人の心にある思いがあらわにされる時代 ~他人を分かりたい、という気持ち~

 シメオンは彼ら(イエスと両親)を祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子(イエス)は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」



 ルカによる福音書 2章 34~35節



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 私は、子どもの頃親の転勤の都合で、何度か転校している。

 一番最初の大きな引っ越しが、小学校3年の頃。大阪から、千葉県へ移り住んだ。

 当時の、大阪の小学校のクラスのみんなが、ささやかながらも放課後「お別れ会」をしてくれた。

 事情でどうしても、という子以外、クラスメイトはほぼ出席してくれた。



 その時のことで、四十を過ぎた私の記憶にまだ思い出として残っているのが、意外なことにその時一番「気にもしなかった、どうということのなかったこと」なのだ。 年齢を重ねるにつれ、それは私の中で大きな意味を持つようになっていった。



 クラスメイトに、Dさんという女の子がいた。

 クラスに30人以上も子どもがいたら、同じクラスでもどうしてもほぼつるまない子というのは生じる。ほぼ会話もしないし関わりもないというような。

 Dさんとは、男子と女子という性差だけのこと以上に、なぜだか接する機会がなかった。当然、普段関わりがないということはその子に「関心が湧かない」ということだったのだろう。まぁ、当時の私にとってDさんは好きとか嫌い以前に 「空気のようなもの」であった。



 そのDさんも、お別れ会に参加してくれていた。

 彼女はその時も、最初その他大勢に紛れていて、私は仲の良かった者と主に会話をしながら、離れた席にいたDさんに注意を払うことはなかった。だが、否が応でも注意を向ける事態が起きた。

 Dさんが、急に泣きだしたのである。

 それもまぁ、大声で。



 お別れ会には、クラスメイトの父兄が何人か保護者役でいてくれてたので、すぐさま「どうしたの?」と大人たちがフォローしていた。そのフォローが見事だったからか、私の記憶の中では、Dさんがずっと泣き続けていたという記憶はない。

 果たしてその後、Dさんは私と会話する機会を得たのか、私たち二人はちゃんと「お別れ」を言い合えたのか、そこの記憶がまるでない。

 覚えているのは、ただ「Dさんが泣いていた」という事実のみ。



 当時、まだ子どもだった私は、ふたつの理由から、泣いたDさんの気持ちなど特にどうでもよかった。



①友達として興味のある対象じゃなかったこと。(親友やよくしゃべる子ならまた違ったかも)


②引っ越しによる別れを、私は「悲しい」ことだと思っていなかった。むしろ、新しい地に暮らす、という初めての経験にワクワクさえしていた。だから、悲しくて泣かれてもその気持を理解しにくかった。



 人間、関心のない対象のことをあれこれ知りたいとは思わない。

 興味のない対象にどんな事情や背景があろうと、どうでもいい。

 人間、自分の今の気持ちと正反対の気持ちの者を理解するのが難しい。

 親しい人、自分にとって「付き合う価値のある、大事な人」であれば、頑張ってでも他者の気持ちを理解しようとすることがあるが、関心のない人間の気持ちなど苦労して分かろうとは思わない。



 40過ぎた今になって、小学3年の頃のDさんの涙を思い出した。

 で、すごく思ったこと。



●分かりたかったなぁ。

 分かってあげたかったなぁ。

 あの涙の意味を。その気持を――



 今という時代、様々な人間の「感情問題」が噴出している。

 こんなにも機械化され、社会制度や経済・流通も複雑化した、頭の良い人間が作り上げた世界。そこに住まう人間が今、隠しきれない感情の「幼稚さ」を恥ずかしげもなく出しているのを見る。

 頭の良さ(知識量・分析力)と感情とは別物である、とつくづく感じる。

 例を挙げればキリがないが、ネット上でも現実世界でも、常に皆の「感情」が高速道路を行き交う車のように、飛び交いまくっている。気に食わないと、すぐに噛みつく。批判する。

 その逆もあり、ひとたび賞賛を集めれば、それは驚くほどに人を持ち上げ、勝手にスターに祭り上げる。でいて、飽きたらポイッと捨てる。とにかく、皆極端だ。

 


 今回紹介した聖書の箇所は、シメオンという神に仕える立派な人物が、赤ん坊のイエスを抱いた母マリヤがやってきた時、イエスを「救い主・メシア」であると見抜いた。そこで、母マリヤに言ったセリフである。

 シメオンは、イエスが遣わされた目的のひとつについて、こう言っている。



●人々の「思い」が明らかになるため。



 体の中に腫瘍があれば、手術によって摘出される必要がある。

 言い換えると、患部がくっきり暴かれないといけない。

 問題というものは、光が当たり明るみに出てこそ、解決の第一歩となる。

 今の時代、問題だらけに思えるが、それはある意味 「解決すべき問題が誰の目にもはっきりと分かるように提示してもらえている」という見方もできる。

 問題解決の補助を宇宙にしてもらっていると思えず、ただ 「何て時代なんだ」とだけ恨むなら、そんなプレイヤーに「この世ゲーム続行のプラチナチケット」は、宝の持ち腐れかもしれない。



 今、激しく世界は揺さぶられている。

 あらゆる思いが隠しておけなくなり、すべて見える形にあぶり出されてる。

 それに対する反応を日々引き出され、すべての関係者が「どんな思いを選択するのか」の正念場に立たされている。そういう意義が理解できない者達は、ただただパブロフの犬のように、気に入らない政治家や芸能人を腐し、まるで正義の代弁者のような顔をして自分が満たされない鬱憤を晴らす。

