イエス、死の直前に弱さを学ぶ ~十字架~

 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

 これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。



 マタイによる福音書 27章 46節


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 イエスは、皆さんが思うところの「悟りを開いた人」である。

 悟りを開く=もう完璧で、以後何も学ぶことなどない、と思われるだろう。

 ある面、それは当たっている。

 でも、この世という、変化というものから逃げられない諸行無常の二元性世界に身を置いている以上、現象上ではあるが「絶対」というものが存在しない。

 だから、覚者と見える人でも、「学ぶ」という現象が起こる場合がある。

 世界の歴史を代表する「覚醒者」のイエスの人生にも、その実例が観察されるのである。



 イエスは生前、自分の死をある程度予測していた。

 ただし誤解のないように言っておくと、だからといって死にたがっていた(望んでいた)ということはまずない。

 自分が時代の先の先を行き過ぎ、理解されない人の手によって殺される可能性を察知していた。ゆえに、弟子たちには数度「私は権力につかまって死ぬだろう」と予告めいた説教をしている。

 イエスには当然、自分が「覚者」であるという自覚があった。

 その確信から湧き上がってくるのは、「宇宙のすべてはあるがままにあり、最善」ということ。素直な「今ここ」の思いとして、イエスは何が起ころうがその軸というか、確信が揺らぐとは実感として思えなかった。ベタな言葉で言えば——



『負ける気がしませんわ』



 だから、イエスが自分の死期を予告する言葉に動揺する弟子を諌め、死は世界の一部であって悪いことでもなんでもない、と叱咤激励した。

「例えあなたが死ぬことになっても、私は先生のそばを離れません!」

 お調子者のペテロがそう言った時も、イエスにはその付け焼刃の強がりの正体を見抜いていた。

「お前な、言っとくけどね、鶏が鳴く前に、私のことを三度知らないって言うぞ」

 この時のイエスは、悟ったという上の立場から、ペテロの弱さを観察していた。

 実はこの時、覚者イエスは知る由もなかった。

 今、悟っている実感とともに涼しい顔のイエスが、死が近付くにつれて弱くなっていくことを。

 


 イエスは、予感した自分の死を消化するために、あらゆる機会に「覚悟を決めた」。十字架にかかる前の様々なエピソードの中に、腹をくくって死を受け入れ、堂々としていようと心の中を整理するイエスの姿を見ることができる。

 最後の晩餐。

 ユダの裏切り。可能性の次元ではなく、本当に十字架の道が確定した後の、イエスの長い説教。そのあと、有名な『ゲッセマネの祈り』がある。



●少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」



 マタイによる福音書 26章42節



 覚者、たって人間だ。

 そりゃ、いざ拷問を受けながら死ななきゃいけない、ってなったら怖いさ。

 怖くないなら、覚者である以前に「人間」じゃない。

 イエスは、ここでちょっと動揺した。

 あれっ? と思った。

 自分はこれまで、用意周到にも死へ向かう「決心」を、何度も固めてきたではないか? 「腹をくくる」ことを、意識的に何度もしてきた。

 そして、よしこれで十分、と思った。

 できたと思ったから、心の定まらない弟子たちを叱咤してきた。

 でも……やっぱり心がグラつくじゃないか。

 おおう、これはもう一度、決心の固め直しじゃあああ!



 だからイエスは、ここであわてて「腹のくくり直し」をした。

「今ここ」の幻想のすごさを知ったのだ。

 覚者は、時々幻想をナメる。

 究極的にはナメても問題ないのだが、自分が肉体をもって幻想ベースで生きていることをお茶目にも忘れることがある。で、手痛い現象が起こってハッと我に返る。

 あ、そうだ。幻想世界で遊んでいたんだった!

 そこで、普段の「起きることをすべて受け入れる平然とするモード」から、「キャラクター演じる一般人モード」にいつのまにかなっている自分を発見する。

 皆さんは覚者と言われる人物のかっこいい側面しか見ていないかもしれないが、そんなことはよくある。



 逮捕され、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ——

 手足に釘打たれ、十字架にかかる。

 もうそれは、味わってみて初めて分かる痛さ、苦しさだった。

 覚悟は決まった。自分は、あくまで自分が宇宙の王である威厳を持ったまま最後を遂げる——。そう思えていたからこそ、他人にも「お前らも覚悟を決めろ」なんて平然と説教タレることができた。

 でも、いざその立場に立ってみたら、「一番覚悟のできていなかったのは、自分」だという恥ずかしい事実を突き付けられた。

 あんだけ、今まで覚悟を固めてきたのに! できてたつもりだったのに……

「怖えええええ! あと、痛てええええええ!」

 カッコよく抵抗せず役人につかまり、裁判の席でも命を惜しまない見事なセリフで決めたまでは良かったが……拷問がエスカレートする中、イエスはだんだん弱気になってきた。



 その弱気が、最高潮に達したのが、冒頭の聖書の言葉のシーンである。

 覚者が、幻想のすごさに屈して叫んだ、衝撃のひとこと。

 ~のせいだ、なんて「他の何かのせいにしない」「被害者意識を持たない」というのが覚者の教えなのに! 苦しさ極まって、何とイエスは「宇宙の王が、他の何かのせいで自分があってはならない理不尽な状況を味わわされている」とちょっとでも思ったのだ! で、これを口にする。



