んだね!」

「傘を持っているだろう。何故使わない? 要らないなら貸してくれないか」


 聞いた愛琳は相手を見る。相手は相手でもっと酷く濡れていた。黙って傘を差し出した。


「あたしの目的地は近いから。蓬莱都は雨霰の都ね。傘忘れるなんてぬけてる」

「ここは初めてなので」と相手が忌々しそうに結ぶ。


「持って行けと言った言葉を無視した俺が悪いのだが。やれやれ、忠告は聞くものだな」


 ――夜空だ。


夜の空の色の瞳。同様に零れ落ちる艶のある黒髪は僅かに青味を帯びている。見据えたような瞳はさっきから動かず、愛琳はその視線を辿る。透けている自分の胸元に熱く視線が注がれているのを知って、慌てて衣装で胸元を隠した。


「何、見てる」

「隠すな、見えなくなる」


(隠すな?今隠すなって言ったか?!)


 男が忍び寄るのを信じられない静止した瞳で見つめる。見事なほどに黒い髪を肩まで垂らしており、刺青も見える。さては盗賊の類いかと愛琳は見えないように立てかけてあったそれを後ろ手で掴んで腕を引いた。

 長さ二メートルほどの薙刀。柄につけたガラス玉の御守りがコツンと音を立てる。だが相手は動じずに、突き出した薙刀の刃の部分を指で押さえた。


「勇ましい女だな」

「あなたさっきからどこ見てたね!…あ、あたしの何を見てた!」


「不服ならお前の顔を見るとしよう。見事な紅色の口元だ。冬に咲くには鮮やか過ぎるが艶やかなのは嫌いじゃない」


 くい、と長い指が愛琳の顎を抓む。


 重なった二人の間にも、しとしとと雨は降った。愛琳の頬の雨霰はさっきより強いが、すべてが麻痺したようにぼんやりと霞む。…ぱちぱちと目元が何度も痙攣するかのように瞬いた。ぺたん、と愛琳が地面に座り込んだ前で、男は事もなげにさらりと言う。


「出会いがしらに薙刀などで殴られてはたまらないからな。では傘は借りる」


 男は笑いを含めた声音でそう言うと、背中を向けた。その服の縫い取りの紋章。…龍と鳳凰が絡まる絵は確か――。


 ばしゃん、と皇后の衣装が水たまりに落ちる。それがゆっくり沈んで見えなくなるまで、愛琳は座り込んでいたが、やがて正気を取り戻すと、雨霰を霧散させるかのように叫んだ。


「芙蓉の女、青蘭国には屈しないね !衣装どうしてくれる! おまえ、今何した!」


 勿論その男は速足で去って行った為、その声は届きはしなかったが。

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