 で、そういうことには無意識でいられる特殊能力を身につけ、それは自分の正義や善を愛する心から来ている、とうぬぼれることができてしまう。



 私がかつて、Dさんの涙を何とも思わなかった体験から、その「理由」の逆をすればいいと感じている。そこで、今の時代皆に求められる「優しさ」とは——



①興味のある対象じゃなかったこと。(親友やよくしゃべる子ならまた違ったかも)


 →他人に 興味をもとう。もちろん、他人(特に有名人)の不幸や失敗を喜ぶゲスい方向ではなく、「本当のところどうなんだろう」「本人なりに一生懸命だったはずだから、どこで間違ったんだろう」という見方。それだと、攻撃して終わりでなく、いつか 「わが身」の時にも応用できる知恵ともなる。



②引っ越しによる別れを、私は「悲しい」ことだと思っていなかった。むしろ、新しい地に暮らす、という初めての経験にワクワクさえしていた。だから、悲しくて泣かれてもその気持を理解しにくかった。


 → 自分と反対の価値観や考えをもつ人物でも、ゆるせないような、あなたには信じがたい行為をした人物であっても、分からないなりに少しでも「思いやってみる」余裕を持とう。

 


 私の感覚だと、今の時代の人は「反応」を垂れ流し過ぎ。

 安逸な政治家や芸能人叩きは、一部の例外を除きみなただの「反応」だ。

 反応であれば、(サルに失礼だが)サルでもできる。

 反応とは、熱いお湯がかかったら「アチッ」と熱がることである。

 人間の特質である「思いやり」「奥行きのある立体的思考」「他者の立場にできるだけ立つ」ということを怠けると、特定の人物が人柱的に血祭りに上がる社会、逆に大したことなくてもツボれば大人物に変身させられる社会が出来上がる。

 それは、サルにも顔向けできないほど恥ずかしい、未成熟の社会である。



 私が最近、Dさんへの過去の思い出によって感じた「分かりたい」が、日本や世界の危機を救う鍵であるように思える。皆、自分のことに忙しすぎて他人に関心がないのだ。

 皆が関心のあるのは、相手のネームバリューや地位やカネ。自分にとって相手がいかに付き合ってメリットのある人物かどうかばっかり。

 本当に人に関心をもつとは、その人が「いかにして今のその人になったのか」を知りたいと思うことである。一体何が、その人物がある信念をもつようにさせたのか、その謎を知りたいと考えることである。なぜか、を知るということは同時に「その問題の解決の糸口も得る」ことでもある。

 しかし、人間関係において「損得ゲーム」だけしていたら、いつまでたっても人の心の問題は解けない。もちろん、一番の鍵は本人自身であるが、すべて「自己責任」 では、人の間と書いて「人間」である意味があまりないと思えるのだが、いかがか?



 近年ウケる傾向のあるスピリチュアルには、「自分」ばかりに注目する傾向がある。「自分の意識」ばかり。そこさえちゃんとしておれば、まるで外界のことや他人の気持ちなどがどうでも、自意識に取り組むだけですべてが解決する、と言わんばかりの勢いだ。

「他人」という視点があまり触れられないのが、近年のスピリチュアルの傾向。



 スーパーマリオのゲームで、クッパの狙いはマリオに「失敗」させ、自分のところに到着させないようにすることだ。今の時代に皆が「不届きなヤツつるし上げゲーム」 「ちょっとウケたやつに熱狂ゲーム」をしていることは、嫌悪や軽蔑・卑屈の裏返しの称賛などのエナジービームが飛び交っている様は、まさにクッパの思うつぼなのだ。

 マリオは、ボスにたどり着く前に自滅する。そんなの癪じゃないか?



 敵の狙い通りに罠にかかるなんて、知的生命体の名がすたりませんか?

 立ち止まるなら、今です。

 何も、他人の不正をゆるせとか、チャラにしろとかいう意味ではありません。

 やったことの報いは、ちゃんと受けてもらう。それがこの世界の理(ことわり)。

 でも、思いやりは待つことができる。

 罰して終わりじゃ何も生まれない。なぜ、そのような罪を犯す者が出たのか。本人の悪質さとは関係のない部分で、もしどうしても 「その時代の欠点や制度の穴」 などのせいで追いこまれた部分があるなら、今後それに取り組むことで、第二第三のその人を生むことを防げる。



 私には、この世界が何の教訓も生かさず学ばず、どんどん同じ過ちを犯す者を輩出しているように見える。この世界は、政治のトップに立つような頭の良いヤツが動かしているんだろうが、心は「二流」だと見える。

 表向きの大統領や首相は裏の実力者の「傀儡」の可能性もある。もしそうなら、真の実力者も「ボンクラ」だろうね。

 ソイツが仕切っていて、世界がこの有様なんだから。



 何度も言うよ。

「分かりたい!」

 このエネルギーだよ。

 これを好きな人間、利害の一致する人間に用いているだけだと、あまり意味はない。特に、他者を批判をしたくなった時、攻撃したくなった時。これを思い出せ。

 そこまでして、「分かった」上で判断する分には、もう批判でも仕方がない。

 でも、かなりのケースで——



「反応まかせにして動物的に生きていたら、ただこき下ろしていただろうが、落ち着いて視点を変えて見る工夫をしてみたところ、違う感想が出てきた」



 ……ということが増えるんじゃないか、と思う。

 その武器でないと、今後の世界崩壊のシナリオを食い止められない。

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