「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんですか!?」

(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)



 覚者も、この程度だ。

 世で売れている覚者がカッコ良く見えるのは、時代が平和だからだ。

 そんな風に化けの皮が剥がされるほどの事態が起こりえないから。

 その点では、私もだ。

 どんな言葉を言ったって、殺されることはない。(多分)

 せいぜい、チクリと批判的なコメントを何か言われる程度のことである。

 覚者イエスは、実感として思ったことだろう。

「幻想って、すげぇ……」



 で、ここからなのである。

 イエスの本領発揮は。

 もともと悟った人が悟る、というのも変だが——

 イエスは最後の最後、『もう一皮むけた』。

 成長したのだ。

 それはどういう意味でか。



 イエスは、人間の弱さを見てきた。

 あれだけ慕ってきた群衆も、自分が逮捕された今誰も味方ではない。

 弟子たちも、皆散って逃げた。

 第一弟子のペテロは、「絶対におそばを離れません」と言ったが、やはり逃げた。(予想できていたとはいえ、現実にそうなるとやっぱり寂しかった)

 ユダには、裏切られた。

 それを悲しい、と思っている自分がいる。

 でも、よく考えたら……私は彼らを責められるだろうか?

 彼らの非を嘆く立場にいるだろうか?


 

 自分だって、今何て言った?

 世界は自分を見捨てたのか? って恨み節言ったんちゃう?

 元気な時代は皆に「自分の外の何かのせいにして、被害者意識持ったらあかんで~」と説教しておいて、今そういう自分が、その間違いにハマってもうてるんとちゃうん!?

 そやそや。

 悟ってる、悟ってへんやない。

 結局、同じやったんや。

 ああ、笑えてきた。



「アハハハハハハハハ」



 もちろん、苦しみの絶頂にいるから、見た目にも笑ったということはないだろう。

 だが、イエスの心は笑っていた。

 なんだ、そうか。そうだよ。

 自分は今まで、すべてを見切って、超越した気でいた。

 何が起こっても、ただそうであるだけだ、と見切ることが力だ。それが完全だと思ってきた。でも、この状況に至ってやっと分かった。



 弱さは力だ。

 私は今まで悟った立場として、弱いと見える存在に色々説いてきた。励ましてきた。彼らの力になってきたつもりだった。

 でも、 違った。

 私も、弱かったんだ。

 結局、みんな弱かったんだ。

 それを、この世界に体験しに来たんだ。

 弱いという概念は、「強い」がある前提の言葉だ。なら、世界に「弱い」しか存在しないなら……それはもう「弱い」ではないのでは?

 比較する概念がなければそういう言葉自体が成立せず、「弱い」は存在しない。

 ただ、そうであるだけ。それだけが存在する——



 この瞬間、本当の意味でペテロもユダも許すことができた。

 自分を苦しめる幻想上の存在も。いい時にはチヤホヤし、いざとなったら知らん顔する群衆も。だって、責めてる自分自体が、彼らとそう変わらないという気付きを得たのだから。

 ……何だよ、ペテロにお前鶏がなく前に三度私を知らないって言うよ、って予告したけど、人のことは言えないなぁ。私も、神様のせいだ、って苦しかったとはいえ公衆の面前で叫んだんだからなぁ!



 だから、一瞬は自分の不幸を外の何かのせいにするモードに囚われたイエスだったが「それでいいんだ」という悟りのあと、安らかに息を引き取った。

 私は見てきたわけではないが、その最後は穏やかで、肉体の苦しみとは関係のないところで「くつろぎ」があったのではないだろうか。

『永遠のゼロ』という日本映画で、特攻により最後を迎える宮部久蔵が「ニヤリ」と笑ったことにも通じる。その立場にない私たちには理解しがたい笑みだが、それこそが最高の境地。



 イエスは、十字架上で「強さ」を見せたのではない。

「弱さ」を見せたのだ。

 そして、その弱さこそ「強さ」であることを世界に知らしめたのだ。

 それでOKだと知らせた。それを越えようなんて、お前一体何になるつもりだ?

 オレの人生を見ろ。そしたら、強くなるために何かを目指そう、目指してそうなれなかったら自分はダメなんだ、なんて思わなくなるやろ!

 イエスの生涯は、お手本なのではない。ひとつの失敗であり、弱さであった。

 でもその人生は、二千年を経た今も、パワフルに物語っている。

 そのままで、ええんよ。

 何かしたつもり、何かになったつもりでも結局同じところにおるんよ。

 だったら、それでええやんか……と。



●『キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが……』



 コリントの信徒への手紙二 13章4節



●『わたしは弱いときにこそ強いからです。』



 コリントの信徒への手紙二 12章10節



●『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 』


 

コリントの信徒への手紙二 13章9節 



●『自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。』



 コリントの信徒への手紙二 12章5節

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